メモリアル・サイダー
さぬかいと
メモリアル・サイダー
「幸せを呼ぶ薬?」
まだ空が紅く染まる前の病室で、差し出された薬瓶を掲げながら横に座る友人に訊ねる。
「正式名称は『人魚の薬瓶』って言ってね、その薬を飲むとその人の願いを叶えてくれるんだって」
その説明だけでもかなり疑わしく、どう聞いても嘘としか思えないのだが隣にいる真理はその話を信じているみたいで、何処かで買ったその薬をにこにこしながら持ってきていた。
中では、小さな泡がぷくぷくと浮かび上がっては弾けてを繰り返し、液体の冷たさで瓶の側面には水滴がベッドの上へと滑り落ちていた。
これが薬でなければ夏の風流として少しは爽やかさがあったかもしれないが、私にはただの怪しい炭酸水にしか映っていなかった。
「胡散臭すぎる」
「で、でも今度は本当に叶ったって言う人が書き込みしてるから、信憑性はあるよ」
率直な感想に、これまた真偽が定かじゃないサイトの誰か分からない人の書き込み画面を見せながら力説をするが、何から何まで信じる要素皆無な薬を信用するはずがなかった。
ここに滞在するようになってから、真理は毎日のように謎のおまじないや得体の知れないパワーアイテムや薬など、事あるごとにオカルト関連の物を持ってきては試そうとしている。それは一般的な噂レベルの物から下手をしたら本当に呪われそうなものまであり、場合によっては気になりすぎで眠れないこともあった。
「それに、そういう話って裏があるんじゃないの」
私の疑問に、真理はどきりとしてそっぽを向いている。図星だったらしく、冷や汗をかきながら説明を求める私の視線にぼそぼそと答えていた。
「……この薬には副作用があって、飲んだ後に水に触れると泡になって消えちゃうんだって」
「だから人魚の薬瓶ってわけね」
名前の通りの効果に小さく鼻を鳴らしてから、瓶を真理の方へと返す。それを一瞥して、彼女は様子を窺うようにして顔を覗き込んできた。
「それで、物は試しで使ってみようとかは……」
「ないかな。仮にそれで私の病気が治ったとしても、水に触れずに生きるなんてどう考えても無理に決まってるでしょ」
強くなってしまった語気がきつい言い方のようになってしまい、気づいた時には友達をしゅんとした顔をさせてしまっている。
そうさせるつもりはなかったが、現代医療で無理と言われた病をおまじない如きでどうこう出来るなんて有り得るはずがなかった。
「ちょっと言い過ぎたわ、ごめん。でも、私が冬を超えられないのは真理も知ってることでしょ」
「……そんな寂しいこと言わないでよ、しぃちゃん。他に方法があるかもしれないって、皆探してくれてるんだから諦めちゃ駄目だよ」
私の現実を包むように優しく触れる手は小刻みに震えていて、目には涙を溜めている。
そういう表情をされるのはあまり得意ではなく、何かしら言いたくなる気持ちも失せてしまっていた。
次第に凍り付き始めた空気を、院内の五時の時報がほどよく溶かし、もうすぐ沈もうとする太陽の光がほんのりと差し込んでいた。
「もう夜になるから、今日のところはそろそろ帰りなよ。それは置いたままでいいから」
「…………そうする」
名残惜しさとは違うぎくしゃくした雰囲気のまま、学校帰りの友達は鞄を持って扉に向かう。
寂しそうな背中を落ち着いて見送っているのも束の間、突如として肺が詰まるような息苦しさに見舞われ、その場で咳き込んでしまう。
「大丈夫?!」
「ちょっとむせただけだから平気」
咄嗟に口を抑えた左手をすぐに布団の中へ忍ばせ、空いた手を突き出して駆け寄ろうとする彼女を静止させる。そのまま手首を振ってじゃあねと別れを告げる。
症状はすぐに落ち着いたが、未だ不安の色を隠しきれない彼女は、心配そうな眼差しでこちらを気に掛けながら部屋を出ていった。
* * *
消灯時間も過ぎて物音一つしなくなった病室で、開け放ったカーテンから空を眺める。しかし、残念なことに空を覆ってしまうほどの厚い雲が暗闇の中でシルエットとして浮かぶだけで、後は何も輝いてはいなかった。
それでも外からの薄明かりが室内を照らしてくれるのが心地良いので、いつも寝る前はわざと窓からの景色は見えるようにしている。
視線を外から室内に戻し、今度は明かりのない天井に左手を掲げてみる。黒一色で分かりにくいが、掌を中心に変色した血が付いていることぐらいは濃淡の差で何となく理解していた。
真理の前では大丈夫な素振りをしていたけど、実際のところは思っている以上に身体は良くない。
初夏を迎えた辺りから咳き込んだ時に鉄の味がするようになり、それが口から度々出てくるようになっていた。そして、月日が経つごとに回数も手に残る量も増えていき、今ある薬全てを使っても改善する兆しは一向にみられなかった。
このことを真理が知ったら、絶対に怒るよなぁ。
左手の血だまりをぼんやりと映しながら、打ち明けた時のことを考えてみる。目に浮かぶ顔は、この世の終わりにでも直面しているのかというほどに絶望していた。
それを避けたいがためにずっと手を隠し、元気なように振舞い続けている。けれど、最近は普通に会話するだけでも体力を使い果たすことが多く、気づかれるのも時間の問題となっていた。
上げていた左手を、力なくベッドの上に降ろす。もう一度外の景色を拝もうとするが、広がっている曇天はそう簡単には晴れてはくれそうにはなかった。
そんな時、部屋の隅に置かれた花瓶の横に、今日の置き土産の薬が弱い光を吸収して反射する様子が目に飛び込んできた。
「人魚の薬瓶、だっけ……」
力なくそれを掴むと、中ではまだ泡が弾けている。普通の炭酸ならもう中のガスは抜けている時間なのだが、何処からか沸いてくる気泡は絶えそうにはなく、今はそれが何処となく不気味だった。
「どうやったら、こんなの見つけてくるんだろうね」
瓶の後ろに映る親友の顔に小さく笑いかけてみる。すると、彼女もにっこりとこちらに微笑み返してくれた。
中学で知り合った時から一緒にいてくれて、皆が入院した物珍しさに飽きて去っていった後も毎日のように足を運んで、やれ伝説のアイテムだの何処かの術式だの迷信でしかないことでひたすらに私を元気にしようとしてくれる。
そんな彼女に申し訳ないとは僅かに感じてはいるものの、どのおまじないも何かしらの理由や悪態をついては未だ試したことはなく、受け取った道具は全てベッドの下の箱に仕舞われたまま埃を被っていた。
結果が分かっているから手を付けないのかと聞かれると、それも一つの答えなのは確かだった。
昔から神様や伝承みたいなものは信じたことはなく、世間が当たらない終末の予言を話題にしていた時も、私は普段通りの生活を送っていた。
それ故に、真理が持ってくる話も信じてはいない。けれど、それを止めろとは言わず、迷信の真相を明かすこともしなかった。
正確には、私には出来なかった。
あの子が毎日のように、オカルト話を持ってくる意味を知っているから。
それを全て嘘だと言って悲しませたくはないから、いつも「胡散臭い」と言って誤魔化してばかりだった。
感傷に浸っている間にも、また息苦しくなって左手で口を抑えて咳き込む。数回すればすぐに収まってはくれるが、手には真っ赤な血が上塗りされていた。
反対の手には薬瓶をまだ握り締めていて、変わることなく泡を吐き出している。その裏には、先ほど目にした真理がまだ私に笑いかけてくれていた。
……どうせ、冬までしか時間がないのなら。
謎の奇病にずっと苦しむ現実しかみなきゃいけないのなら。
一度くらい、自由な夢を見ても悪くはないんじゃないかな。
手にしている瓶は未だ水滴を垂らし、紅くなった手を冷やしてくれていた。
* * *
昨日の雲だらけの夜が嘘かのように朝の空は晴れ渡り、遠くで入道雲が漂っている。目の前には、港にまで続く一本道が伸びているだけで左右には何もなく、小さな島ならではの光景が続いていた。
容赦なく照りつける朝日の下、その道をひたすらに歩いていく。一年ぶりに着た白い制服は変わらず身体に合ってくれて、動きにくさを感じることはなかった。
しばらく進むと、道の先の歪む境界線の中から小さな小屋が現れる。隣にはバス停の標識が立っていて、島内で唯一の公共交通機関が通る場所であった。
そこを覗き込むと、親友が一人つまらなさそうに座ってスマホを弄っている。
また不可解なオカルトサイトでも見ているのだろう。
「おはよう」
声に驚いたのか、一度その場で静止してからゆっくりと顔を上げる。その表情は予想通り目を見開き、ぽかんと口が空いたまま私を見ていた。
その反応に満足してから、スカートのポケットからあの瓶を取り出す。
「迷信を宛てにするのも、たまになら悪くないかもね」
空にした姿を見せつけるように差し出す。それを受け取り、確認するように何度も私と瓶を見比べて、その意味を理解した時には既に真理の腕に抱かれていた。
「良かったぁ……本当に良かったぁ……!」
泣きながら喜ぶ親友の隣で、触れ合う髪にくすぐられ背中に回した左手で声を抑えながら咳をする。
本人に気づかれない隙に自分だけに掌を向けて、その結果に納得をして握り拳で隠す。
今頃、病院では私がいなくなっていることに驚いてくれているのかな。
「ねぇ、この後暇?! 行きたい場所がいっぱいあるんだ!」
「学校はどうするのよ」
「今日はお休みする!」
平日の真っただ中なのに、嬉しさの勢いで平気でサボろうとする真理はそんなこと気にする様子もなく長く伸びる道を先導するように前を歩いていく。
「オカルトスポットに行くのは勘弁してよ」
子供っぽい後ろ姿に釘を刺すようにそう告げて、呆れながらも後をついていく。
どこに行くのか期待しながら見上げた空には、数分前に見た時よりも入道雲が近く、大きくなって浮かんでいた。
メモリアル・サイダー さぬかいと @stone_89
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