第2話 ファン
「太陽先輩!」
防具の入ったウィールバッグを引きずり、須加寺アイスアリーナに足を踏み入れたときだった。
背後から飛んできたその声に、俺は弾かれたように振り返った。
「お疲れ様です。また観測しに来ちゃいました」
ぱあっと晴れやかな笑みでそこにいたのは、長い黒髪をゆるく三つ編みに結った女の子だった。暖かそうな黒のニットのワンピースは、落ち着いた雰囲気があってぐっと大人っぽく見える。
そんな彼女と向かい合い、そうか、もう肌寒い季節になったんだな……とそんなことをふと考える。
俺の私服なんてTシャツとジーンズ。もしくは、ジャージだ。夏でも冬でも、袖の長さが変わるくらいでほとんど変わらん。子供の頃から、つるむのは男ばかり。今なんて男子校だし。夏だろうが冬だろうが教室はむさ苦しく、汗臭い。そんな環境で生きてきたから。こうして、久々に会った彼女の装いに季節を知る――そういうのも、いいものだな、としみじみと思った。
「久しぶりになっちゃいましたね」と彼女は、ちょっと寂しげに微笑む。「元気……でしたか?」
「元気だ、もちろん! セナちゃんは相変わらず、大活躍だな」
「大活躍だなんて、そんなそんな……」
あたふたとして、セナちゃんは恥ずかしそうに両手を振った。
照れているのか、謙遜なのか。そういう姿にもほっこりしてしまう。
夏休み――瑠那を元気付けるため、皆でスケートをしに来て、俺はセナちゃんと観測し合う間柄になった。それがいったい、どういう関係なのか、俺自身まだよく分かっていないのだが……とりあえず、俺はセナちゃんの仕事ぶりを陰ながら見守り、『雑誌見たよ。可愛かった!』なんてメッセージをたまに送り、セナちゃんはホッケーの練習を見に来ては『今日もファインセーブでしたね! 痺れました〜』といった感想を可愛いスタンプとともにLIMEで送ってくれるようになった。
そうして、夏休みも終わり、新学期が始まった頃、セナちゃんがローカル番組に出ることになった。『あの子は今?』みたいな企画で、かつて、『氷の妖精』として有名だったセナちゃんに取材が来たのだ。
もちろん、俺と瑠那はテレビにしがみつき、無論、録画もした。当時の再現とかいって、須加寺アイスアリーナで、あの頃と変わらぬ華麗なジャンプも披露して……俺たち兄妹にとって、夢のようなシーンが盛りだくさんの完全保存版となった。
当然、そんなセナちゃんの姿に感動を覚えたのは、俺たち兄妹だけではなかったようで――地元でのセナちゃんの人気は再燃し、その勢いは東京にも飛び火し、モデルとしての仕事はもちろん、Webドラマのオファーまで来て、全国的にも知名度はうなぎ上り(瑠那調べ)だ。
だから、前みたいに、直接顔を見れる機会も減ってはしまったが。モデルとしての実力が無い、と落ち込んでいた姿も俺は見ていたし、こうして、セナちゃんの笑顔が見れるだけで、寂しいという気持ちなんてどうでもよくなる。
それに――。
「あ、そういえば……」
二階にある観覧席への階段にセナちゃんと向かいつつ、俺は思い出したように切り出す。
「『飲んだら乗っちゃダメだよ、おとーさん!』ポスター、見たよ」
「ええ!?」とセナちゃんは途端に顔を赤らめ、わわ、と見るからに狼狽えた。「み……見ちゃったんですかー!? 探さないでください、て言ったじゃないですか〜!」
「ツインテールにセーラー服姿のセナちゃんも良かった! 新鮮だったなぁ」
「や……やめてください〜。お仕事いただけたのは、嬉しいんですけど……あれは、ほんともう……恥ずかしくて……」
俺から顔を逸らし、両頬を押さえながら身を捩るセナちゃん。頭から立ち上る湯気でも見えそうなほどの照れっぷり。
尊い――というのは、こういうことを言うのだろうな、なんて一人で納得してしまった。
『飲んだら乗っちゃダメだよ、おとーさん!』ポスターとは、県警が作成した飲酒運転撲滅ポスターだ。セーラー服を着た、ツインテールのセナちゃんが両手を組み、おねだりでもするような眼差しでこちらを見ているという……担当者の趣味が全面に押し出されたのであろう、なんとも悩ましいポスターである。
とある飲み屋の前でそのポスターを見つけ、思わず、スマホで写真を撮ろうとしたが、『やめろ、カブ!』と護に首根っこを掴まれ、阻止されてしまった。悔やんでも悔やみきれん。いつか、こっそり一人で行って、撮ってこようと思っている。
「あんな切なげな眼差しで見つめられたら、世の『おとーさん』もひとたまりもないな。俺も『酒を飲んだら、絶対に車には乗るまい』と思ったよ」
うんうん、と頷き、力強くそう言うと、隣でセナちゃんがフフッと笑った。
「その前に、太陽先輩はお酒飲んじゃダメですよ〜。未成年なんですから」
「ああ……そうか」
「そうですよ〜」
「一本取られたな。酒なだけに」
「うまいですね、太陽先輩! これは
「おお、セナちゃんもうまいな!」
あはは、ふふふ、と笑いあって、セナちゃんと並んで歩く。ああ、なんて幸せなひとときなんだろう。
これ以上を望むなんて、おこがましい、てもんだ。
俺は『ファン』なのだから――。
たとえ、直接顔を見れる機会も減ってしまっても……そもそも、寂しい、と感じること自体、おかしいんだ。こうして、たまに会えることが奇跡みたいなもんで。
セナちゃんが元気そうにしていてくれたら、それでいい。画面越しでも、誌面上でも、セナちゃんの活躍を見れれば、それでいい。ファンとして願うことは他に無い……はずだ。
「もしかして、アヤセナ!?」
ちょうど、階段の下に辿り着いたときだった。聞き覚えのない声がして、ハッとして振り返ると、
「やっぱ、アヤセナ……だよね? 『氷の妖精』、絢瀬セナ!」
そこにいたのは、二十代前半だろうか。明るい茶髪を無造作に伸ばした男だった。その顔に見覚えはないが、着ているそれは間違いなく、須加寺アイスアリーナの従業員が着ることになっている制服。
新しく入ったバイト……の人だろうか。
あまりにも突然のことに、俺もセナちゃんも呆然としていると、
「すっげー! 本物じゃん。なんでいんの? もしかして、滑りに来たの? でも、もうリンク閉まってて、今からはホッケーの練習入っちゃってるよ」
そいつはずかずかと歩み寄ってきて、まるで友達みたいに親しげに話しかけてくる。
隣で「あ、えっと……」と困った様子で口ごもるセナちゃん。
なんだろう、雲行きがあやしいような……。嫌な予感がする。
何か助け舟を出さなければ、と思った――そのときだった。男はセナちゃんの前でぴたりと立ち止まると、ふいに、ちらりと俺を見て、
「え……もしかして――」と口許に歪んだ笑みを浮かべた。「君……アヤセナの彼氏? ホッケーやってんの? そっか、彼氏の練習、見に来てんだ!?」
さあっと血の気が引いた。
まずい――。
これは、絶対にまずいやつだ。
「いや、俺は彼氏などではなく……!」
身を乗り出し、咄嗟に声を張り上げた瞬間、男を睨みつける視界の端に、ある人影が見えた。自販機にでも行っていたのか、ペットボトルを持って、てくてくと歩いてくる。すらりと背が高くて、俺が着ているのと似たような、ダボッとしたジャージを着た――イケメン。
まさに、渡りに舟、というやつだろう。
その姿は、いつにも増して輝いて見えた。
「あ……おい!」と俺はそのイケメンに向かって声を上げ、大きく手を振った。「セナちゃんが、お前の練習を見に来てくれてるぞ、香月!」
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