天体観測

第1話 星と太陽

*   *   *

九章の続きからです。


元気のない瑠那のため、皆でスケートに行き、その帰りに昼食を食べにハンバーガー屋へ。瑠那に『恋人繋ぎ』のレクチャーを受けた陸太は香月とのデートに向かい(遊佐も帰って)、その一方……。


鏑木視点です。

*   *   *


「瑠那、どこ行くんだ?」


 もう一時を過ぎ、混み合っていたハンバーガーショップの店内も落ち着きを見せ始めていた。陸太と一緒に遊佐くんも帰り、俺たちもそろそろ出ようか、とテーブルの上を片付けていたとき、隣で妹の瑠那が急に席を立った。どうしたのだろうか、と声をかけると、瑠那は小五とは思えぬ蔑むような眼差しで俺を睨みつけてきて、


「ト、イ、レ!」と不満たっぷりに答えた。「女の子が黙って席を立ったら、察しなよ。そんなんだから、お兄ちゃんだけ、カノジョできないんだよ」


 ぬお……!

 まるで、防具無しで、至近距離から打ち込まれたショットを鳩尾に食らったようだった。

 なんてことを言うんだ? 身内だからといって――いや、身内だからこそ、言ってはいけないこともあるだろう。

 兄として、『そんなことを人に言ってはダメだ』、『兄とはいえ、年長者への態度には気をつけなさい』やら……諭すべきところなのだろうが。戦意喪失というか。あまりに図星で……痛いところをドンピシャで突かれてしまって……言い返そうと言う気概さえ湧いてこなかった。

 声も出せずに固まる俺に、瑠那は、ふん、とばかりに得意げに鼻を鳴らして、身を翻す。


「まだ、帰らないでね、セナちゃん!」


 一気に二オクターブほど高くなったような、実に子供らしい無邪気な声でそんなことを言い残して――。

 その変わりようにげんなりとしていると、


「はい、もちろん」と、溌剌とした声が続く。「待ってますから。焦らなくていいですよ」


 すっと視線を向ければ、そこには――瑠那の席を挟んだ隣には、長い黒髪をポニーテールに結った女の子がいた。透き通るような肌は、雪のようで。長い睫毛の下でキラキラと輝く瞳は、氷の結晶を思わせて。ニコリと微笑む姿は愛らしく可憐で、それでいて、ぴしっと背筋を伸ばして座る様は堂々として、芯の強さを感じさせる。

 まさに、『妖精』のような。小柄ながらも、惹きつけられる圧倒的なオーラがあって、傍にいると、つい見惚れてぼうっとしてしまう。夢でも見ているんじゃないか……と、そんな気分になってくる。

 絢瀬セナ――かつて、俺が小学生の頃、『氷の妖精』と謳われていた女の子で、今は妹が大好きなモデルだ。


「瑠那ちゃん、ほんと可愛いですね」


 ぱあっと眩いほどの笑みでそう言って、セナちゃんは「私、そっちの席に座りますね」と俺の向かいの席に――さっきまで陸太が座っていた席に移動した。


「瑠那ちゃん、元気になってくれたみたいで良かったです」


 席に座るなり、一呼吸置いて、セナちゃんは改まってそう切り出した。真心――なんてものを感じさせる、真摯な眼差しをこちらに向けて。

 ぐっとこみ上げてくるものがあった。今にも溢れかえりそうなこれは……感謝の念、というやつだろう。


「ありがとう、セナちゃん!」たまらず、俺はテーブルに額を打ち付けん勢いで頭を下げていた。「わざわざ夏休みに、瑠那……いや、俺の頼みを聞いて、こうして時間を作ってくれて! セナちゃんもモデルの仕事とかいろいろあって、忙しいだろうに」

「そんな、そんな……いいんですよ。私も楽しみにしてた、てリンクでも言ったじゃないですか〜」


 そう言うセナちゃんの声は楽しげで、無理した様子もない。

 なんていい子なんだ――と目頭が熱くなって、鼻の奥がツンとした。泣きそうになりながら、「セナちゃん……」と噛みしめるように言って顔を上げ……ハッと息を呑んだ。


「私でもまだ誰かの役に立てるんだ、て思えて、すごく嬉しかったです」


 氷上で晴れやかな笑みを浮かべる『氷の妖精』は、疲れとか緊張とか……そんなものとは、まるで無縁に見えた。彼女が氷の上に立つと、それだけでリンクが輝きに満ち、一瞬にして、俺らの殺伐とした『戦場』は煌びやかな『舞台』に変わった。そういう、場の空気を呑み込んでしまうような存在感……カリスマ性――みたいなものが、彼女にはあって。俺よりもずっと華奢で小柄なのに、無敵に思えた。

 そんな彼女が……今、目の前で、冷笑にも似た切なげな笑みを浮かべていたのだ。

 それが、あまりに衝撃的で。涙も引っ込み、俺は唖然としてしまった。


「それに、仕事……最近は全然無いので。忙しくないんですよ」と、冗談っぽく続けたセナちゃんの声は、しかし、心なしか不自然に上擦っているように思えた。「だから、また、いつでも呼んでくださいね」

「仕事、無いって……モデルの仕事……だよね?」


 戸惑いながらも訊ねると、セナちゃんはハッとして口許を押さえた。


「あ、ごめんなさい! こんなこと言ったら心配させちゃいますね。気にしないでくださいね!? 仕方ないことですし!」

「仕方ない……の?」

「モデルとしての実力、私、きっと無いんです」と、セナちゃんは気まずそうに苦笑して、俯いた。「フィギュア時代は、ちょーっとだけ有名だったので。最初の頃は、その話題性もあって仕事ももらえてた……だけだったんだと思います。でも、それも長く続くわけもないですから。地元こっちでは、まだ、私のことを覚えててくれてる人もいるけど……東京に行ったら全然です。私よりも実力あって話題になる子なんていくらでもいる。私が頑張ったところで……別に誰も見てない。誰かが喜んでくれるわけでも無いのに、頑張る意味あるのかな〜、とか……そんな風に卑屈になっちゃって。そんなとき、笠原先輩から『力を借りたい』って言われて、瑠那ちゃんの話を聞いて……嬉しかったんです。私を必要としてくれる人がいるんだ、て分かって……。私にも、まだ『ファンだ』って言ってくれる人がいるんだな、て思って――」

「俺もファンだぞ」


 思わず、そんなことを口にしていた。


「え」とセナちゃんは弾かれたように顔を上げ、きょとんとして俺を見てきた。「ファンって……」

「まあ、モデルのファンがどういうものか、よく分からないんだが……瑠那からセナちゃんの活躍を聞くと、俺も嬉しくなった。セナちゃんが載っている雑誌を瑠那に見せてもらうと、その度に、俺も頑張ろう、という気になった。――そういう奴は、地元こっちにはたくさんいると思う。少なくとも、俺や護や、陸太も……あの頃のヴァルキリーのメンバーは、皆、そうだろう。それを『ファン』と言っていいなら、俺たちは皆、セナちゃんのファンだ」


 セナちゃんは食い入るようにじっと俺を見つめて、黙り込んでしまった。その眼差しがあまりにも真っ直ぐで、顔が焦がされるように熱くなってくる。落ち着かなくて、俺は頭をガシガシ掻きながら、視線を逸らして続けた。


「モデルの実力とか、俺がどうこう言える立場じゃないけど、どの写真もセナちゃんは可愛い。他のモデルの子達よりも、ずっと可愛いと思う。これも、ファンの贔屓目、というやつなのかもしれないが……」


 急に恥ずかしくなって、はは、とごまかすように笑い、「あ、でも」と俺は思い出したように言ってセナちゃんに視線を戻す。


「こうして実際に会ったら、やっぱり実物の方がずっと可愛い、と思ったな」


 すると、セナちゃんの真っ白な肌が一気に赤らみ、ぱあっと見開かれた瞳が一層輝きを増したように見えた。そのまま、氷像のごとく、固まってしまったセナちゃん。ガヤガヤと辺りの喧騒が響く中、俺らのテーブルだけしんと静まり返っていた。

 あれ……と、頰が引きつる。なんだ、この空気……?

 しばらくそうして黙って見つめ合ってから、ふいに、セナちゃんは視線を逸らした。気まずそうに……。

 その瞬間、ぞくっと背筋に戦慄が走る。

 まずい――と直感した。失言だ。失言に違いない。、俺は何か余計なことを言ってしまったんだ。

 おい、カブ! と、ここにいないはずの護の怒号が聞こえた気がした。


「ごめん、セナちゃん!」と、慌てて俺は身を乗り出して声を張り上げていた。「悪い意味じゃなくて……実物の方がいい、て言ったのは、写真映りが悪いとかじゃなくてね!? セナちゃんは動きも可愛い、ていうか……。所作、て言うのかな? 一つ一つの仕草も洗練されてる感じがして、すごく綺麗なんだ! 写真だけじゃもったいなく感じるくらいで……」


 って……いや、待て!? モデルさんを前に、『写真だけじゃもったいない』というのは、やはり失礼では?

 セナちゃん、表情がさらに硬くなっているような気がするし。俯いちゃってるし。

 ダメだ。どうしよう? なんて言えば……!?

 焦りに焦って、体の中は焼けるように熱くなって、ぐわあっと口から火が出そうだった。


「とにかく、俺が言いたいことは……」気づけば、両手をばんとテーブルに置き、力強くそう切り出していた。「東京のことは良く知らないけど、俺らにとっては、セナちゃんはこれからも『地元の星』で……そんなセナちゃんを、俺はずっと観測していきたい!」


 言い切ると、思っていたよりも声量が出ていたようで、周りの視線を感じた。喧騒はすっかりひそひそ声に変わり、クスクスと笑う声も聞こえてくる。

 たちまち、赤面するのが自分で分かった。

 なんだ? 何を言ってしまったんだ? 観測って……観測って、なんだ!? 失言どころか、失態では!?

 こんなとき、己のでかい図体が恨めしい。カタツムリのように隠れてしまえる殻があればよかったのに。

 セナちゃんの反応を見るのも恐ろしくて、背を丸め、小さく縮こまって俯いていると、


「鏑木先輩って、名前の通りの人ですよね」と涼やかな風のような声が流れてきた。「熱くて、明るくて、周りに力をくれる――みたいな人」


 え、と顔を上げると、セナちゃんがフフッと微笑んでいた。頰を赤らめたまま、恥ずかしそうに……。


「俺の名前……知っててくれたんだ?」


 呆然としながら訊ねると、セナちゃんは「もちろんです」と躊躇いなく言って頷いた。

 その瞬間、じんわりと胸の奥が暖かくなるのを感じた。灯火みたいにぼうっと、淡く穏やかに……何かが灯ったような、そんな感覚だった。そして、左手にきゅっと力がこもる。握りしめた拳には、まだ、さっきの――瑠那に『恋人繋ぎ』で結びつけられたときの――柔らかなセナちゃんの手の感触が残っている気がした。


「私も……これから、観測してもいいですか?」と、セナちゃんはふわりと微笑みながら、そっと囁くように言った。「太陽先輩のこと」

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