最終話 特別なもの

 ふわりとどこからか吹いてきたそよ風に身を押されるかのような。そんな感覚だった。無意識に、そっと香月のほうへ身を寄せようとした――そのとき、


「これで気が済んだ」ふうっと大きくため息吐いて、香月はこちらに振り返った。「小学生の頃の私も浮かばれる。受け取ってくれてありがとう」


 ぴたりと体が止まる。

 ぎょっとして目を見開いて、またか――と苦笑が溢れた。ありがとうって……だから、先に言うなよな。


「浮かばれる、てなんだ。死んだみたいに言うなよ。縁起悪ぃな」

「あ……うん、まあ……」とごまかすように言葉を濁し、香月は「とりあえず」とぱっと笑った。「びっくりさせちゃってごめんね。来年からはもっと良いものを渡すから! 期待してて」


 もっと良いもの……か。

 膝の上に置いたラッピング袋に再び視線を落とし、「――いや」と俺はぼんやりと呟いていた。


「来年もこれがいいわ」


 言いながら、一つ、グミの袋を手に取る。こそばゆいような……なんとも言えない郷愁を覚えながら、それを破って、中のカードを取り出す。そこに描かれているのは、懐かしい絵柄のモンスター……だけど、全く見覚えが無い。たぶん、最近出たシリーズのキャラクターなのだろう。

 それでも、笑みが溢れる。

 胸が熱くなって、満たされる。純粋に、嬉しい、という気持ちがこみ上げてくる。それは全部、もう、『ボケモン』が好きだからじゃなくて。このトレカに思い入れがあるからじゃなくて……。


 きっと、カノジョさん、笠原くんのために何か特別なものを用意してくれてるよ――そう言った小鶴さんの声が脳裏に蘇った。

 いや……と、心の中で今更ながらに答える。

 たぶん、逆だ。香月がくれるなら。それだけで俺には特別なものになるんだ。


「初めて……バレンタインに、香月からもらったものだからな。これより良いものは無ぇよ」


 ぼそっと言って、袋の中に二つだけ入ったグミを一つ取り、口に放り込む。

 ぐっと噛み締めると、じんわりと甘い味が口の中に広がった。いちご味……か? グミも久々だけど、なんというか……繊細さのない雑な甘さがする。匂いもわざとらしいというか、押し付けがましいというか。芳香剤でも食べているような気分になってくる。でも……やっぱ、懐かしい味だ、と思った。


「久々に食べると、すげぇ甘く感じる。香月も食べるか――」


 あと一つ袋に残っているグミを香月に渡そうと、振り返ったときだった。

 クン、と首が引っ張られるような感覚があって、あ――と思い出す。そういえば、香月のマフラーを首に巻いたままだった。

 でも、気づいたところで外せなかった。というか、何も出来なかった。

 香月がマフラーをきゅっと掴みながら俺に身を寄せ、唇を重ねてきたのだ。

 あまりにいきなりで。

 驚く間も無く、何かが口の中に入ってくる感覚があった。グミとはまた違った弾力があるもので、じんわりと暖かくて……絡みつくように意志をもって舌に触れてくる――それは、初めての感覚だった。

 なんだ? え……なんだ、これ!?

 状況が掴めず、呆然としている内に、そっと香月は身を離し、


「ほんとだ」と頰を赤く染め、悪戯っぽく笑った。「バレンタインは……キスもすごく甘く感じるね」


 糖分過多……というやつだろうか。脳みそまで蕩けたみたいに、何も考えられなくて。「あ……そう」とアホのような言葉しか出てこなかった。

 すると、香月はフッと目を細め、


「そんな顔されちゃうと、もっといろいろしたくなっちゃうな」

「は……!?」


 もっとって……他に何があんの!? って、いや……そういう問題じゃなくて!


「な……何言ってんだ!? 隣に親、いるから」


 押し殺した声でそう香月に訴えつつも、視界の端にはピンと張った掛け布団がしっかりと見えて……後ろめたいものを感じる。散々、いろいろ期待しといて偉そうに何を言っているんだ、と我ながら呆れた。


「ごめん、ごめん。分かってるよ」と香月はコロコロ笑って、おもむろに立ち上がった。「そろそろ行かなきゃいけないし」

「え、もう……か?」

「今夜は練習、八時半からなんだ。だから、八時のバスに乗らないと」

「ああ……月曜は早いんだな」


 バス停はウチから五分くらいのところにあって、そこから須加寺アイスアリーナ近くの停留所を回って駅まで行くバスが出ている。いつも、香月がウチに遊びに来たときは、そのバスに乗ってリンクまで一緒に行き、俺は練習を少し見学してから最終のバスに乗って帰ってくるのが習慣になっていた。

 香月は、樹さんの車で一緒に帰ろう、と言ってくれるんだが……俺らがこうして会うために、樹さんには荷物運びのようなことをさせている。その上、帰りまで樹さんに甘えるのは気が引けて、ずっと断っている。いや……まあ、乗せてください、と言ったところで、樹さんに『厭だ』と言われるのは目に見えているから、『気が引ける』とかそれ以前の問題なんだろうけど。


「途中でコンビニで何か買って食べないとな。夕飯、食べ損ねた」


 俺も出る用意をしよう、ともらったグミを机の上に置き、マフラーを首から外していたときだった。


「何も食べてなかったのか?」


 ぎょっとして振り返ると、「すっかり忘れてた」と香月はコートを着ながら恥ずかしそうに苦笑する。「緊張してたし」


「緊張? なんで?」


 香月が食べるのも忘れるほど緊張する……なんて。想像もつかなくて。外したマフラーを手にぽかんとして訊ねると、「だって……」と香月はぽつりと言った。

 

「バレンタインは、子供の頃からいつももらう側だったから。家族以外に渡すの、これが初めてだったんだもん」


 渡すこと自体……初めて!?

 確かに、いつも、もらう姿しか見たことなかったけど……それは、俺がずっと香月が『男』だったときしか見てこなかったからかと思ってた。でも、そっか。小鶴さんみたいに、義理チョコをクラスの奴に渡したりとかも……したことなかったんだな。今まで、一度も……。


「ま……まじか。すげぇな」

「他人事か」


 少しムッとして、香月はこちらを睨めつけ、


「陸太以外に誰に渡す、ていうの?」 


 責めるように言われ、ぐっと言葉に詰まる。

 なんだろう、この感じは? 叱られているようで、甘えられているような。とりあえず……全くもって、嫌では無い。

 顔が今にもニヤついてしまいそうで、それを隠すように「そう……か」とそっぽを向いた。――と、そのとき、ふいに机が目に入って、


「そういえば……!」


 ぱっと閃き、いそいそと俺は机の引き出しを開け、ほんの数時間前にそこにしまったリロルチョコを取り出した。

 今朝、小鶴さんからもらった義理チョコだ。

 小鶴さんには申し訳ないけど、俺はチョコは苦手で食べる気にはならないし。空腹を紛らわすのはチョコがいい、と香月が前に言っていた気もするし。ちょうど良かった。名案だ――と信じて疑わなかった。「とりあえず、これでコンビニまで凌げよ」と、リロルチョコを手に香月に振り返った、その瞬間までは。


「なんで、チョコが陸太の引き出しにあるの?」

「え……」


 口許だけには笑みを浮かべ、香月はうっすらと細めた目で俺をじっと見ていた。それは、背筋がぞくりとするほどに冷ややかな眼差しで……。

 笑っているようで、笑っていない。冷静というよりは、冷酷なような。その独特な笑みを、俺はもうよく知っている。


 あ、まずった――とすぐに悟った。


   *   *   *


「で? どうだったんだよ、昨日は?」


 次の日、登校するなり、もうすっかりお決まりのような、なんとも卑しい声がした。ニヤニヤと怪しく笑むその顔が、振り返らずともはっきりと目に浮かぶ。


「どうって……?」


 鞄の中身を机の中に入れながら、ぶっきらぼうに訊き返す。まあ……何を聞きたいのか、なんて分かってるけど。すんなり答える気にもなれなかった。


「決まってんだろ」と苛立たしげに言って、遊佐はどっかりと俺の前の席に座った。「香月ちゃんとの初めてのバレンタインだよ。昨夜、香月ちゃん、家に来たんだろ? どうだったんだ?」


 そんな期待いっぱいに、どうだった、と聞かれてもな。

 俺は手を止め、はあっとため息吐く。


「とりあえず……」と頭を抱えて、がっくりと項垂れた。「しばらく、チョコは見たく無い」

「いや、なに、そのテンション!? なんで、もっとチョコ嫌いになってんの?」



※次話からは、もう一つのバレンタイン小話を。それで番外編も最後……の予定です。時期外れ甚だしいですが、あと少しだけ、バレンタイン気分でお付き合いいただければ幸いです……!


※『ボケモン』は『ボケッとしているモンスター』で、似ている名前の既存の製品とは全く関係ありません(参考にはさせていただきました)。作中の『ボケモン』グミに関する記述も、あくまで『ボケッとしているモンスター』グミの味に対する、甘いもの嫌いの陸太の感想です。念の為……。

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