「信じられること」を産み出す技術——論理的思考について
爆撃project
「信じられること」を産み出す技術
【目次】
「信じられること」とは何だろう?
「信じられること」を作り出す
「信じられること」を点検する
おわりに
・「信じられること」とは何だろう?
この世に信じられることなど何一つない、という人がいます。
確かに、これは絶対確実であるということを言うのは至難の業です。多くの哲学者が、様々な意見を出し、論争し、今でも万人に共通する結論は出ていません。あるいは、万人に共通する一つの結論などないのかもしれません.
しかし、それを探求しようとする人でもなければ、何処かで疑問を打ち切らなければならないでしょう。何かを信じなければなりません。
事実として、「この世に信じられることなど何一つない」と言っている人でさえ、「この世に信じられることなど何一つない」ということを信じています。自己言及のパラドックスとか、自己論駁的論証とか(背理法の不完全な形とか)いうやつで、自分の意見が仮に正しいとしたら、自分の意見に矛盾が生じてしまうのです。
我々は経験的事実として、必ず何かを信じて生きています。自分が今生きていることを、わざわざ疑いはしないでしょう。普通に暮らしている限り、疑う必要もありません。疑っている人は、おそらく「生きている」という言葉の定義からして我々と異なるのでしょう。哲学オタクでも無い限りは。
であれば我々は、信じたいことを信じて良いのでしょうか? 直感的に、「そんな事はない」という気はすると思います。自分をどんなにイケメンだと信じたところで、実際にイケメンになれるわけではありません。イケメンという言葉の意味を決めるのは「私」ではなく「我々」です。仮に「私」が自分をイケメンだと決めたとしても、それは我々のいう「イケメン」ではないでしょうし、我々から見れば「その人」以上の意味を持ちません。
いやもちろん、この話にはかなりのツッコミどころがあります。それぞれの単語をどのように定義するかによっても変わりますし、相対主義の立場にすれば、各々信じることが各々にとって必ず正しい、ということができるかもしれません。
ただいずれにせよ、我々は何らかの理由がなければものを信じることができません。そしてその理由にも、その理由を正しいと信じる理由があります。
「ちょっと待て、永遠に続くじゃないか」と思われた方もいるでしょう。その通りで、理由の理由の理由の理由の……と考えていくとキリがありません。
いわゆる無限背進というやつですが、我々の経験的事実として、そんなことには陥っていません。すると、何処かで背進が止まる「正しいから正しい何か」があるということでしょうか?
いえ、そんなものはないというのが(たぶんきっとおそらく)通説だったような気がします(私もそう思っています)。
しかし私達は「信じられるから(無根拠であっても)信じられる大前提」を持って物事を考えていると仮定して話を進めましょう。認識論やら存在論やらを探求する哲学者でもなければ、「信じられること」を探すのに複雑すぎる前提は不要です。少し違いますが、同じことを証明する方法が二つあるなら複雑な方を切り捨てろという『オッカムの剃刀』を振るうということに近いです。
さてさて、「信じられるから信じられること」の最たる例は、これまでの文脈で何度も使ってきた「経験的事実」です。今生きていること、心臓が動いていること、などですね。文脈次第で「信じられるから信じられること」は変わってきます。数学なら「1+1=2」、科学なら「反証された法則」などです。どれも哲学者や科学者の手に掛かれば覆されかねませんが、まぁ、とりあえず信じておきましょう。
かなり不完全ではありますが、一応の結論が出ました。我々の信じられることは、「信じられるから信じられること」なようです。
当たり前だって? こんなもの何の役にも立たないって? ところがどっこい、ないよりは役に立つのです。
・「信じられること」を作り出す
論理的に正しく推論するとき、前提が正しければ結論は必ず正しくなります。よくある例を書きますと、こうなります。
前提A・人間は死ぬ
前提B・アリストテレスは人間である
結論・アリストテレスは死ぬ
まぁ、正しいですよね? 前提も正しいですし、推論も正しい筈です。では、前提が誤っているけど推論が正しい例を書きます。
前提A・東京都庁は長ネギである
前提B・モンゴル人は長ネギではない
結論・モンゴル人は東京都庁ではない
いったい何を言っているのか全く分かりませんが、前提が二つとも正しければ、結論も正しいはずです。前提Bが前提Aの前件(〜は…である、の『〜』の方)を肯定するか、前提Bが前提Aの後件を否定する場合は、論理的に必ず正しい結論を導き出すことができます.いわゆる「演繹法」です。
さて次に、前提は正しいけど結論が誤っている。つまり推論がおかしい例を二つ書きます。
前提A・私は人間である
前提B・アリストテレスは人間である
結論・私はアリストテレスである
前提A・東京は日本にある
前提B・名古屋は東京ではない
結論・名古屋は日本にない
前提は正しいですが、結論は明らかにおかしいですね。端的に誤っています。私はアリストテレスではありませんし、名古屋は日本にあります。
他にも、前提も推論も違うけど結論だけ正しくなっている事例などがありますが、長くなるので割愛します。
長々と論理の話をしてきましたが、それが「信じられること」を作るのにどう関係してくるのか。お察しの方も多いでしょう。馬鹿にしているのかとお怒りの方がいるかもしれません。「信じられるから信じられること」を前提にして、論理的に正しい推論をして導き出された結論は必ず正しい、言い換えれば「信じられること」になるわけです。これが「信じられること」の作り方です。
多少確実性が落ちても、この手法は有効です。というか、大体はそうそう確実なことなどないので、先の方法をそのまま使うことは難しいでしょう。「多分信じられること(蓋然性の高い前提)」から結論を導き出して、「これはたぶん信じられること」を作るのが、「信じられること」を作り出す技術です。帰納法というのも、沢山実験して全て(またはだいたい)そうなったらたぶんそれが正しいという「たぶん信じられる前提」に基づいて、たぶん信じられることを求める方法なのですから。
・「信じられること」を点検する
自分にとって「信じられること」が揺らぐのは、(論理的に矛盾していたとかでなければ)他人の「信じられること」と対立したときでしょう。こうしたとき、相手の意見を退けるのか、自分の意見を捨てるのか、はたまた修正するのかは自由です。しかし、あくまで論理的に判断せねば、すぐにボロが出てしまいます。
まず考えるべきは、相手の意見と自分の意見は何が違うかということです。同じ前提から別の推論を行なって違った結論を導いているのか。想定している前提が異なるのか。はたまた全てが異なるのか。これを考えなくては、一向に議論は噛み合わず、水掛け論に終わることでしょう。
こうした場合、まず相手の意見と自分の意見を分析して、「前提(複数あって良い)」「結論の導出方法」「結論」を明確にします。誤解しないで頂きたいのが、必ずしも具体的な結論である必要はないということです。明確であれというのは、相手が「私が言いたいのはそういうことだ」と認める結論であれ、ということです。対立するくらいですから、大抵の場合抽象的な結論でしょう。
続いて、どこが同じでどこが違うのかを明確にします。注意点は、似ているからといって、よく吟味せずに同じだと考えるべきではないということです(類似性の排除を避ける)。議論相手との共通認識を持つこと(例え相手が本の中でしか議論できない誰かだとしても)ができなければ、対立が解決されることはありません。
ちなみに、結論が同じで一見対立していないように見えたとしても、こうした吟味をするのは重要です。同じ結論でも、前提や結論の導出方法が異なれば、自分の意見の修正点や新たな見方を発見できるかもしれないからです。
さて、あとは戦争です。相手の意見と自分の意見を突き合わせていきます。
その結論を前提とした時、明らかに誤った結論が導かれないか(背理法)?
結論に対する反例はないか?
結論の導出方法は確実で(蓋然性が高く)矛盾がないか?
自己論駁的ではないか(相対主義に対する批判の一つ)?
無限背進に陥らないか?
前提は信じられるか(蓋然性が高いか)?
いずれの前提が適切か?
いずれの推論・推理に無理がない(不必要な部分を含まない)か?
他にも色々基本的な方法があります。変わった方法も書くと。
それは人間の本質的な自由を否定し、伝統的な権威による支配を強化するものではないか?(フーコー)
それは資本家による労働者の搾取を正当化するものではないか?(マルクス)
それは無意識に男性優位を正当化するものではないか?(フェミニズム)
勿論他にも変わった方法はたくさんあります。ただし、基本的な方法ほどには(特に演繹法ほどには)強くありません。まず我々が利用すべきは基本でしょう。
ここまでしても、どちらが信じられるか判断がつかないこともあるでしょう。それならいっそ、「Aかもしれないし、Bかもしれない」で止めるべきです。本作は「信じられること」を作り出す技術を紹介するエッセイですから。
・おわりに
書き終えてみれば、特に目新しいことも書いていなければ、自分の思想も入っていないので、面白みに欠ける気もしてきました。タイトル的には正しいのですが。
さらにいえば、定義のない言葉をどう解釈するか、デマや風聞をどう見分けるかといった諸所の重要な事柄も本作では触れなかったのも問題点です。
とはいえ、普段生活していると中々意識しないことは書けた気がします.
論理に立脚した信念は、そう易々と崩れ去りはしないでしょう。もし崩れ去るとしても、同時に反論を取り込んだより高次の信念が産まれているはずです。本作がその助けになってくれたら、これ以上の喜びはありません。
但し、本作の内容はあまり詰めていないので、私自身が論理を誤解していたり、誤った知識が書かれているかもしれません。特にフーコーやマルクス、フェミニズムに関してはは殆どテキトーです(おい)。その点を留意して、あまり信じないようにお願いします。
あ、それと不躾ながら個人的な注意していただきたいことを一つ。「人間は個から全体を推理したがるが、全体から個を推理しようとはしない」ということです。当然ながら、より信じられるのは後者の推理です。木から森のことはわかりませんが、森からはある程度木のこともわかりますから。しかし実際に行われているのは、一つの発言や法律、事例や事実から全体を推測することばかり。分母を無視して判断し、ひどいと比較検討すらしない……と、愚痴になってしまいましたが、よろしければ留意してください。
さて、私事ですが、最後に2021年の抱負を述べさせていただきます。
「作品のクオリティを倍にして、かつより分かりやすくする。具体的には、テーマに関連する本から用語や文を取り出してカードにして、それを線で繋いだりグループ分けして図にしてみて、それを文章におこすという方法を取る」
以上です。作品のクオリティは私の知識量を、分かりやすさは私の理解度を表します。正直今見れば恥ずかしくなるような作品ばかり(完全なる黒歴史)なので、少しは自信を持てる作品を増やしていきたいと考えています。
それでは,良いお年を!
「信じられること」を産み出す技術——論理的思考について 爆撃project @haisen
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