おわりに(後編)
天武系の天皇は 第41代の持統女帝の路線を踏襲し、"持統+藤原氏の血"を受け継いでいたが、この長屋王のタタリの後から雲行きが怪しくなってくる。
元正上皇は 聖武天皇の後継として藤原氏の血をひかない安積親王の即位を望んでいたと伝わっているし、また 聖武天皇は 彷徨うように都を転々としているが、それは壬申の乱の際に、曽祖父 天武天皇が辿った行路と重なった。後者は 特に 反藤原の行動と勘繰られ、聖武が天武の血に目覚めたと一説には考察されていた。
しかして、その娘は 藤原仲麻呂(恵美押勝)を打倒し、大分にある宇佐八幡に皇位継承のルール変更を尋ねている。宇佐八幡宮に祀られる"武神"応神天皇は、正史『日本書紀』の編纂命令者 天武が構想していた初代大王で、男系に蘇我氏の血をひく人物だったと私は胸算していた。
宇佐八幡には、後に神功皇后が祀られた。かの皇后は 応神天皇の母で、時代的に邪馬台国の女王の時代と重なり、紀伝内に 邪馬台国の記事が残されていた。
『日本書紀』の編纂者は 古代の歴史を知っていた節があるが、それが何故ハッキリしなくなったかと言えば、壬申の乱の勝者 天武の本当の出身氏族が邪馬台国とつながる由緒のある一族であった事実を、天武の次代 持統が忌避したからだろう。
天武の本当の出身氏族だと私が考えている蘇我氏の人物には"
神功皇后が 邪馬台国の女王であったとすれば、かの国があった位置も大まかに推定される。聖母 神功皇后は九州 筑紫から東征していた。
ただ、卑弥呼の宗女
そして恐らく、ヒミコというのも、トヨというのも、本来の名ではなく 称号であるが、後者は蘇我氏に受け継がれたのではないかと私は検討している。ひょっとすると、この国のルーツと目される邪馬台国と より深く繋がっていたのは、英雄 天武天皇の本来の血統だったのやもしれない。
—卑弥呼の宗女 台与は、魏に"靑大勾珠"を贈ったとされているが、これはヒスイの勾玉のことだと勘案されている。
ヒスイというのは 主に海からとれる宝玉であるが、特に 蘇我氏によって重宝されていた。
かの宝玉は 三種の神器の一つにも選ばれているが、京に都を遷した第50代 桓武天皇(復活した天智系の実質的な初代)には恐れられ、8世紀(奈良時代)以降 見向きもされなくなっていく。奈良時代とは、すなわち、大海人皇子こと天武天皇の血脈を男系とする時代。
古の歴史を彩った海の神宝は "豊の一族"とともに盛え、そうして、かの一族の男系とともに歴史の表舞台から姿を消したのだった。
ただ、"豊の一族"の女系の血脈は、現在もなお 天皇家や藤原氏(北家・南家)の中に脈々と受け継がれている。
本始の初代大王は応神天皇である。そして、その起源は邪馬台国である。 営為つむぐ @eiitsumugu
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