食い違う二人と独り
瀬戸の蝙蝠
彼女という存在
一限終了のチャイムが鳴ったと同時に、僕は前の机に置いてある課題用のプリントを一枚とって折り畳み、そそくさと8号館の地下教室を後にした。次の授業は7号館3階B室での解析学。急がずとも5分で着く距離だ。開始までの猶予は15分。同じ授業を履修してる顔なじみの連中は、まだ退屈さの余韻に浸りながら、友人と談笑していることだろうが、僕はただその場に居たくなくて、逃げ出すように外に出た。今朝見た新聞記事の影響だろうが、そこにある和気藹々とした雰囲気が、僕自身を絡めとろうとしているようで、なんだか気持ち悪かったのだ。
「健一、おい、健一」
8号館1階東口から出てすぐ、僕は声をかけられた。聞き覚えのある声に驚きつつ振り返る。颯太だった。中学時代からの友人で、同じ高校に通い、同じ大学へ進学して、同じ学科に進んだ腐れ縁。すっきりとした細身の長身は、シンプルなパーカーが嫌に似合っていて、昔から変えていない度のきつい安物の眼鏡も、どこぞのブランド品かなにかに思えてくる佇まい。三か月前とは見違える姿になった彼は、僕が今一番探していた相手だった。こっちへ来いと、8号館横のドリンクスペースから手招きをしていた。僕は不自然さを感づかれないように、目だけを動かして警戒しながら颯太に近づいた。
「ああ、颯太か、久しぶり」
ちゃんと発音できていたか自分でも怪しかったが、颯太は僕の声の様子を気にかけるふうもなく、コーラを飲んでいた。小太りで野暮ったいネルシャツ姿の僕と並ぶと、どうしても際立ってしまうせいか、通りかかった女性たちはおっという顔と、苦々しい顔の露骨なビフォーアフターを、わざわざ僕に見せるようにかましていく。安心してほしい、大丈夫。別に今の颯太と付き合ったとしても僕はついてこないから。付き合えたとして、の話だけれど。
「最近すれ違い気味だったからさ、なんかあったのかなぁって思って」
「いや、特にはないよ、いつも通りさ、本当にいつも通り、はは、結構忙しいよね大学生って」
そう、本当にいつも通りだ。ここ三か月、僕は授業にただ履修した授業に通っていただけだ。本当にただ通っていただけ。なのに今日まで一度も出会わなかった。ただそれだけだった。
挙動不審にならないように注意しながら、僕は周囲への警戒を怠らない。眼球だけを文字通り目まぐるしく動かして、颯太に逃げられないように算段を立てる。どこからか誰かが僕らを見てはいないか、僕は今下手なことを口にしていないか、今この状況下での不自然さは、何よりも命取りに思えた。声をかけられてから先、僕の脳内ではアラートが鳴りっぱなしのまま。愛想笑いの後、生唾を呑み込んだところでようやく、僕は自分の喉が渇いていることに気づいた。
「なんか飲む?」
飲みかけのコーラを揺らしながら、颯太が言った。
「ああ、いい、いい、水筒を用意してあるから」
僕はリュックの横に刺したマグボトルを手早く取ると、お茶を一気に飲み干した。一日分のお茶だけれど、知るもんか。僕の喉はどうしようもなく乾いていた。
「いやでもさ、本当、久しぶりだな、三か月くらいか?前に三人で会って以来だよな。同じとこに通ってても、案外会わないもんだよな」
「ああ、そう、そうだね、もうそんなになるかな。確か、忙しくて全然、ほら、結構さ、忙しいと早く感じちゃうっていうでしょ、そういうやつだよ」
そう、三か月だ。僕らは同じ学科で、同じように履修登録をして、同じように授業を受けているはずで、それでも出くわさなかった。三か月前に三人で会った後、次の日に学校で話したのを最後に、颯太の姿を見た記憶が無い。颯太の方が僕と会わないようにうまいこと避けていたとしても、あんまりにもおかしな話だった。
「履修のほうは、どう?うまくやってる?」
「ああ、授業か、かなりね。時間の配分っていうのかな、過去問とかも先輩からもらってるから、たまに顔出すくらいで十分かなって」
「へえ、そう、そりゃ、ああ、うらやましいね。もしかして代弁とかしてる?」
「まさか。ちゃんと出てるよ。大体、休んでも行くところなんかないだろ、こんなところじゃ」
「まあ、そうかもな、うん」
一度、丸一日、すべての授業で、出席簿を確認してみたことがある。僕も颯太もとっているはずの科目全てで。僕は教室の最後尾に陣取り、授業内容もそっちのけで、人の出入りを90分間、ずっと神経をとがらせて監視していた。点呼から何から全部。そして、授業終了後、教員に頼み込んで出席を見せてもらった。全ての授業で、颯太は出ていることになっていた。顔なじみのやつに確認を取ると、颯太は確かに教室に居たという。最近彼痩せてきたね、なんて言われても、分からなかった。僕は、かけらも見た記憶が無かったから。声すら聞いた覚えがなかったから。
「今晩とか、どう?暇か?久々に、この前みたいに三人で集まらないか?」
心臓が跳ねた。喉がひきつるのを感じた。僕は全身のこわばりをどうにか表に出さないように、声を絞りだした。
「ああ、三人で?そう、そうだ、聞きたいことがあったんだよ、その、三人で集まるのはいいんだけどさ、この前の三人っていうのは」
「ああ、この前と同じ、俺と健一と彩乃の三人でだよ」
ぞくりとした。僕は自分のうかつさを呪い、息を飲んだ。そうか、そういうことになっているのか。颯太の中では、大樹の事は、もう。まずいことを言えば、すぐにでも颯太が消えてしまう、逃げてしまう気がして、僕はしどろもどろになりながらも、この場をどうにか取り繕うことにした。
「ああ、うん、はい、そう、そう、三人。その三人だ、確かに、三人でね、考えておくよ、もしかしたら急に用事が入るかもしれないから、ほら、大学生って色々あるからさ」
「なに慌ててんだよ。別に俺は健一に彼女を取られるとか思ってないから安心しろ、大体、いつも三人一緒にいたじゃないか、今更何に気を遣うんだよ」
「まあいろいろ、いろいろあるんだよ、いろいろ」
確かに僕らは三人一緒にいた。いつも何をするにも三人一緒だった。世に言う腐れ縁でつながれていた僕ら三人。僕、颯太、それに、大樹。そう、大樹。僕らと同じ小太りで、僕らと同じ垢ぬけなくて、僕らと同じように、過ごしてきたはずの、大樹。あの日集まったはずの三人のうちの一人で、僕らが集まるきっかけになったはずの、大樹。僕はあの日から、ずっと大樹と颯太を探していた。二人だけで話していたあの後に、何があったのかを確かめるために。
「まったく、変な奴だな」
「はは、いつもこんなもんだよ、こんな、そう、こんな感じなんだ」
お前のほうが、という言葉は、出すよりも先に消えてしまった。今の状況の得体の知れなさに、言葉のほうが逃げ出したんだ。僕らに何かが起きている、何かがおかしいんだ。僕は颯太との間にある、認識の違いをすり合わせることにした。僕の記憶通りをそのまま伝えることは、あまりにも、危うい気がしたから。
「そういえば、この前三人で集まって、なにしたんだっけ?ボドゲでもやったかな?」
「おいおい、覚えてないのかよ。俺が彩乃と付き合うようになったからって、健一のほうから押しかけてきたんじゃないか。幸せを分けろーって」
「ああうん、そう、そうか、そうだよな、そうだった気がする。最近もの忘れがひどくなって」
「しっかりしてくれよ、まったく」
違う。そもそもあの日僕らが集まったのは、大樹が彼女が出来たなんて言い出したからだ。僕ら三人の中で一番色恋に積極的だったとはいえ、僕らと大差ない大樹が何かやばいことをしでかしてるんじゃないかって、問い詰めるために集まったんだ。
「まあでも、思い返しても、なんか健一を置いてけぼりにして、二人で盛り上がってたような気がするし、なんか悪かったなぁあの日は」
「いいよ、いい、気にすんなよ、そういうこともあるって」
違う。あの日颯太は軽くキレていた。なんとなしに祝おうとしていた僕と違って、本気で幸せをぶんどりに行ってたんだ。そうだよ。覚えてる。あの日僕はほぼ一日中、にやにや笑いの大樹の前で、颯太をずっと羽交い絞めにしてたんだ。そして、僕の拘束を振りほどいて、取っ組み合いの喧嘩を始めたんだ。
「ああ、そういえばあの日、結構酔っぱらってじゃんか、なんか颯太を殴っちゃったような気がしててさ、あの日の傷、もう治ってるかな」
「でこにあるひっかき傷のことか、あんなもんすぐに治ったさ」
「ああ、そう、それは、それは良かった」
違う。あの日颯太が怪我をしたのはそこじゃない。大樹の家で暴れて、太ももを机にぶつけてたはずだ。額を怪我したのは確か、大樹の方だったはず。何もかも、何もかもがだ。僕が覚えていることと、颯太が話すことが食い違っている。あの日あの場所に居たのは、確かに僕ら三人だった。彩乃さんは、颯太ではなく大樹の彼女であるはずだった。あの日あの場所に、彼女は居なかった、はずなんだ。
「あーこんなところに居た。探したんだよ颯太」
びくついたと思う。怖気が走ったと思う。全身がこわばったはずだ。僕は、ただその声を聞いて、終わったと思った。何かが終わった気がした。
「悪い彩乃。久々に健一を見かけてさ。三か月前会ったっきりだろ?ちょっと世間話をしてたんだよ」
「へぇ、そういや、お久しぶりだね、健一、元気してた?」
「え、あ、う、うん、元気、元気だよ僕は、ずっと元気だった」
僕は彩乃さんの馴れ馴れしさが怖かった。だって僕たちは、一度としてちゃんと会ったことなんてなかったから。あの日僕は大樹に写真を見せてもらっただけだ。
もしかして、あの場所に彼女が居たのか?僕らに分からない形で?あの狭い部屋のどこかに?僕らにも気づかれない場所に?
このままじゃらちが明かないと、スマホに手を伸ばした僕は彩乃さんの小さなつぶやきに刺された。
「気づくな」
「え?」
「ん?どうした健一?なんか顔色悪いぞ」
「え、あ、あ、ああ、うん。なんでもない、なんでもないよ、うん」
一瞬、痛みが走った。それは確かに身体的な痛みで、僕は指先に温かさを感じた。
「そろそろ行こうか、颯太」
「ああ、もうこんな時間か。健一、遅れないように授業に出ろよ、じゃあな」
「ばいばい」
「あ、ば、ばいばい」
手を見た。血が流れていた。何か鋭利なもので裂かれたような、きれいな痕が残っていた。スマホの保護シートにも、まっすぐ一本の線が引かれていた。
僕はブラウザを開いて、颯太に見せようとしていた記事を閉じて、履歴ごと消した。今朝見つけた、ネットの記事。何とはなしに調べてしまった、事件記事。数年前のその失踪事件に添えられていた写真は、大樹が彼女だと言って見せてきた彩乃さんにそっくりで、名前も、友人からの評判も、大樹から聞いたものとまるで同じで、今までそこに、颯太の彼女として、僕の顔見知りとしてそこに居た、見知らぬ誰かのものだった。
立ちすくんでいたら、チャイムが鳴った。僕は急いで教室へ向かいった。もう授業は始まっていた。90分。7号館3階B室には、授業に出ているはずの二人の姿はどこにも無かった。僕はその日、独りになった。
食い違う二人と独り 瀬戸の蝙蝠 @usokuchi
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