自分を殺さなきゃいけないからね。
聞き慣れた声に起こされる。
「おはよう」
インチキ哲学者の霊に見下ろされている。
彼のボロ布は血、血、そして血にまみれている。
しかし彼は霊ではない。彼はこちらの頭を撫でる。
「無事だったみたいだね」
「どうやって――どうして……」
彼はやつれた笑いをみせて、肩をすくませる――というよりもすくませようとする。「君をひとりにできなかった。がむしゃらに階段を登った、そうしなかったら君とは永遠に会えないと思って」
「右腕はどうしたの?」
「取られた」、と彼はつらそうに微笑む。
「それは――」
「あのおじさんは?」と彼は周囲を見る。
「彼は――彼は逃げていった」と上を指す。「食料は取られた」
「不意打ち?」
「まあね」、とばつ悪く鎖をいじる。
「そっか」
彼は壁際に行き、痛みで呻きながら座り込む。「僕も何も食べるものがない」
自分は激しく腹が空いていた。それは彼も同じのようだった。
彼が目を閉じる。自分もそうする。
かすかな、くぐもった音が下から聞こえてくる。きっと《彼等たち》だ。
「君は行かないと」、と彼は言う。
目を開ける。「何を言っているの?」
「僕を殺して、体を連れて行って」彼は頂上の光を見上げる。「きっといけるさ。きっと」
そんなこと、できるわけがない。
「いいや。誰かが来るのを待とう。その人を殺して……」
彼は力なく笑う。「誰かを殺す体力は僕にはもうないよ。君もね」
「でも――」
「二人が助かる方法を探すほど、二人とも残された時間が減っていく」
自分は首を振る。「そんなのわからない」
「いいやわかる。たとえ僕が君を殺しても、僕は遠くにはいけない。血を失いすぎた。でも君が僕を殺して食べてくれれば、君は生き残れる。少なくとも僕よりは」
「でも二人で行くことだって――」
「もう飢え死にしそうなんだ。一人しか無理だよ」
手すりを頼りに自分は立ち上がる。彼のいるほうに下っていこうとするが、たった三歩で息切れしてしまう。
「もう僕なんか忘れてくれ」、と彼は言う。「行きなよ。会ったことも全部忘れよう。全部。きっとそういうものなんだ。僕たちは忘れていく。僕たちはそうやって前に進んでいくんだ。悪いことじゃない」
「でも自分はそう生きたくない」
「ならこれからどうするの?」
「自分は――自分は誰も殺したくない」
「みんなそうさ」と首を振る。「人を殺すのは簡単じゃない。自分を殺さなきゃいけないからね」
「……」
彼は弱々しい笑みをたたえて言う。「どうする?」
***
「次、お願いします」
ひとつ前の人が、ノックして部屋の中に入っていった。自分は空いた席に移る。他の人もそれに倣う。圧縮機に送り込まれるひき肉の塊みたいに。
もうすぐ、自分の番だ。
どうしようもないんだ。
でもそれは嘘だった。
自分はいつだって選べる。
いつだって選択肢がある。
それを自分で認められるかどうかなのだ。
***
「ごめん」と自分は泣いた。「ごめんなさい」
「いいんだ」、と彼は言った。「いいんだ」
彼の首に巻きつけられた鎖を強く握り、引っ張る。
最初、彼は動かない。それで自分は安心する。まるで彼の体が運命を受け入れたかのようだった。
しかし、彼はじたばたし始める。蹴ったり、身を捩ったりする。こちらの鎖をもつ手を、彼の左手がこじ開けようとする。しかし自分は離さない。彼の右腕だった断面を見て、彼の透明な右手も同じようにこちらの手をこじ開けようとしているのを感じる。けれど自分は離さない。
やめたいと思う。彼を生かしたいと思う。でも自分は手を離さない。
自分の手で彼を殺してしまえば、彼と出会った時の安心感や、お互いを気に入ったときの温かみや、夜を共にしたときに感じた希望を、どのように理解すればいいのかわからなくなるかもしれない。
まるで数をひとつずつ足していって、最後にその和にゼロを掛けるようなものだった――いかに積み重ねようとも、全てはゼロになってしまうのだ。
自分はそんな選択に耐えることができるだろうか?
人を殺すのは簡単じゃない、という彼の言葉を思い出す。自分を殺さなきゃいけないからね。
でも手を離さない。
手を離さない。
離さない。
彼はまだ暴れている。排泄の独特の臭いが、彼の体からし始める。
しかし三十秒ほど経つと、ようやく彼の体から力が抜ける。
自分はあと二十数えてから、手を離す。
そうして彼は、死んだ。
***
立ち上がる。
「急用ができたので、辞退します」
ほかの人たちは混乱した眼差しを向けてくるが構わない。
エレベーターホールに行き、上ボタンを押す。
呼び止められた気がしたけれど、振り返ることはしなかった。
塔 渡名 すすむ @watana_susumu
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