さざなみと子猫

土御門 響

第1話

 初めて彼と会ったとき、私は特に何の印象も抱かなかったことを覚えています。


 五年前、大学に入学した直後。キャンパス内に植えられたソメイヨシノは既に葉桜になっていた。けれど、まだまだ春であることの証として、キャンパスの至るところで熱心な新人勧誘が行われていた。

 昔から私は偏屈で、大勢の集まりというものが苦手だった。数少ない気心の知れた友人と語らう方が性に合っている。だから、勧誘されてもきっぱり断ろうと入学前から決めていたのだが、意外に誰からも声をかけられることがなかった。

 専門学校に進んだ高校時代の親友に何故だろうかと聞いてみると。


「だって夕稀、オーラに初々しさってものがないじゃない。常に冷静沈着かつ無感情。だから、きっと二年生くらいに見えてるんでしょうよ」


 スマホのスピーカー越しに聞こえてくる親友の笑い声。酒でも入っているのかと思うが、破天荒な彼女のことだ。実際、呑んでいるのだろう。以前、宅飲みなら未成年でも許される、という支離滅裂な持論を展開していたことを思い出す。


「んで、大学で友達出来たの?」


 私は痛いところを突かれて答えに窮した。大学という場所は何らかのコミュニティに属すか、または高度なコミュニケーション能力がなければ、卒業まで友達がずっとできないこともある。そして、まだ友達と呼称できる人物とは出会っていなかった。

 何だか説教されているような微妙な気分になって、私は何とか話を逸らそうと逆に聞き返す。


「摩利はどうなのよ」

「私? うちの学校、クラスあるから。普通にできたよ」

「そう……」

「夕稀はコミュ障っていうか、気難しいからなぁ。まぁ、大学って、たくさん人がいるんでしょ? 一人くらい友達できるって!」


 何でもかんでも難しく考えすぎる私とは対照的に、どうにかなるさと笑い飛ばす親友が、とても羨ましく、だからこそ大好きだった。


 彼と初めて会ったのは、五月に入ってすぐのことだった。

 まだ人のいない授業三十分前の大教室。私は早めに登校して、必修である語学の講義にて課された問題を淡々と解いているところだった。私がいるのは、出入口に近い右側の列の真ん中あたりの席。誰かと一緒に講義を受けるわけでもないのに、三人掛けの椅子の真ん中に座るのは、何となく嫌で。すぐに出れるよう、出入口側の端に座っていた。

 そのとき、他の学生が入ってきた。背の高い男性で、愛想のなさそうな真顔。その人は私の脇を通り過ぎて、一番後ろの席に座ろうとした。そのとき、その人のズボンのポケットに入れられた財布から、ポロリと何かが零れ落ちた。

 その人は気づかずに席についてしまったが、私はそれを拾い上げた。それは学生証だった。


 湯島 奏斗


 私はそうして彼の名を知った。

 私は立ち上がり、彼にそれを届けた。


「あの、これ落としましたよ」

「すみません。ありがとうございます」


 普通の人だった。背は高いけど、クラスによくいる顔。イケメンでも、ブサイクでもない。普通の顔。失礼だけど、本当に平凡な人だった。第一印象というものは、皆無だった。この人とは、これきり。これから先、見かけることも、見つかることもない。そう思っていた。

 けれど、彼は私を見て、何か思い当たったらしい。記憶を手繰るように目を細める。


「あれ……貴女って、確か語学のとき同じですよね」

「……そう、でしたか?」

「木曜二限目のスペイン語初級、取ってませんか?」

「あ……そうです。スペイン語、取ってます。すみません。同じクラスの人の顔も覚えてなくて」

「俺はいつも一番後ろにいるので、気づかないのも無理ないですよ」


 そして、彼は切り出した。


「今日の課題、最後の和訳が自信ないんですよ。貴女が良ければ、少し教えてくれませんか?」


 他人に教える義理などなかった。だから、私はこう言った。


「教えません」


 そして、微かに笑う。


「けど、一緒に解くなら、やります」


 私の返答を聞いた彼は、一瞬目を丸くして、次いで大笑いした。何がツボにハマったのか、彼はしばらく笑っていた。

 私は何だか気に食わなくて、唇を尖らせる。


「そんなに笑います?」


 笑っている彼を見ていたら、だんだん自分もおかしくなってきて、結局二人でしばらく笑っていた。


 それをきっかけに、私は彼と話すようになった。

 お互いにキャンパスで見かけると、何となく近寄って話しかける。別に待ち合わせたり、連絡先を交換したりはしていない。けれど、いつの間にか大学にいる時の大半の時間を彼と共に過ごすようになっていた。

 そして、夏休み。一緒に買い物をしていた摩利に、その話をしてみると、彼女はニヤニヤと笑いだした。


「それ、そう言って付き合ってんじゃないの?」

「付き合ってないって。連絡先も知らないのに」

「何で交換しないのよ。私とはすぐ交換したじゃん」

「……何となく、そういう感じじゃないって言うか」


 私は直感的に察していた。関係を深めるようなことを言えば、きっと、この関係は壊れてしまう。だから、連絡先も聞かなければ、学外で会うようなこともしない。

 アイスラテを飲みながら、私は自覚していた。

 私は彼に惹かれている。

 だけど、彼は私のことをどう思っているのだろう。話しやすいクラスメート程度だろうか。彼には、付き合っている人はいるのだろうか。けれど、彼が自分以外の女子と一緒にいるところは見たことがない。

 思考に夢中で、ぼけっとしている私のことを、摩利が微笑ましげに見ていることにすら気づかない。

 摩利はアイスコーヒーを手に肩を竦めた。


「どういう関係であれ、夕稀が幸せならそれでいいよ」


 夏休みの間は基本的に大学には行かない。けれど、ある日。たまたま用事ができたので、大学に行くことになった。親の田舎に新幹線で帰省するため、学割のための証明書を発行する必要があったのだ。

 教務課のある建物で自動販売機から証明書を購入する。帰りに本屋でも寄ろうかと考えながら、外階段を降りていると、誰かが柱の辺りに立って、こちらを見上げているのに気づいた。

 彼だった。


「反町!」


 彼は私の苗字を叫んで、笑顔で手を振ってくる。まさか会えるとは思っていなかった。私は嬉しくなって、階段を駆け下りた。


「湯島君、どうして」

「今日、公務員試験対策講座の夏期集中講座だったんだ。さっき、反町が建物入っていくの見かけてさ。追いかけて人違いだったら、格好悪いし。出てくるの待ってた」

「そっか、だから」


 そして、湯島は首に手を当てながら視線を彷徨わせた。私を見ようとしているが、何故かすぐに目を逸らされる。


「……反町、これから空いてるか」

「ええ。特に何も」

「何か食いに行こう。講座も今日で終わりだし」


 私は少し驚いて瞬きした。今まで、こんなことを言われたことはなかった。


「良いけど……」

「けど?」

「……こういうこと、これまでなかったから。なんか、意外で」

「……照れ臭かったんだ」


 私は目を見開いた。聞き間違いかと思ったが、こちらを見ない湯島が、それは聞き間違いではないと教えてくれる。

 その夜、二人で食事をとった帰り道、私は彼に想いを告げた。思わず、別れ際に彼を引き留めて言ってしまった。言うなら、今しかないと思って。

 彼は意外にも驚いた様子だった。まさか、告げてくるとは思わなかった、と。見透かされていたことは気恥ずかしかったが、幸いにも彼は快諾してくれた。

 秋期が始まると、私は彼と常に行動を共にした。といっても、それは学内だけの話で、プライベートで会うことはあまりなかった。付き合い始めても、お互いに踏み込みすぎないように、どこかブレーキをかけているような感じがした。近づくことに、深入りすることに、躊躇いを感じていたと思う。

 けれど、彼と話していると本当に楽しかった。大学にいるときだけでも、一緒にいると幸せだった。彼も私と一緒にいるときは、いつも笑っていた。

 幸せに満ちた秋はあっという間に深まっていき、冬休みが近づいてきた。

 その頃には、何故か彼と会う回数が減っていた。理由はわからない。連絡を入れて、事情を聞いてみたら、彼は最近少し忙しいのだと答えた。具体的に何をしているかは、結局教えてくれなかった。

 ここで疑っても、良かったと思う。いや、疑ってはいた。私にも、女の勘というやつはあった。それでも、そのときは彼を想う気持ちが勝っていた。

 クリスマスの一週間前になると、久し振りに彼から連絡があった。


「クリスマス、出かけないか」


 断る理由はなかった。色々な疑いを持ちながらも、結局はデートできることを喜んでいる自分がいる。ただ無心に彼を想う自分と、そんな自分に呆れている自分がいる。

 彼はデート当日、待ち合わせ場所で会うと、まず頭を下げた。


「ごめん。最近、全然会えてなかったな」

「……何があったの?」

「……田舎にある実家の方で、少し揉めて。けど、もう大丈夫だから」


 このとき、私は彼が地方から出てきている学生だと知った。

 私の胸の中は完全に二極化していた。彼に対する想いと不信感。人格が二つに裂けそうだった。こんな心境を摩利に吐き出した日には、そんなに辛い気持ちにさせる男とは早く別れろと言われるだろう。

 しかし、恋をするということは不思議だった。こんなに苦しい思いをしても、いざ彼と会ってしまえば、幸福感が全身を包むのだ。


「じゃ、行こうか」

「どこに?」

「メインはプラネタリウム。けど、その前に色々見て行こう」


 彼は放っておいた詫びと言わんばかりに、徹底的に練り上げた完璧なデートを提供してくれた。駅から少し歩いたところにある複合商業施設に入ると、まずは男性が好みそうもない雑貨店に入った。


「心配させたから。せめて、お詫びに何か買いたい」

「……買収?」

「そこまで悲観しないでくれよ。彼女に貢ぎたいってだけさ」

「……わかった」


 彼女に貢ぐ。その行為の対象になる日が来るとは思っていなかったので、私は戸惑ったが、ここで頑なに固辞したら彼の面子を潰しかねない。彼のしたいようにさせようと思った。

 彼は、私が綺麗だと思って目を留めた香水を買ってくれた。昼食をとりながら、彼は私に問う。


「香水、好きなの?」

「付けたことない。けど、これは綺麗だと思って見てたのよ」

「付けてよ」

「今?」

「もう買った店からは出てるんだし。付けても問題ないだろ?」


 彼がそう懇願するので、私は包装から香水を取り出して、首筋に付けた。そして、昼食をとった店から出ると、不意に手を繋いできて言う。


「その匂い、いな」


 私は、こういうとき何と返せばいいかわからず、ただ俯くことしかできなかった。

 そのあと、ようやくメインだというプラネタリウムに向かった。事前に予約していたらしい大人気のカップルシート。二人でそこに寝転んで、天井を仰ぐ。

 普段なら親子連れなどもいるのだろうが、クリスマス当日ということもあって、他の客もカップルばかりだった。周囲にあるカップルシートから、プラネタリウムそっちのけで、いちゃついている男女の気配がする。

 私は純粋にドーム型の天井に映し出された星々を眺めていたが、隣にいる彼が寝返りを打つ気配がしたので、振り向くと目の前に彼の顔があった。初めて会ったときのような、真面目な顔。けれど、あのときと違って、彼の瞳には明確な意思がある。

 刹那、私は何故か拒絶しなければと思った。けれど、肉体は恋心に素直なもので。

 私のプラネタリウム鑑賞は、そこで終了した。


 あれは、彼との最初で最後の、ちゃんとしたデートだった。

 今、思い返しても、不思議なことに幸せな心地になる。もう、あれから五年も経っているというのに。彼の温もりも、匂いも、不思議なことにハッキリと思い出せる。肉体の記憶というのは、本当に厄介で恐ろしいものだ。


「みゃ?」


 傍らで丸くなっていた子猫が、いつの間にか目を開けて、こちらを見ている。

 私は微かに笑って、子猫を撫でる。


「みひゃあ」


 構ってもらえて嬉しいらしい。しきりに、手にじゃれかかる子猫を、私は半分死んだような虚ろな目で見つめる。

 彼が別れを切り出したのは、その年の春休みに入ってすぐのことだった。そして、告げられたのは、二つの真実。

 彼には田舎に遠距離で付き合っている彼女がいるということ。彼は転部し、春から別のキャンパスに移るということ。

 秋にあった田舎での揉め事というのも、彼女の父親が病気になって、憔悴する彼女を励ましていたのだという。

 私は何となく、この恋は碌でもない終わり方をするのではないかと思っていたので、さほど狼狽えることはなかった。けれど、それは自分が想定していたよりも、ずっと残虐な終わり方だった。現実は想定をはるかに上回る過酷なものだと、別れ話を聞きながら思っていた。

 そのとき私は別れたいと必死に訴える彼の話を黙って聞いていた。けれど、唯一彼に聞いておきたかったことは口にした。


「どうして、私と付き合ったの?」


 彼はこう言った。


「あのときは、好きだったから」


 当時は田舎にいる彼女とも、遠距離ゆえに少し疎遠になっていて。

 だから、タイミングを見計らって彼女を振り、私と付き合っていこうと考えていた、と。けれど、父親が病気になって縋るように連絡してきた彼女に心を動かされた、と。

 結局、私は男の天秤の上で良いように弄ばれていたのだと悟った。本人にその気がなくても、確かに彼は二人の女性を自身の天秤にかけ、より大切な片方を選んだのだ。

 それなら、何故クリスマスにデートをしたのか。そのときには、既に心は決まっていただろうに。そんな言葉が迸りそうになったが、全て飲み込んだ。どんな返答を聞いても、理不尽さで惨めになるだけだから。

 そして、私は後腐れなく、彼と別れた。彼は他キャンパスにある学部に転部したため、その後の大学生活で彼を見ることもなかった。

 回想に浸っていると、子猫が何かを感じたのか、玄関に飛んで行った。扉に飛びかかっている。同時に、チャイムが鳴った。

 私は億劫だったが立ち上がり、子猫を抱き上げて玄関を開けた。


「相変わらず、幸薄そうな顔してるねぇ」

「うっさい」


 私は大学卒業後、海辺にある、とある町の役所に勤めることとなった。そのため、家を出て、波の音が絶えず聞こえるこの小さなアパートに引っ越してきた。

 摩利は専門学校に通っていたため、私よりも早く卒業し、勤め先の社員寮に入った。普段は会えないが、こうやって休暇の時は必ずここにやって来る。

 摩利は私から子猫を受け取ると、目を細める。


「この前よりも大きくなったじゃん。この前は本当に小さかったのに」

「子供の成長が早いのは人も猫も一緒」


 この子猫は、先日弱っているところを見つけて拾った。酷い雨の日で、放っておいたら助からないと思って咄嗟に。

 譲ろうとも考えたが、数日面倒を見ただけで情が移ってしまい、そのまま飼うことになって今に至る。両親も、この子見たさに、ほぼ毎週顔を出しに来る始末だ。

 摩利は部屋に上がって、窓から見える海を眺めた。


「……夕稀」

「ん?」

「まだ引き摺ってんの?」

「私は、もういいのよ」


 子猫が摩利の手から離れ、私の足元に擦り寄ってくる。その場に座ると、膝の上に乗ってきて、昼寝の続きだと丸くなった。


「なんというか……信じられなくて、もう」

「あれは、彼奴が悪いんであって、夕稀がそんなになる必要は!」

「摩利」


 私の声の虚ろさに呑まれたのか、摩利が黙る。


「男と付き合うだけが女の人生じゃない。私は、そういう人生よりも」


 膝の上の子猫を見下ろして微笑む。その瞳には微かだが光が宿っていた。

 自分なりに、先に進もうとする、光が。


「小さくても、確かな幸せのある人生の方が、いいわ」


 生物としては、女としては、破綻してるのかもしれない。けれど、今は。


「この子、次に会うときは、もっと大きくなってるだろうから。楽しみにしてて」


 友がいて、この子がいる。この何気ない幸せを大切にする。そういう人生を歩みたいと思っている。

 主人の思いに応じるように、子猫が膝の上で明るく鳴いた。

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