赤ちゃん通路(改稿版)
青月クロエ
第1話
『ねぇねぇ、K中学の赤ちゃん通路の噂知ってる?』
『知ってる!体育館の裏だっけ?開かずの扉やろ?赤ちゃんの骨だかミイラがあるっていう……』
『そうそう!それ見ちゃったら、異次元の通路に飛ばされて二度と帰れなくなるんだってさぁ。すっごい昔、昭和くらい?に先生と付き合ってた生徒が妊娠しちゃったらしくって。こっそり生んですぐに殺して体育館の裏に捨てたんだって!』
『うわなにそれ、ひどくね?引くわ。いろんな意味で引く。でもさぁ、何十年も昔の怪談やんか。体育館だって最近建て直したらしいし。にしても、なんで赤ちゃんなんかな?』
『え、知らね。そう言やさぁ、K中で去年の夏休みに中絶した子が三人いたんだって!』
『やば、引く!うちらの母校じゃそんな噂全然聞かんのにねぇ──』
真昼の太陽がじりじりと、シャツの襟から覗く首筋を、半袖から伸びる腕を焼きつけてくる。強烈な光にくらり、軽い眩暈。
少し先を行く柚希ちゃんの軽快な歩調についていけない。わたしの歩調は少しずつ遅れていく。
「だいじょうぶ?」
距離の開きが気になったのか。柚希ちゃんはポニーテールを大きく揺らし振り返った。
「う、うん」
「ほんとに?」
「ほんとほんと!ほら、わたし、インドア派だし、学校行く以外あんまり外出ないやん?昼間なんてあっついばっかやし、夏休みは基本引きこもりやし!ちょっとだけ暑さに当てられただけ。柚希ちゃんは気にしんでいいでね」
「そんならいいけど……、あんまり無理しんでね?なんなら、朋佳ちゃんは職員室とか涼しいとこで待っとってくれていいよ」
「うん、ありがと」
歩きながらのお喋りは気分を紛らわしてくれる。その間に、わたしの身長よりずっと高いフェンスと母校の中学、校門が正面に見えてきた。
校門前に到着すると柚希ちゃんはインターホンを押して、自分とわたしの名前、用件を告げる。程なくして日直の先生がやってきて開門してくれた。
「わぁ!田中先生、おひさしぶりです!あいっかわらず、日焼けでまっくろなんだから!」
「佐藤だってまっくろ具合は俺といい勝負じゃないか」
「センセー、女子にそういうこと言うのはセクハラでーす」
日直の先生は柚希ちゃんの中三の時の担任。クラスのまとめ役だった彼女とは随分仲が良かったみたい。軽口交じりの近況報告とかで盛り上がっている。
なんとなく置き去りにされたようで、わたしは二人の少し後ろを黙ってついていく。
眩暈が再び始まった。くらくらする頭を垂れ、重い足を引きずって歩く。柚希ちゃんと田中先生はおしゃべりに夢中でわたしの様子に気づいていない。
「うっ……」
胃から胸にかけての強い不快感。せりあがってくる吐き気。今に限ってじゃない。ここ最近ずっとこうだ。
ミーン、ミーン、ジジジ……、んにゃぁあ、ふにゃぁああ……。
ひどく耳障りな蝉の声に混じり、どこからか猫の鳴き声も聞こえてくる。
これは猫の声だよね。絶対に猫の声に決まっている。
ふにゃぁあああ、んにゃあああ……。
あぁ、猫の声はなんで赤ちゃんの泣き声に似てるのかな。
眩暈と吐き気に耐えながら、わたしはさりげなく下腹部を擦る。
高校の文芸部の先輩で話してて楽しかったから。『まぁこの人ならいいか』って思ったから。
付き合ってたわけじゃない。異性として好きだったわけでもない。好奇心と興味本位。きっと向こうもそんな感じ。
一回だけシてそれっきり。別に今までと関係は特別変わらないし、変えるつもりもないし──って、思ってたのになぁ。
「どうしよう、ねぇ」
誰もいないがらんとした教室。たったひとり、廊下側の一番うしろの席に突っ伏した。
今日は柚希ちゃんと一緒にバスケ部の後輩たちに会いに行く予定だったのに。(といっても、わたしは中学も文芸部だったし、正確には柚希ちゃんの付き添いなんだけど)
『ごめんね。ちょっと気分が悪いから空き教室で休んでくる』
職員室で休めと言われたけど、柚希ちゃんはともかく、わたしと田中先生の面識はかなり薄い。先生とはいえ、よく知らないおじさんと職員室で二人きり、なんて。なんかイヤだ。体調悪いし、ただでさえナーバスになってるから余計に堪えるし。
「水分はしっかり摂るから。一〇分だけ!一〇分経ったら職員室戻るね」って、スポーツドリンクのペットボトルを見せつけ、二人から逃げるように背中を向ける。
歩くのも精一杯なくせに、気まずい空気を避けるためなら動けるなんて。意識の片隅で自分に呆れつつ適当な教室へ駆け込んだ。
全開にした教室中の窓から熱気が流れてくる。机の上でだらんと伸ばした右手にはスマートホン。開きっぱなしのLINEのトーク画面。
「一回だけ。たった一回だけだし。一回くらいだいじょうぶだって。一回のためだけにゴム用意するのも面倒くさかったし。だいじょうぶ、だいじょうぶ……、ウソばっかし。ぜんっぜん、だいじょうぶやないやん……。生理だってちっともこないし!」
検査薬買いに行くのは死ぬほど恥ずかしい。病院行くのはもっと無理。一緒に検査薬買いに行って欲しい。
たったの三言。その三言が、どうしても打ち込めない。
先輩だけじゃない。親にだって、幼なじみの柚希ちゃんにだって、言えないよ!
のろのろと指を動かしトーク画面を閉じる。蝉の声が一段と喧しくなってきた。猫の鳴き声も騒がしさを増していた。
「うるっさいなぁ」
投げやりな低い声でつぶやく。スマホを持っていない方の手でバンッと机を叩き、顔を上げる。完全な八つ当たりだってよくわかってる。
眩暈と吐き気はまだ治らない。そろそろ一〇分経ったかな。職員室に戻らなきゃ。わたしはしかたなく重すぎる腰を上げた。
生温かった風は教室に入ったときよりも少し、涼しくなっていた。太陽がちょっと翳り始めたからかも。タッセルで留めたレースカーテンが、透けた影ごと揺れている。
んにゃぁあ、うにゃぁあ、ほにゃぁああ。
「あれ、蝉の声止んだ?」
さっきまであんなに喧しかったのに。
いつの間にか猫の鳴き声しか聞こえなくなっている。
鳴き声は一匹だけじゃない。
輪唱のように複数の鳴き声が重なり合っている。
なんだろう。猫というより人間の……、ううん、ありえない。絶対ありえない!
ありえないといえば、二階の教室まで猫の鳴き声がはっきりと聞こえてくるかな。
階下からかすかに響くのとも違う。教室内の物陰──、例えば机の引き出しとかロッカーの中に身を隠し、鳴いているような至近距離で聞こえてくるような。
得体の知れない気味の悪さに、わたしは一刻も早く教室から出て行きたくなった。窓を閉めるのも忘れて扉を開け、廊下に飛び出そうとしたときだった。
天井から、しゅるしゅる、しゅるしゅる……、と、蛇が這うような、ううん、蛇だったらどんなにかよかったか!
わたしの目の前に滑り落ちてきたのは、臍の尾をつけたままの赤ちゃんだった。
悲鳴も上げられず、その場でぺたんと尻餅をつく。
廊下に座り込んだわたしの前で、赤ちゃんは天井から生えた臍の緒ごとぶらぶら揺れている。
土気色の肌、ダンゴムシみたいに丸めた身体、皺くちゃの顔。
赤ちゃんとお年寄りって似たような顔してるかも、なんて。どうでもいいことが頭を過ぎった瞬間。赤ちゃんは指を吸うのをやめ、ニィィィッとわたしに笑いかけてきた。
薄気味悪い笑顔を見て、わたしは初めて自分が置かれた状況をやっと理解できた。わたしが理解したのを見はからうかのように、臍の緒が振り子のように大きく揺れる。
んにゃぁあ、んにゃあああああ――
「ひっ」
短くやわらかな腕を伸ばし、わたしの顔面に飛びつこうとする赤ちゃんの口は耳まで裂けていた。
座ったまま必死で真横へ飛びのけば、一拍置いて赤ちゃんは教室の扉にぶつかった。なのに、廊下は物音ひとつせず、静かだ。
見ちゃダメ、見ちゃダメだ。引き止める思考と裏腹に好奇心がわたしを突き動かす。そして、扉を見上げるなりすぐに後悔した。
赤ちゃんの頭から腕、胴体、足先の順に扉に吸い込まれていく。
消えていく小さな身体から思いきり目を背け、素早く立ち上がる。
職員室まで急いで逃げなきゃ!
爪先を一歩踏み出す。ぷにっと柔らかい感触。
さっき後悔したばかりなのに二度目の好奇心が擡げ、おそるおそる視線を足元へと送る。
んにゃぁああ、ふにゃあぁあ。
床からぼこり、ぼこり、ぼこり。
ゲームセンターのもぐら叩きみたいに、ぼこり、ぼこり。
廊下一面、無数の赤ちゃんの頭部がぼこり、ぼこり。
泣き声をあげながら、出ては隠れてを繰り返している。
廊下だけじゃない。天井からも、しゅるしゅる、しゅるしゅる。
臍の緒で逆さ吊りになった無数の赤ちゃんがにたにた嗤っている。
「いやぁ!!」
駆けだした足裏で踏みつけた感触は先程感じたのよりもっと柔らかく。ふぎゃぁあ!と悲痛な叫びにちくり、胸が痛む。
誰にともなく、ごめんなさい!と叫びながら廊下を死に物狂いで駆ける。
頭上から飛びかかってくる赤ちゃんを次々と殴りつける度あがる悲鳴に、ごめんなさい、ごめんなさいとひたすら繰り返す。
白いコンクリート壁と、真夏の陽射しが降り注ぐ窓は消え。
代わりにぐにゃり、ぐにゃり、深すぎる闇が廊下を、わたしを覆いつくす。
その闇からは無数の小さな掌がわたしにむかって一斉に伸びてくる。
「何コレ何コレ!!やだやだやだやだぁあああ!!」
わたしの叫びと赤ちゃんの泣き声が混ざり合い、闇に反響する。
廊下の突き当りに職員室の扉が見えるのに。走っても走っても、全然辿りつけない!
「やっ……!」
足首にひやり、背筋も凍る冷たさに動きが止まる。
ほんの一瞬気を取られたせいで足が縺れ、バランスを崩す。足首を掴む小さな手がわたしを引き倒す。
んにゃぁああ、ふにゃぁあああ。ちょうだい、ちょうだい。
んにゃあ、んにゃあぁああああ。ちょうだい、ちょうだい。
赤ちゃんがずるり、ずるずる、起き上がれずにいるわたしの足、太腿、腰へと這いあがってくる。
氷のような体温、青白い肌。生気を感じ取れないのに、耳まで裂けた口の中だけは異様に赤く、その一点だけ生命の温度が感じ取れた。
「た、たすけ……」
がちがち、がちがち。ひっきりなしに鳴る歯のせいでうまく叫べない。
助けを呼びたくても呼べない。
腰にまたがった赤ちゃんはわたしのお腹をぺちぺちと何度も叩いてくる。
もみじに似た掌がズズズ……、カッターシャツを通り抜け、平坦な皮膚へ吸い込まれていく。
異物が内蔵の粘膜を刺激する。ギュギュギュッと絞られ、捩じられる。捏ねくり回され、短い筈の腕が更に奥へと侵入してくる。
「いたぁああい!!いたぁあい!!いたいよぉお!!!!」
無数の赤ちゃんに取り囲まれ、わたしはごろんごろん、のたうち回る。
暴れたところで痛みが軽減するわけじゃない。そうしないと発狂しそうだから。
激しくのたうち回っているのに赤ちゃんはわたしにまたがり続け、お腹を掻き回すのをやめない。
小さな手はとうとう子宮にまで到達した。数か月分の生理痛が一気に押し寄せたかのようで胃の中のモノ全て吐き出す。
ちょうだい、ちょうだい。
ガンガン痛む頭、途切れそうな意識下で赤ちゃんと再び目が合う。
見慣れてしまったのか、痛みと気分の悪さで気にならなくなってきたのか。
化け物じみた表情を見てももう怖いとすら感じなくなっていた。
いらないなら、ちょうだい。
いらないなら、ちょうだい。
「な、にが……?」
赤ちゃんいらないならちょうだい。
いらないんでしょ?
「い、いい、いらないって、な、に……!いったぁぁ!!」
恐怖と痛みで麻痺してしまった思考をどうにか働かせる。
もしかしたら、わたしのお腹から、わたしの赤ちゃんを取り出そうとしている?
「いらないいらない、いらなぁあい!!好きなように持っていってぇえ!!」
ほんとう?
ほんとうにいらないの?
闇が深さと濃さを増す。赤ちゃんの嗤った顔にも邪悪さが増す。
逆さ吊りにされた赤ちゃんも、闇と一体化する壁や床から突き出た赤ちゃんも一斉にわたしを嗤う。
じゃあ、いらないならもらってあげるから。
ぼくたちのママになって。
「……え、ちょ、やっ!」
んにゃぁああ、ふにゃぁああ!!
泣き声がより一層激しくなってきた。徐々に手足が闇に吸収されていく。抵抗する体力、気力なんて、わたしにはもう、ない。わたしはいつしか意識を手放していた。
「朋佳ちゃん!朋佳ちゃん!!」
柚希ちゃんの悲痛な呼び声が遠くから聞こえてくる。
がくがくがく、揺さぶられる感覚、乱暴に扱うなと窘めつつ焦りを含んだ田中先生の声で意識は呼び覚まされていく。
ぴくぴく痙攣する瞼をこじ開け、霞む視界の先にはくしゃり、表情を歪めた柚希ちゃんの顔。
「わ、たし……?」
「一〇分経っても戻ってこないし、センセ―と様子見に行ってみたら……、廊下のど真ん中で倒れとるし!!だから職員室で休めばいいのにって言ったやん!」
あれ、柚希ちゃん、体育館に行ったんじゃなかったっけ?と聞き返したいのに、舌がもつれてうまく喋れない。
「ひとりで空き教室行かせたはいいけど、あたし、心配で心配で……。体育館に行かずに戻ってくるまで待っててよかった!」
「……ごめ、ん」
「ほら佐藤、汲田を保健室に連れてくぞ。肩を貸してやれ。汲田、立てるか?立てなかったら、おれが背負ってやるから」
「……あ、たぶん、だい、じょうぶ、です。あるけ、ます……」
在校生じゃないのに、田中先生にこれ以上迷惑をかけたくない。
あと、こんな状況なのにって怒られるかもだけど、おじさんに触るのも触られるのもイヤ。
上下ゆらゆら、ふわふわする感覚で吐きそう。二人に悟られないよう無理して立ち上がる。
ありがたいことに保健室は職員室と同じ二階にあるし、がんばれば歩けない距離じゃないし。
柚希ちゃんの肩を借り、弱々しい一歩踏み出す。
天井も窓も、壁も廊下も元に戻っている。ぐちゃぐちゃに掻き回されたお腹の痛みもすっかり消えている。
一歩ずつゆっくり歩きながら、ズキズキ痛み続ける頭で考える。
あれは悪い夢、だったのかな。
保健室のベッドの上でも、ぐるぐるする視界と共に思考もぐるぐる回る。
シーツから投げだした腕を、傍らでパイプ椅子に座る柚希ちゃんが握ってくれている。
「田中センセ―がね、朋佳ちゃんのママに迎えにきてって電話してくれたって」
「うん」
ありがとう、とか、ごめんね、とか。田中先生に悪いことしたな、とか。本当は言うべきなんだろうけど。絶対ママに叱られる!って覚悟もしとかなきゃなんだろうけど。
わたしの頭は闇と赤ちゃんに支配された廊下の記憶でいっぱいだ。
同じ二階にいたのに柚希ちゃんと田中先生は本当に気づいていなかったのかな。そもそも二人には見えていなかったのかな。
なんでわたしだけ?ひとりでいたから?
『体育館裏の開かずの扉開けたら、赤ちゃんの死体があって――』
『妊娠した生徒がこっそり産んで殺した――』
「あ……」
中学に入学した頃、耳にした噂話を唐突に思い出す。
でも、あの噂はずっと前に取り壊された旧体育館にまつわるもの。わたしが入学する頃には風化していた。
それにわたしがおぞましい目に遭ったのは廊下。体育館とは何の関係もない、でも、でも──
「……朋佳ちゃん?……って、手つめたっ!!顔色めっちゃ悪いよ?!」
急に激しく震えだしたわたしの顔を覗きこんだ柚希ちゃんも、負けじと青ざめた顔をしている。
「ちょっと、センセ―呼んでくるわ!」
「ま、待って!」
慌てて立ち上がりかけた柚希ちゃんの手をギュッと強く、強く握り返す。
思いの外強い力に振り返った柚希ちゃんに「あのね……」と話を切り出した。
叱られても、呆れられてもいい。
もしかしたら軽蔑されたり、きらわれちゃうかもしれない。
でも、わたしの胸の内だけに留めておくのはもう限界だった。
ママの迎えを待つ間、わたしは先輩とのこと、妊娠疑惑について柚姫ちゃんにとうとう打ち明けた。柚希ちゃんは呆れも軽蔑もしなかった。ただ泣きながら、先輩に対し怒り狂っていた。
今にもわたしのスマートフォンを奪い、先輩へ抗議のLINEでも送りつけそうな柚希ちゃんを宥めつつ、体調が戻ったら一緒に妊娠検査薬を買いに行って結果を見ようということで話は落ち着いた。
そして、三日後。わたしと柚希ちゃんは隣町の大手ドラッグストアのトイレにいた。
「朋佳ちゃん、そろそろやない??」
ベージュとピンクのタイル張りのトイレで柚希ちゃんの声はよく響く。
彼女なりに声を落としてはいるんだけど、もともと声が大きいからあんまり意味がない。その声を掻き消すようにわたしは水を流した。
「う、うん、そろそろ一〇分経った、かも」
誰かが入ってくる気配はないか。入り口の扉を不安げに見やる。
洗面台に凭れていた柚希ちゃんと身を寄せ合い、手に握る検査薬の結果を薄目で怖々と確認する。
「ね、朋佳ちゃん!判定するところに線出てないよ!これってさぁ、陰性やよね?!ね、ね!!」
「……うん……」
「よかったやん!ほんっとよかったぁ!!」
当事者のわたしより手放しで喜ぶ柚希ちゃんの横で、わたしは安心するどころか呆然としていた。
本当に最初から妊娠していなかったのか。あのとき、お腹を掻き回された時に持っていかれたのか。わたしにはわからない。
わからないと言えば、あの子たちがわたしをママにしなかったのは柚希ちゃんたちが駆けつけたからか。それとも、わたしが実は妊娠なんかしてなくて母体となり得なかったからなのか。
空白の判定窓をどれだけ見つめても、真相は赤ちゃんの泣き声こだまする闇と共に葬られた。
真実を知るのがいつも正しいわけじゃない。
もしも知るときがきたとしたら、二度とあの闇から抜け出せない気がする。
わたしは、知りたくない。たとえ漠然とした不安がずっとつきまとったとしても──、わたしは知りたくない。だから記憶に蓋をした、筈だったのに──
あの夏から、一五年。
私は検査薬の判定窓を何度目ともしれない絶望感に襲われながら凝視している。
便座から立ち上がることすらできない。
「とーもかー?どうやったー?」
リビングから呑気に問う夫の声。こっちはまだ答える勇気がないんだし、ちょっと黙っててよ。
「朋佳?ねぇ、聞いてる?」
夫に悪気がないってわかってる。ただちょっと無神経なだけ。
これでも結婚前に付き合った何人かの元彼たちよりはマシ、な筈。
「いちいちノックしんといてよ!」
「怒んなよ!?あー、またダメやったの?じゃ、また頑張ればいいやんな」
気遣ってくれるようで諦観が滲む声がドアの前から離れていく。
いたたまれない。便座に腰かけたまま、サニタリーボックスに検査薬を投げ捨てる。
結婚して八年。治療始めて5年。
あのとき持っていかれたものが何なのか。
私はとっくに気づいているけど、決して認めたくはなかった。
(了)
赤ちゃん通路(改稿版) 青月クロエ @seigetsu_chloe
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