第3話 秘密の関係

 突然、声をかけられ、香月はしばらくぽかんとしてこちらを見ていたが、


「ああ……絢瀬さん、来てくれたんだ!」


 何かを悟ったようにハッとするや、ふっと微笑み、駆け寄ってきた。


「ありがとう! 嬉しいな」


 肩につくかどうかの黒髪をふわりとなびかせ、男の横を通り過ぎると、香月はまっすぐにセナちゃんに向かって来て、その手をさっと取った。


「陸太も来てるんだ。――行こ」


 きょとんとするセナちゃんに何か言う間も与えず、香月はそのまま、セナちゃんの手を引いて背後の階段を登っていく。最後にちらりと俺に一瞥だけくれて――。

 あっという間の出来事だった。

 なんと鮮やかな……と、階段を上っていくその後ろ姿を見送りながら、感動すら覚えていた。

 まるで、映画のワンシーンのよう。王子様がお姫様を華麗に攫っていく場面に出くわしたような気分だった。

 さすが、イケメンだ。元エースだ。状況把握能力と行動力が抜きん出ている。

 ありがとう、香月――と心の中で拝むような思いで呟いた。

 そのときだった。


「今の子も可愛いな……」


 呆気にとられた様子で突っ立っていた男が、ぽつりとひとりごちた。

 何を言い出した!? と振り返れば、


「アヤセナの友達……てことは、もしかして、モデル仲間とか?」


 見事なほどに鼻の下を伸ばし、だらしない笑みを浮かべながら、そいつは階段を見上げていた。


「美人だけど、ちょっと冷たそうな感じがいいわ」唸るようにそう言って、ぽん、と俺の肩に手を置くと、意味ありげな眼差しを向けてきて、「カヅキ……て呼んでた? ホッケーの友達? 練習の後、紹介してくんない?」

「しょ……紹介!?」


 いきなり、初対面でなんてことを頼んでくるんだ、この人は!?

 

「いや、それは……」


 すかさず、断ろうとする俺の言葉を「頼むよ〜」と間延びした声で遮り、


「すげぇタイプなんだよね。一目惚れ、てやつ? ちょっと胸が物足りない気がするけど、まぁそこは――」


 その瞬間、ぞわっと全身が粟立ち、熱く沸き立つ血が一気に頭まで駆け上ってくるのを感じた。

 かっと目を見開き、俺はそいつの手首を掴み、


「ウチのウイングの身体に文句あんのか?」


 脅すような低い声で言うと、色めき立っていた男の顔は一気に青白く変わり、ニヤついていた表情が見るからに凍りついた。


「え、いや……」と口ごもるそいつにぐいっと顔を寄せて、「あの子はな――」と俺はさらに声を低めて続ける。「ウチの女子チームの未来のエースで、俺の友達の大事なカノジョさんだ。ちょっかい出さないでくれますか?」

 

 心を落ち着け、出来うる限り丁寧にすると、男はすっかり青ざめた顔で何度もコクコクと頷いた。その表情は強張り、緊張さえ伺わせ、浮ついた感じは一切無い。きゅっと固く引き結ばれた唇も、何か言い返してくる気配はなく、完全に沈黙。不満がある様子は見られない。

 とりあえず、俺のメッセージは届いた――ということで良さそうだ。

 ひとまず安堵し、俺は身を引き、男の手首から手を離す。すると、すぐに男はぎこちなく咳払いをし、「あ、じゃあ、俺はもうこれからあれだから……」とよく分からないことをもごもごと言いながら、後じさり始め、


「カブちゃん!」


 背後の階段から、その声が――よく通る爽やかな声が響いてきた瞬間、「ひいっ!」と頓狂な声を上げて身を翻し、逃げ出した。

 なんて素早い身のこなしだ……と、脱兎のごとく走り去っていくその背中を感心しながら見送っていると、


「『ひいっ!』て……私? どうかしたの?」


 戸惑ったような声が背後から近づいてきた。


「いや、なんでもない」ごまかすように笑って、振り返る。「――さっきは、助かった。ありがとな、香月」

「あんな感じで良かったかな?」


 すぐ隣に来て立ち止まると、香月はさらりと髪を耳にかけながら、少し心配そうに微苦笑を浮かべた。


「完璧だったぞ! よくぞ、あの一瞬で俺の意図を汲んでくれたな」

「元チームメイトだからね」なんて冗談っぽく言ってから、香月はちらりと背後の階段を見た。「絢瀬さんは陸太と座ってる。樹兄ちゃんと典子さんもいるから、何かあっても大丈夫だと思う。特に、典子さんは、そういうのうまいから安心して」

「そっか。いろいろ、悪いな」


 ホッとした――のも束の間、


「やっぱり、秘密……なんだね」と香月は声を潜め、遠慮がちに俺を見上げてきた。「絢瀬さんと付き合ってること」

「ん……?」


 秘密? 何が? セナちゃんと、付き合ってるって……誰がだ?

 

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