最終話(3/3)

「おはようございます」

 全身から水を滴らせ、悠里が池から上がってくる。べっとりと貼り付いた前髪からは右目だけが覗き、いかにも妖怪じみた風貌だ。しかしすぐに水ははけ、自然な女子高生が出来上がる。


 久しぶりに見るその奇妙な現象と可愛らしい笑顔に、思わず顔が緩くなるのを感じた。


「おはよ」

 それを悟られないよう口元に力を入れて、そう答える。


 昨日はあの後悠里は木苺さんにも同様の告白をした。


 香椎さんと話し込んでしまっていた俺が慌てて追いつくと、香椎さんの見立て通り、「はぇー! すっごい! え、ちょっと水かけてみていい!?」とジョウロで水を掛けては悠里の身体をペタペタと触る木苺さんがいて、一瞬で心配ないと分かった。

 ……けど、香椎さんと比べて彼女の方が考えなしに喋るタイプだから、口を滑らせないかは心配だった。


 軽快な足取りの悠里と通学路を行く。


「……ん? 春樹さん、キーホルダーなんて付けてましたっけ?」

 俺のリュックに付いたそれを見て、悠里が言った。確かに今日から付け出したそれは、つい買ったもののずっと付けることが出来ず、ポスターに刺した画鋲に引っ掛けられていたものだった。


「なんですかそれ」

「あるアニメが俺を変えてくれたって話しただろ? その登場人物。フィロって言って、主人公とは立場上協力関係にあるんだけど、陰気なくせに毒舌で、何かにつけて主人公をディスって来るんだ。けどそれが実は好意の裏返しで、ごくたまに見せるデレが――」

「――あーもういいですうるさいですキモイです」

「んなっ」

 手を払われて一蹴された。


「なるほど。今のが『オタク』の典型というやつですね。本当に人間学の教科書通りでした」

「出たよ人間学」

 久しぶりに聞いたな。


「教科書じゃよく分かりませんでしたけど、いざ直面すると本当にキモイですね」

「やっぱそう――」

「――けど、前よりずっと良い顔してると思いますよ」

 そう言って笑う悠里の顔は優しげで楽しげで、愛らしい。それは妖怪なんかじゃなく、そう、まるで妖精のようだった。


 ……良い顔してるのはどっちだよ、と心の中で呟く。


「今度貸して下さいよ、DVD」

「なんの話?」

「その、春樹さんに色んな意味で多大な影響を与えたアニメですよ」

「別にいいというか、ファンとしては布教したいから是非って感じなんだけど、悠里んちテレビ無いんじゃないっけ?」

「…………春樹さんの家で観ます」

「…………マジか」


 それはつまり俺んちに来るってことだよな。いやホント言葉をなぞっただけだけど、そういうことだよな。まさか窓開けて庭から見物なんてことはあるまい。うわ、部屋綺麗にしなきゃ。ポスターとかしまったがいいのかな。いやでも今後はそういう俺って隠さないで行くと決めたわけだし、そもそも悠里はそのアニメを観に来るわけだし、気にする必要ないのか。いやでも……


「春樹さん?」

「うぇ!」

 気が付くと顔が目前にあって、心臓が加速を始める。


「それで、いいんですか? 行っても」

「え、あぁ、うん」

「それじゃあ楽しみにしてますね」

 そう言って悠里は跳ねるように俺の少し先を歩く。


 俺も楽しみだ。その言葉はまだ届けられそうにない。


 鑑賞会だけじゃない。文化祭や体育祭、修学旅行やスキー研修、きゅうりももうすぐ収穫出来る。悠里がいることでより一層楽しみになるイベントは沢山あった。


 そうした中で、少しずつ積もっていくものがある。


 人は誰しも――いや、人だけじゃない。皆、心に何かを隠して生きている。それは後ろめたい過去や恥ずかしい本性だけじゃない。宝物のように大事にしまってある想いだってそうだ。


 そしていつか、その積もった想いが宝石箱から溢れる時に、伝えるべきその時に、こっそりと見せてやるんだ。


「なぁ悠里」

「はい?」

 悠里は踵を返し、踊るようにこちらに振り返る。


 もうすっかり乾いているはずなのに、跳ねた水滴が朝日に反射するように、光の粒が彼女の周りを舞った。


「これからもよろしく」


 悠里は目をぱちくりとしたのち、ゆっくりと口角を上げ、弾ける。




「はい!!」




                        おしまい

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ここだけの話、柚木悠里はきゅうりが好きらしい。 ラムチョップ三世 @lambchop_third

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