初恋

スエテナター

初恋

 父が病気で死んだとき、私はまだ保育園に通っていて、妹はベビーカーに乗っていた。夏の蒸した空気が胸を押すようで、時折苦しく感じた。私の家の近くの、真っ直ぐ続く農道。延々広がる緑の稲の海。熱い風が嘆息のように稲の頭をさあっと撫でていく。幼い私は不思議なものでも見るように、稲の波を見ていた。遠くの線路に真っ白な鈍行電車が走っていく。夏空を映したような青い線がボディに引かれていた。線路の向こうには、濡れたような瑞々しい青い山。首を傾げたように、てっぺんが左に傾いている。どこかの工場から、金属の鋭い音が響いていた。私は何も忘れてはいなかった。高校の制服を着てこの農道を歩いている今も、あの日の散歩のことを忘れてはいなかった。父の弟、私にとっての叔父は、父が亡くなってからも、いつも私たち母娘のそばにいた。あの日も叔父は、ベビーカーを押す母の隣を歩いていた。斑に染まった茶色の髪。銀色に光るボタン電池のようなピアス。だぼだぼしたランニングの黒いシャツに、薄地のハーフパンツ。父の弟とは思えないほど派手な身なりをしていた。いつも軽口を叩いて母を笑わせていた、と言うよりも、苦笑いをさせていた。

「あなたはいい人、いないの? 私たちにくっついていても、つまらないでしょう?」

 綺麗に化粧をした母は、帽子の鍔の下で静かに寂しそうに微笑んだ。それを見た幼い頃の私には、その微笑みの意味が分からなくて、どうしてお母さんは寂しそうな顔をするのだろうと首を傾げた。私にとって叔父は、面白い遊び相手だった。体を思い切り動かす迫力のある遊びは、やはり男の人の方が向いている。こんなに楽しい遊び相手が目の前にいるのに、お母さんはなぜ悲しげなのだろう。私は妹の眠るベビーカーの持ち手に掴まって歩きながら、真っ直ぐ伸びる黒いアスファルトの農道を見た。ビニールでできたこのピンクのガラスの靴だって、叔父が買ってくれたものだった。ずっと憧れだったから、買ってもらえて嬉しかった。それなのに、どうして? 正直なことを言うと、今でも私はあの頃の母の気持ちが分かっていない。それでいいのだと思う。母も幼い私には何も分からないのだろうと思って、あんなことを訊いたのだろうから。私は稲の揺れる音を聞きながら駅へ向かった。制服のスカートが太股に纏わりついた。

 夏休みに入っても塾へ行くために毎日電車に乗った。容赦のない熱さが私の頭を眩ませた。電車に乗っても汗が止まらない。タオルで顔や首を拭った。たった一駅分乗っただけでは体は冷えない。休む間もなく目的の駅に着き、ふらついた頭を抱えながら電車を降りた。改札は目の前だったが、歩くのがつらかった。頭からみんな血が抜けたような、空っぽな感じがした。私は顔にタオルを押し当て、前屈みになって、休憩所の椅子に座り込んだ。どっと動悸がした。前屈みになったまましばらくじっとしていると、頭の上から誰かの声が降ってきた。

「大丈夫?」

 タオルからそっと顔を離し、声の主を見ると、それは、同じ塾に通っている顔馴染みの男子学生だった。名前は分からない。凪いだ水面のように静かな目で私の顔を覗き込んでいる。女の子のもののような柔らかい髪が、彼の白い頬を撫でていた。夏休みで染めたのだろう。金髪だった。

「気分が悪いの?」

 彼はわざわざ私に目線を合わせてしゃがみ込んだ。私は首を横に振った。

「大丈夫。少し休めば治るから」

「熱中症じゃないの?」

 彼は私の隣に座り、リュックからボトルカバーに入ったペットボトルの水を出した。

「これ、まだ蓋開けてないから。保冷カバーに入ってて冷たいし、飲みなよ」

「そんな、いいよ」

 私の言葉も聞かずに、彼は蓋をぱきりと開けてしまった。

「はい」

 蓋を開けて差し出されたものを、私は断れなかった。

「……ありがとう……」

 彼から受け取ったボトルはキンと冷えて、手のひらが痺れた。一口飲むと、体の筋がひんやりしていった。

「待ってて。スポーツドリンク買ってくるから」

 私は立ち上がろうとする彼の手首を思わず握った。

「いいの。大丈夫だから。そこまでしなくても大丈夫」

 彼は私の手を握り返すと、手首からそっと私の手を剥がした。そうして私の顔を覗き込み、子供をあやすような目で微笑んだ。

「君はここで待ってて。俺の自転車の鍵、君に預けていくから」

 彼は私の膝に小さな鍵を置いていった。私がこんな風でなければ、大声で呼び止め、鍵を返し、走って逃げてしまうのに。結局彼が戻ってくるまで、指一本動かせなかった。彼は甲斐甲斐しく介抱してくれた。

「君はもう、帰った方がいいよ。無理しない方がいい」

「……あなたはどうするの、塾。もう、始まってるよ」

「今日はさぼるよ。どうせ気乗りしなかった」

 彼は薄い唇で吐き捨てるように言った。

「君、どっち方面に帰るの?」

「姫日野駅」

「心配だから送っていくよ」

「嬉しいけれど、そんなことまで」

「俺、降りたことないんだ、姫日野。せっかくだからどんなところなのか見て帰るよ」

 彼は改札口の上の電光掲示板を見た。

「あと十分で来るよ。立てる?」

 彼は私の手を取り、椅子から立たせてくれた。私の荷物も持ってくれた。休憩所を出ると、むっとした熱気が顔に掛かった。姫日野方面のホームは二番、古いぼろぼろの跨線橋を渡った先にある。点字ブロックだけが鮮やかに伸びる鈍色のホームに立って、電車が来るのを待った。

「そうだ」

 彼は何か思い出したようにリュックを開け、中から一冊のノートを出した。

「これ、君のだろ? この前俺の荷物に混じっちゃったみたいで、返そうと思ってたんだ。君の鞄に入れておくよ」

「ありがとう」

 鈍行電車は風と金属音を巻きながらホームに滑り込んだ。遠くから見たときには白く輝いているように見えた鈍行電車のボディも、間近で見ると所々錆が見えて痛々しかった。ぷしゅう、と空気が抜ける音がして、電車の折戸は開いた。車内は空いていた。私たちは折戸の右側に伸びている長椅子に並んで座った。冷房はよく効いていた。電車はゆっくりと走り出し、古いものと新しいものとが入り交じった小さな田舎町の風景を窓に流した。彼は腕と足を組み、私の肩に寄り添った。

「君さ、時々黒いスポーツカーで塾から帰っていくだろ?」

 彼は私に凭れて静かな声で訊いた。

「あれ、彼氏か何かなの?」

「そんな風に見えるの?」

「いや、どうなのかなって思ってさ」

「あれは私の叔父さんの車。お父さんの弟」

「お父さんの弟?」

「そう。私のお父さんは私が小さい頃に病気で死んじゃったからもういないの。叔父さんとは小さい頃から仲良しで、今でもお母さんが仕事でいないときは色々助けてもらってるの。帰りが遅くなるときとか、天気が悪いときとか、送り迎えしてもらってる」

「なるほど。でも、随分派手な人だよね」

「叔父さんは昔からそうだったから」

 鈍行電車は三分で姫日野駅に着いた。折戸が開くと、やはり噎せ返るような熱気に顔を打たれた。彼は私と一緒に無人駅のホームに降りた。

「君、どっちの方向へ行くの?」

 私はホームから見える駅裏の風景を指差した。

「田んぼの向こうに工場が見えるでしょう? あの裏まで行くのよ」

「あのコンビニは通る?」

「あそこまで行っちゃうと遠回りになるの。私が歩くのはあの道」

 私は田んぼの中に線路と平行して伸びる農道を指差した。

「あの黄色のポールのところまでは行く?」

「うん、行くわ」

「じゃあ、君を送るのはそこまでにしておく。さすがに家まで行くのはまずいだろ? 歩けないなら話は別だけど」

「大丈夫。もう頭もはっきりしてきたから」

 住宅街と田んぼが混在する小さな町を歩き出すと、熱風が吹いて髪を乱した。彼の金色の髪もきらきらと輝いて夏空に舞った。彼は鬱陶しそうに首を振った。私たちは住宅街を抜け、駅のホームから見えた農道に入っていった。結局私は何もせずに一時間ほどでこの農道に戻ってきてしまった。塾での勉強はどうしたのだろう。名前も知らない金髪の男子学生と一緒にこんなところまで来てしまって、一体何をしているのだろう。私はぼんやりと歩いた。歩いているうちにいつの間にか彼と歩調が乱れていたようで、背後から彼の細い声が聞こえた。

「真帆」

 ――え? と、私が声のした方へ振り返ると、彼は私の腕を掴んで、みるみるうちに顔を寄せてきた。ああ、顔が近づいてくる、と思っている間に、彼は私の唇に自分の唇を押し当ててきた。そして、吹き去る風のようにさっと顔を離した。

「――え?」

 今度は本当に困惑の声が出た。彼の手は掴んだままの私の腕をするすると滑っていき、私の手を握った。

「真帆」

 聞き間違いではない。彼は私の名前を呼んだ。

「どうして私の名前を知っているの?」

 口づけをしたことよりも先に、そんな疑問が声に出た。

「だって、君のノートに書いてあったし」

 私のノートに? 確かに書いてあったのかもしれない。私は頭に硬い芯を刺されたようにぼうっとした。

「君を送っていくのはここまでだよ、真帆」

 私の両脇に、車止めの黄色のポールが二本立っていた。彼は覚えたての言葉を無闇に使いたがる子供のように、私の名前を繰り返し呼んだ。私の名前のはずなのに、彼の舌に横取りされてしまったような、寂しい空虚が流れた。

 どうして私の名前を呼ぶの? だって君、真帆って名前だろ? あなたの名前は何? 俺? 俺はハスキだよ。

「ハスキ……」

 頭の中に、さらさらと彼の名前が流れ込んできた。

「今日はいい息抜きになったよ。ありがとう、真帆。もう、一人で大丈夫だよね?」

「うん。もう、大丈夫。助けてくれて、ありがとう」

「バイバイ、真帆。また塾でね」

 ハスキは優しく笑って私の手を離した。驚くほどあっさりと私に背中を向けて、今来た道を戻っていく。細い背中にカッターシャツがはためいていた。足元から瑞々しい影が伸びている。歩調に合わせて動いている。私のスカートも揺れた。

 夏の空は突然誰かを裏切るように、顔色を変えた。あれから数日が経ち、ビビッドな景色がノイズ混じりに私の目に映り続けていた。その日、午前中はからからに晴れてうだるような暑さだったのに、午後からは黒い雨雲が湧き、帰宅の頃には豪雨になった。叔父が黒いスポーツカーで迎えに来てくれた。今日は夜勤とのことだった。私と十五歳しか歳の離れていない叔父は、まだまだ若くて見映えよく着飾っていた。まだ二十代だと言われても、信じる人がいるかもしれない。叔父はフロントガラスに叩きつける大粒の雨を見ながら言った。

「ひどい雨だな。濡れなかったか、真帆」

「大丈夫。迎えに来てくれてありがとう、リツト兄ちゃん」

「出すぞ」

「はい」

 私の叔父、律人兄ちゃんは、ギアを入れてゆっくりと車を走らせた。ライトを灯さないと薄暗く、激しい雨垂れでフロントガラスも歪んで見えた。車の中には私の知らない曲が流れていた。半分雨音に掻き消されていた。

「ねぇ、律人兄ちゃん」

「ん?」

「私、キスしたよ」

「は?」

「男の子と、キスしたよ」

「ああ……」

 律人兄ちゃんは困ったように顎を撫でた。

「何でそんなこと俺に言うんだ」

「誰かに聞いて欲しかったから」

「初めてだったのか?」

「……うん」

「そりゃあ、おめでとう」

 赤信号と前の車のテールランプで目の前が真っ赤になった。

「それって、おめでとうなの?」

「ん? 違うのか?」

「あ、じゃあ、おめでとうってことでいいよ」

「何だ、そりゃあ」

 律人兄ちゃんは慣れた手つきで何度もギアを入れ直した。中学生の頃、どうしてそんなにギアを入れ直すの、と訊ねたら、車が動かなくなっちまうからだよ、と教えてくれた。

「律人兄ちゃんはいい人いないの?」

「何だよ、急に」

「いつも私たちの面倒見てくれてるから」

「兄貴の遺していった子たちだからな。かわいいもんだよ」

「小さい頃、律人兄ちゃんによくお散歩連れてってもらったこと、今でも覚えてるよ」

「そうか?」

「ガラスの靴を買ってもらったことも」

「……よく覚えてるもんだな。俺は忘れちまったよ」

 律人兄ちゃんはハンドルを切りながら言った。

「お前たち姉妹は二人とも義姉さんに似たな。若い頃の義姉さんと、瓜二つだ」

 通り掛かったガソリンスタンドの眩しいライトに照らされて、律人兄ちゃんの瞳は繊細に光った。何か隠し事をしているような、陰影をちらつかせる横顔だった。

 律人兄ちゃんに送ってもらった私は、妹と使っている二段ベッドの下の段に、どっさりと倒れ込んだ。小さい頃には分からなかったこと、見えなかったものが、急にはっきりとした答えになって、私の胸に迫ってきたような気がした。スカートのポケットには、返し忘れたハスキの自転車の鍵が入っていた。鍵がなければ自転車には乗れないはずなのに、ハスキは困らないのだろうか。あれ以来、塾でも顔を合わせていない。元気にしているんだろうか。初めて私の顔を覗き込んできたときのハスキの顔は儚げで綺麗だった。金色の髪が、少し似合っていないような気がしたのは私の気のせいだろうか。ハスキに会いたい。会ってどうするのだろう。私の存在をハスキの胸の中に打ち付けてしまいたい。そんなことをして何になるのだろう。私は枕に顔を押し付けて、熱い頭のまま目を閉じた。

 その日はまたかんかん照りの暑さだった。保冷剤をタオルに巻いてきたが、塾に着く頃にはぬるくなっていた。ハスキは今日も塾には来なかった。午後になって塾が終わり、鈍行電車で姫日野に帰った。電車を降り、小さな駅舎を出たときだった。駅舎前の柱にハスキが凭れ掛かってスマホを見ていた。彼の耳には銀色のピアスが一粒光っていた。私に気がつくと、か細い声で、真帆、と呼んだ。私の胸は、熱くなったり冷たくなったりした。

  稲の靡く音が町いっぱいに響いていた。私たちは駅裏の農道を歩いた。あの日私たちが別れた車止めの黄色いポールまで来ると、ハスキは突然背後から、私の体を抱いた。私は胸元に回されたハスキの腕をそっと握った。ハスキは私の耳元で、消えそうなほど小さな囁きをした。

「真帆、俺、変なんだよ。髪を染めたりピアスを開けたり、真帆にキスをしたり、こうして抱き締めたり、おかしいんだよ。自分でも分かってるんだよ。変だなって分かってるのに、どうしたらいいのか分からない」

 私は僅かに顔を反らした。

「ハスキ、自転車はどうしてたの?」

「自転車?」

「私、ハスキの自転車の鍵を返し忘れてたから」

「ああ……それは……」

 ハスキは掠れた声で言った。

「昔の鍵だよ。鍵の本体が壊れたから、真帆に預けた鍵は、もう使ってなかったんだ」

「ごめんね、返し忘れちゃって」

「もういらないよ。真帆にあげる」

 スカートのポケットが急にずっしり重たくなった。ハスキは私の肩に額を擦り付けた。

「俺の方こそ、ごめん。鍵を返してもらってないの、気付いてたんだけど、真帆に持っててもらった方が、俺を覚えててもらえるような気がして。甘えた真似して、本当にごめん」

「ハスキ、寂しいの?」

 ハスキは私の肩で小さく頷いた。

「何をやっても、寂しい気持ちはなくならなかった。どうしたらいいのか分からない」

「私も寂しい。――私も寂しいよ」

 一筋の熱風に吹かれて、私は自分の中の過去の思い出が、綿のように千切れてどこか遠くへ飛んでいってしまうのを感じた。手を伸ばして、待って、と叫ぶ間もなかった。私の体はハスキの腕に閉じ込められている。追い掛けることもできない。彼の唇は震えていた。そうだ。私はあの日、この人に、助けられたのだ。優しい目で、優しい手で、助けてもらったのだ。私はハスキの二の腕を撫でて彼の名前を呼んだ。

「ねぇ、ハスキ」

 私は彼の腕を解くと、向かい合って、彼の頬を撫でた。

「あのとき、私を助けてくれてありがとう。優しくしてくれて、嬉しかった」

 私はハスキの顔を引き寄せた。遠い夏空の彼方に鼓動が高く飛んでいく。

 あのとき、ハスキはどんな気持ちで口付けをしてくれたんだろう。平気な顔をしているように見えたけれど、本当はどうだったんだろう。

 顔が近づく。何もかも無音になる。

 走り去る風の中で、ハスキの唇に、そっと触れた。

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