無という境界
水月
『Who_are_you?』
眩い光がまぶたの裏まで溢れてくる。ちょうど、蛍光灯を付けたままベッドに寝そべったように、上方から光が差している。ああ、電気を付けたまま寝落ちしてしまったのかもしれない。まだ眠気でまぶたすら動かしたくないほど、身体が重かった。しかし、その光は刻一刻と、突き刺すような鋭さをもって迫ってくる。ただの蛍光灯の明かりにしてはおかしい。そこでようやく、微かな違和感に不安を感じ、目を開けた。
強い光に目がチカチカする。光源を直視してしまったのか、視界に緑っぽいものがいくつも浮かんでユラユラ揺蕩う。自宅の蛍光灯はこんなに光が強かっただろうか?そんなことをぼんやり考えつつも、なかなか治まらない視界に、頭が揺さぶられているような気持ち悪さが込み上げてきた。ただ、目を閉じても緑のモヤモヤはまぶたの裏にも浮かんでいる。確か、室内照明でも長時間直視すると網膜がダメージを受けるとかなんとか…どこかで聞いた気がする。そこで一旦諦めて、視界の揺らぎが収まるまで、薄目で白い天井を見つめていた。ああ、やっぱり電気の消し忘れじゃないか。さすがに一晩中付けていたら電気代が勿体無いから、消しておこう。そう思って、ふらつく身体で立ち上がったのだが…。
そこで、異変に気付いた。
自分が立っているのは、自室ではなかった。おおよそ見覚えのない-飾り気のない、壁も天井も真っ白な部屋だった。それだけならまだしも、自室ではあり得ないくらいだだっ広い部屋だ。まるで美術館の展示室のような…、おまけにどこにも家具の類、窓、扉すらもない。壁や天井はのっぺりとしていて、現実のものとは思えない。壁紙の微かな凹凸や模様すら見受けられず、プラスチックの板のように無機質だ。照明器具はなく、光と思っていたものは、壁や天井が自ら発光しているようだ。窓や開口部もないのに、真昼間のように明るいのはそのせいだ。自分はそんな不気味な部屋の真ん中に、寝かされていたらしい。
あまりの現実味の無さに、やがて疑問は底知れない恐怖に塗り替えられて行く。ここに来る前は何をしていた?なぜこんな部屋にいるのか?誰かに連れて来られたのか?だとしたら誘拐?その目的は?行き場の無い恐怖が自分の中で渦巻いて、身体の芯から熱を奪っていくようだ。そもそも、これはただの人攫いなんかじゃない。身体の自由を奪ったり、痛めつけたり、そういう悪意はどこにも感じられない。そちらの方がよほどマシかもしれない。善意も悪意も、目的すら見えないというのはこれほど怖いと感じるものなのか。そういえばさっきから自分の息遣いや足音以外は何も聞こえない。他人の気配すらない。試しに、
「ア、アー…」
と掠れた声を出してみても、僅かに反響している以外はまるで反応がない。もうとにかく、相手の出方が分からない以上は思いつく限りの手段を使って探るしかない。誰かが別の場所でこの状況を観察している、そういう漫画のようなことも考えられなくはないが、なりふりかまっていられる状況ではない。何もない、ということは、睡眠は問題ないにしても食事や排泄は出来ない可能性がある。ひとまずこの状況を凌ぐ方法を考えなければ…。
手始めに、一番手近な床に触れてみた。石造りのようなツルリと光沢がある材質。しかし、硬く冷たい感触かと思いきや、指先を包み込むように僅かに沈んだ。なるほど、床に寝かされていたわりに身体がどこも痛まないというのは、このマットレスのような床だったからだ。そのくせ歩く時には普通のフローリングのように硬質に感じるのはおかしいが…。ともかく、布団やベッドの類がなくても、ある程度快適な睡眠はできる環境らしい。床材が未知の素材かもしれないという不気味さにはとりあえず目を瞑ることにして。
次に、天井には届きそうもないため、壁を探ろうと部屋の端まで歩を進めた。とりあえず見渡しても換気口やそれらしい取手の類はないのだ、まず天井には何も無いだろうと思うしかない。だとすると、仕掛けがあるとするなら壁しかないのだが…。
壁に触れると、先ほどの床と同じく無機質な光沢があるくせ、柔らかい弾力のある材質だ。防音室にあるクッションのような壁が近いかもしれない。ただ、やはり見た目と材質が合っていないというか、そういう気味の悪さは拭えない。何か音が拾えないかと思い、耳を当ててみたが、柔らかい壁の感触と、自分の肌が擦る微かな音以外は何も聞こえなかった。壁を叩いてみたが、柔らかい壁で大した音も出ない。漫画ならここで「誰かいないか!」とか「ここから出せ!」とか言うのだろうが、効果がないということはぼんやり感じられた。むしろ自分以外誰もいなかったら、そんなことをありったけ叫んでみただけで体力の無駄だ。食事がとれない以上、無駄な体力は使わないように気をつけるべきだ。
ひとまず部屋を見て回ったが、抜け道の類はおろか、誰かの意思や目的が感じられるものすらまるでない。糸口がなければ思考や推測も意味を持たない。これは万策尽き果てたと、そういうことなのだろうか…。ズルズルと、壁にもたれて座り込む。このままじっとして状況が変わるのを待つしかないのだろうか。せめて食料があれば良いのだが。餓死は辛いと聞いたことがある。どうせ死ぬのならもっとマシな死に方がしたい。なるべく痛みも苦しみもなく、楽に意識を失えるような…。そういえば凍死ならそこまで苦しくないとか、百合の花の成分を摂取すれば苦しまずに死ねるとか。そんな都合よく死ねるかよと笑った記憶があるが、やはり最後は苦しまずに死にたいと思うのが人間の性だ。
「死にたく、ないなあ」
死ぬことばかり頭をよぎっていた自分の口から、あっけらかんとした言葉が溢れた。諦めの感情と、どこか泣きそうな震えと、明るい調子がないまぜになったような…。ああそうか、こんな状況でもやっぱり死ぬのは怖いか。他人事のようにぼうっとした思考で、それでも本能的には「死にたくない」と思っていることに、少し安堵した。それはまだ自分がこの不気味な状況においても正気を保っているという証拠に他ならないのだから。
その時、背後の壁で微かにカチリという起動音がした。おそるおそる見上げると、今まで継ぎ目すら見当たらなかった無機質な壁に、小さなモニターのようなものが現れている。どこから現れたのか得体が知れないが、緑色の文字が画面を走っている。とにかく、状況が進展したらしい。藁にもすがる思いで、立ち上がってモニターの正面に立った。
最初はプログラムのような英数字の羅列が目まぐるしく入れ替わって表示されているだけだった。その動きが、段々早くなり、明滅し…、
『complete.__』
と表示されたまま、パタリと動きを止めた。今のは何かの起動画面だったのだろうか?IT関連には詳しくないから、一体何をするプログラムなのかはさっぱり分からなかったが…。そして、次の文字列に切り替わる。
『welcome_』
どうやら、自分と意思疎通を図っているらしい。こんな所に放り出しておいて、第一声が「ようこそ」なんて馬鹿げた奴だが、反応が返ってきたのは僥倖だ。相手が悪意であれ、善意であれ、接触を望んでいるのであれば、相手の目的やこの状況の説明くらいは聞き出すことが出来る。もっとも、英字は苦手なのでせめて日本語に翻訳して表示してくれると助かるのだが…。モニターを見つめながら、相手の出方を待った。
『please_tell_me_』
『who_are_you?_』
学生時代のおぼろげな記憶を辿る。tell=伝える、だったから…「私に教えてください」だろうか?「お前は誰だ」とは白々しいが。ただ、ここへ閉じ込めた人間と、モニターを介して話している人間はもしかしたら違うのかも知れない。そうなると、場合によってはモニターの相手さえ説得できれば、部屋から出られるかも知れない。
意気込んで、モニターに向かって名乗ろうとしたその時、ようやく自分が一番重要なことを見落としていたことに気付いた。
自分は誰だ?
今まで意味の分からないことばかりに気を取られていたが、そもそも「何をしていたのか?」思い出せない時点で記憶が欠落していることに気付くべきだったのだ。それも、意識を失う少し前の記憶だけではない。自分自身の名前、出身、家族構成、年齢、職業…おおよそ個人情報の類まで、削り取られたように記憶にはまるで残っていない。ショックによる一時的な記憶喪失なのか?何か危なげな薬でも盛られたのか?
またしても、底知れない恐怖に絡め取られて身が竦む。ただ、馬鹿みたいに呆然とモニターを凝視するしかなかった。その様子を見兼ねたのか…いや、そもそも意思が通じるのかも疑問だったが…、モニターの画面が返事を待たずに切り替わる。
『貴方は_一時的に_記憶を_喪失しています_』
『この部屋は_治療のための_ものです』
『危険は_ありません_』
「いや、ちょっと待てよ。ここは病院か何かなのか?それにお前は誰なんだよ。こんな怪しい部屋に閉じ込められて、ハイそうですかなんて言える方が狂ってる」
恐怖を押し隠すように早口で捲し立てると、モニターはしばし考えるように明滅した。
『私は_イオ_』
『私は_貴方の_友人_です_』
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