浴槽の人魚姫

鯰屋

浴槽の人魚姫

 一口だけ吸った煙草が詰め込まれた排水溝。きつく閉めた蛇口から時折、錆臭い冷水が滴っている。

 黒々と垢の浮いた湯舟に浸かって、波が立たなくなってから随分と時間が経つ。すっかりと萎えた自分の乳房を、眼球の動きだけで見下ろして溜息をついた。ひゅうひゅうと、間の抜けた笛のような音が喉の奥から聞こえる。


 半開きの風呂の蓋の上には画面を伏せたスマートフォン。電源は切っていない。が、ピクリとも震えない。ピザ屋か何かの広告でもいいから鳴ってはくれないか——そのように考え始めた頃の湯はまだ暖かかったはずだ。


 定期的に水滴を落とす蛇口から少し上へと目をやると、酷く気味の悪い顔をした女と目が合った。茹で蛸のような色に腫れた頬骨、青黒い目蓋、紛れもなくわたしだった。

 濡れて垂れた髪が唇の端に引っかかっている。薄い唇の色はひどく汚い。

 人より整った姿形で生まれてきたと自負していたが、これじゃあテトラポッドに打ち上げられた人魚だ。悪く言えば鮮魚売り場に並ぶ魚のそれ。


 魚は好きじゃない。母なる海から離れることなく一生を終えるからだ。母親の中で一生を終えるなんてまっぴら。マザコンじゃああるまいし。

 最後に海を見たのはいつのことだったか。いや、海になんて行ったことはなかった。川を泳いだ記憶ならある。わたしは泳ぐのが好きだった。


 携帯は震えない。


 小学校の頃は誰よりも泳ぐのが早くて、塩素の香りに胸を膨らませたことを憶えている。敢えて口には出さなかったはずだが、普段は饒舌な同級生たちがビート板にしがみついている様は絶景でした。

 一人、指示もされていないのにターンして折り返して、やかましい笛と共に喝采を浴びるのが好きだった。多少、水を飲んで苦しくても、あとで吐きそうになったとしても悪くない。そう思っていました。


 人一倍プールに通っていたからか、わたしの髪は少し赤茶けた色をしていて、それを綺麗だと言ってくれる人間を心底見下しながらも好きになりそうでした。

 隔離された女子更衣室の中で聞こえる、覗いてこいという男子たちの声も嫌いじゃありません。


 一体全体、何に価値を見出しているのか。当時のわたしには判りませんでしたが、ひとつ確かに気持ち悪いという感覚だけは携えていたと思います。

 外で騒ぐ年頃の少年たちは、自分たちの声が丸聞こえであることに気づいていたのでしょうか。馬鹿だね、とみんなで着替えながら大人の振りをしていました。

 しかしそれでも、見せつけて人魚姫になるのも悪くない。どんな形であれ、必要とされて心地好くならない人間などいないでしょう。

 ——今になって思い返せば、そのあたりから、わたしの生は、ある意味で人間という動物本来の生き方に近づいていったと考えられます。


 中学校へ上がると、水泳の授業はめっきりと減りました。それどころか、男女別になってしまって、やかましくも懐かしい騒音から遠く離れることになりました。

 文字通り、水泳の授業においてのわたしは水を得た魚のようでしたので、一夏の舞台を奪われてしまっては学業に励む気も失せるというものです。

 学校が世界の全てだったわたしにとって、それは生きる意味を根本から揺さぶられるような出来事でした。


 つまり、わたしはついに、塩素に髪の毛を赤茶色に焼かれただけのになってしまったのです。


 違う趣味でも見つけようかと模索していくうちに、なんとなく読書に行き逢いました。教室の隅で黙々と文字に目を滑らせる、ぼんやりと授業を聞いて、また教室の隅で文字に沈む——その繰り返しでした。

 意識していたわけではありませんでしたが、他人との交流も絶ってしまっていたので、おそらく変人だと思われていたでしょう。現に、冷ややかな視線や言葉を浴びることもありました。


 プールの水より冷たいものを知らなかったわたしには、あまりに衝撃的な出来事で、思わず涙が溢れたのを忘れません。

 気の毒な幼子を見るような目で、男子生徒たちはわたしのことを見ていました。


 夏の終わり、最後の水泳の授業にて。気持ちの悪い視線がなくなって清々した、と同級生の彼女は言っていました。本を読むのが好きな子で、とてもきれいな髪と肌をしていたから、きっと視線に対する気苦労も多かったのでしょう。


「うん……」


 と、曖昧な返事をしました。

 その視線に生き甲斐を見出していたわたしにとっては、怒りを通り越したやるせなさすら植え付ける言葉でした。

 それにそんなにも好かれているのなら、中途半端に大人な振りをしなくても良いものでしょう。口には出しませんでしたが、強くそう思いました。


 しかし、彼女とは性格や価値観こそ噛み合いませんでしたが、心のどこかでその違う価値観に刺激を受けていました。

 読書家の先輩である彼女から教わった、臆病な自尊心と尊大な羞恥心という言葉が今も胸に残っています。わたしたちそれぞれを表しているようで、やっと膨らみかけた胸が高鳴ったのを憶えています。


 ですから、一緒にいるのは苦痛ではありませんでした。むしろ、積極的に彼女の隣を歩いていたと思います。


 それからしばらくすると、一人のがわたしのもとへとやって来ました。

 彼はいくつも質問をしてきました。わたしについてではなく、彼女について。

 どんな食べ物が好きなのだろうか、いつも読んでいる本を知りたいだとか、取るに足らないささやかなものばかりでした。

 どことなく悔しくなって、わたしの情報も付け加えて教えました。


 それから数日が過ぎると、彼女を好いていた男性生徒はわたしと一緒に帰るようになりました。夏の終わりの夕暮れで、電線に切り分けられた夕空の色が、美しくありながらも虚しさを呼び起こしたのを憶えています。

 男性生徒は登下校に自転車を用いていましたが、わたしと帰るときは押して歩いていました。

 

 それからまた数日がすぎると、男性生徒とわたしは手を繋ぐまでに至りました。高嶺の花に手が届かないと気づいたのでしょうか、それとも、近場の花で満足してしまったのでしょうか。

 その心根は判りかねますが、少なくともわたしは満足でした。


 この人と愛し合いたい、とその時初めて思ったような気がしますが、男性はその後、とてもきれいな髪と肌をした彼女と手を繋いで、遠回りして下校するまでに至りました。

 がわたしと手を繋ぐことは、その後一度もありません。


 泥棒はどちらだったのか。泥棒しようとした「わたし」から泥棒していった彼女。泥棒はどちらだったのでしょうか。


 この問いは、わたしが高校へ入学してしばらくすると解決しました。逆に言えば、高校へ入学するまで胸に残っていました。

 きっと彼女は忘れているのでしょうが、そもそも自覚すらないのかもしれませんが、わたしはとても忘れることができません。


 しかし、悲しみに泣き暮らしていたわけではありませんでした。次だ、と割り切った訳でもありませんし、そこまで貪欲になるのは如何なものかとすら思っていましたが、必要とされるのは心地好いものです。


 プールの底よりも冷たい教室において、居場所は作り出すしかありません。

 ですから、胸の奥底にしこりのようなモノを残しながらも、違う男子生徒のもとへ行くことにしました。


 ずっと対等かそれ以上だったはずの背丈も、いつしか、わたしだけが取り残されていました。

 みんな気の毒な子供を見るような眼差しで、わたしを見る。だから、どんな男子生徒も同じに見えました。


 そんな男子生徒と手を繋いだり、その肩へ弱々しく頭を預ける。

 彼らの上で踊り、一人また一人と触れ合うたびに、憐むような視線を向けてきた男子生徒の目が変わっていく。


 人魚から、人間に堕ちたわたしがもう一度舞えるひとときだと気づいたのです。


 何人が、わたしのことを必要としてくれたでしょうか。何十人が、わたしに時間を捧げてくれただろうか。数えることをやめてから、どれほどの年月が経ったか。



 携帯は未だに震えない。



 半開きの風呂の蓋の上には画面を伏せたスマートフォン。電源は切っていない。が、ピクリとも震えない。ピザ屋か何かの広告でもいいから鳴ってはくれないか——そのように考え始めた頃の湯はまだ暖かかったはずだ。


 誰でもいい。わたしを求めてはくれないか。


 浴槽から垂らした左腕の感覚がない。蛇口から錆びた水滴が落ちる。それに裏拍を打つように指先をとろとろと垂れていく。

 火をつけて、一口だけ吸った煙草が排水溝に詰まっている。わたしのもとを去って行った彼の、嫌で嫌で仕方のなかった臭いだ。今はそれすら欲している。


 ひどく寒い。酸素を欲する金魚のように下唇が痙攣けいれんしている。ひゅうひゅうと、間の抜けた笛のような音が喉の奥から聞こえる。

 ずっと熱を発していた脳味噌が冷たくなっていく。痛くて重たい。眠気にも近しい。吐き気が気管に溜まっていたような気がしたが、今は下へと下がって行った。

 とろとろと手首から指先へ溢れる。左はひたひたと落ちて、右は浴槽へと染み出していく。


 塩素の匂いが恋しい。走馬灯は泳ぐように眺めたい。


 携帯が少し震えたはず、そう感じたのは幻ではないはずだ。誰かからの着信か、手を伸ばそうにも——もう指先に力は入らなかった。

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