雨の日の女

@aoibunko

全1話

 その日は朝からどしゃぶりの雨でした。私は小学3年生、いつものようにランドセルを背負い、黄色い傘を持って玄関を出ると、黒い空から大粒の雨が地面に向かってびしゃびしゃと叩きつけるかのように降っています。ぱちんと傘をさしてみたものの、こんなひどい雨では傘を差したところで、ランドセルや靴下やスカートの裾が濡れるのは避けられないようです。


 傘をさし、そろそろと雨粒の跳ねる道へ足を踏み出した途端、うちの家の向かいの歩道に立っている女の人と目があいました。彼女は真っ赤なレインコートを着て長い黒髪を垂らし、黒い大きな雨傘をさしていました。虚ろな目つきはこどもにも正気ではないものを感じました。あわてて目をそらした私は、早足で学校に向かいました。このとき家に戻って家族に「変な女の人がいる」と報告すべきだったかもと思います。しかしまだ9歳の私にはそこまで頭が回らなかったというか、遅刻せず登校することだけを考えて雨の中を歩いていました。


 ふと視界の端に赤いものが見えました。横を見ると、道路の向かい、赤いコートに黒い傘の女が歩いているではありませんか。女はこちらをちらちら見ながら私をつけてきたようです。恐ろしくなった私は、通学路をびちゃびちゃ泥水を跳ね上げながら一心不乱に走りました。すると女もふらふらと走り出しました。追いつかれまいと必死で走る私の前に、小さな色とりどりの傘がいくつも見えてきました。小学校に登校する子供たちの傘です。黄色い傘の私は息を切らせて傘の群れにまぎれました。ちらちらあたりを見回すと女はいません。どうやら女は人目を嫌ってあきらめたようです。


 授業が終わっても雨は降り続いていました。窓からは景色が霞んでうすぼんやりとして見えます。朝から濡れたままの靴下を気にしつつ、がやがやと賑やかな昇降口で靴をはきかえ、外を見ると、今朝の女が校門の外に立っているではありませんか。傘をさした私は級友たちの輪にまぎれて女をやりすごそうと歩きはじめました。すると女は大胆にもこちらにふらふらと近寄ってくるのです。恐怖で顔があげられない私でしたが、近くを歩いていた上級生の男子が何か用ですかあと声をかけたのです。子供に話しかけられた女はひどく狼狽した様子でした。雨音でよく聞こえませんでしたが、何かぼそぼそ話しました。女の話を聞いた男子は私を手招きしました。彼は雨音に負けない大声で言いました。

「あのな、お前のお父さんを探してるってさ。」


 有難くも親切な級友たちは、私の恐怖も知らず、女を私の隣で歩けるよう仕向けてくれました。おそるおそる女の顔を見ると大人なのになんだか脅えているようでした。やがて自宅が近づいた級友たちがじゃあねバイバイと少しずつ離れてゆき、とうとう私と女二人だけになりました。私は黒い傘の下の女をちらちら観察しました。赤いレインコートは良くみるとあちこちほころびています。雨でじっとり濡れた長い黒髪、その間から見える顔は目鼻立ちの整っていますが、肌が青白いのと虚ろな目つきのせいでなんだか「お化け」のように見えました。そして私同様、彼女も何かを恐れているかのようにびくびくしているようでした。


 雨はびしゃびしゃと降り続いていましたが、うちが近づいたところで空がぴかっと光りました。女はびくっと体を震わせ、そわそわしだしました。しばらくして遠くでごろごろと雷が鳴ります。女は目をつぶり、傘を持っていない方の手で耳を塞ぎました。私は思わず

「雷が怖いの?」

と大声で聞きました。私に話しかけられた女は脅えた様子でこくりとうなづきます。それを見た私は、この前図書室で読んだ科学まんがで覚えた知識を得意げに披露しました。

「あのね、雷はねぴかって光ってごろごろ鳴るまでの時間で距離がわかるの。今の雷は光ってごろごろ鳴るまでだいぶ時間があったから、遠くで鳴ってる雷だよ。だから落ちてくることはないの。」

女は傘の柄を両手で握って私の目をじっと見ながら聞いていました。そして

「うん、そう、そうね」と言いながらうつむきました。

「雷怖くなくなった?」

「うーん」

「まだ怖い?」

「うーんと」

「怖いのってわからないから怖いんだよ。雷がよくわかってないから怖いんじゃないの?」

いつのまにか女への恐怖は消え、私はしつこく彼女に問いかけました。

「……」

「え?」

雨音で女の言葉が聞き取れません。訊き返すと女はにっこり笑って大きな声で言い直しました。

「あなたって優しい人!」

そのあとのことは、なぜかまるきり記憶にありません。


 女は私の父の愛人でした。事務員として働いていたとき、同じ会社の父と知り合い、深い関係になったものの、二度も中絶させられ、心と体を病んで退職したのだそうです。あの日、彼女は父にもう一度会おうと決意し、雨の中、我が家を訪ねてきたのです。しかし大雨が彼女の計画を狂わせました。駅から歩く道は視界は霞み、ぬかるみに足をとられ、やっと着いたときには父はもう出勤したあとでした。そのあと登校する私のあとをつけたのは、物狂いだったのでしょうか。学校まで来た彼女は道に迷ったことに気付き、帰るに帰れず、やむなく私の下校を待つほかありませんでした。

 私が彼女を連れ帰ったあと、母と姑は戸惑い、帰宅した父に事情を聞いてパニックになり、嵐のような大喧嘩が一週間も続いたそうです。そんな話を私は父の葬式の日に口さがない親戚の女性たちから聞きました。


 私はあの頃の彼女の年齢をとうに過ぎました。同じ女として妻子ある男の口車に載せられた彼女を愚かとあきれつつ、あの大雨の日の出来事はなにやら懐かしく思い出されるのです。

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