37世紀の夏蜜柑 / 君の居ない材木座海岸にて

モチミズユウ

37世紀の夏蜜柑 / 君の居ない材木座海岸にて

推定25時49分、僕たちが埋めにきた夏蜜柑は、あっけなく漂着鯨の胃に入った。たぶん。何せそれはフレンチポップのように甘苦く、彗星のように一瞬で世界が遠くへ消え去っていったものだから、よく覚えていないのだ。


 

こないだ近所の墓地でぼんやりしてたら、松の木が風に揺れて音を立てていた。


川崎のほとんど意図的なイルミネーションとも言える工業地帯。


名前も無い川に民家から延びて架かる短い桟橋と停泊する舟。


鶴見線国道駅から少し南にあるコインランドリーの軒先に佇むビデオスロットのレトロ筐体。


ヨルガオが咲き乱れる夜の丘に凪ぐ青白い光と、それに手を伸ばす君の笑顔に見惚れた。


 

思い出すのはそんな些末なことばかりだけれど、そのどれもが一粒の音のかたまりとなって回生していく。未練は無く、幸せだけが死を包むと思っていたけれど、堰を切ったように頬を伝う涙の感触を覚えて、僕は少しだけ後悔し始めていた。




 

茹だるような空気にあてられたとしか言い様が無い。その時、ハレとケの境界を跨ぐ感覚を、初めてなのにはっきりと覚えた。横顔を照らす室内灯が妙に眩しい。とりあえず冷房を焚いてカーステレオで気を紛らわしながら、僕と共犯者は後処理に困っていた。FMヨコハマはいつだって本当にセンスが悪い。


「漂着鯨って見たことある?」


彼女は藪から棒にそう言った。聞けば、どうやら由比ガ浜以東逗子以西あたりのどこかの海岸に漂着鯨が出たという情報がSNSに流れているらしい。普段SNSを嫌う僕でも情報の即時性は認めざるを得ない部分があるが、手掛かりにするには情報の数が少な過ぎた。


まあ、でも。


「ないよ。じゃあとりあえず鎌倉あたりに目的地セットして」


ここからなら大した距離じゃないし、足もある。しらみつぶしに探せば見つかるだろう。

漂着鯨には予てから興味があり、調べたことがあった。"寄り鯨"とも呼ばれ、古くは信仰の対象でもあったらしい。そもそも鯨は非常に知能が高いことで知られ、"ソング"と呼ばれる音波で人間のようにコミュニケーションを取る事ができる。安部公房は漂着鯨を"クジラの集団自殺"と結論付けたほどであり、そこまでくるとなんとなく人智を超えた存在である気もしてくる。


「その御前で、今回の件を片付けられたらそれはどんなにか......」


僕はそう独りごつ。


「うん......。そうだね」


多摩川沿いを走る車窓の外を眺めながら、彼女が小さく相槌をうった。


暗渠に溶け込む月明かりにばかり手を引かれてしまう僕たちにとって、都市の灯りはいつだって冷たく刺さる。



○ 



『ETCカードが、挿入されていません』


「暑ち~」


丑三つ時も近い材木座海岸に人影はなく、風も吹いていなかった。星明かりと生ぬるい感触だけが、身体にまとわりついて離れない。


事を済ませた僕らは、帰ろうとしてエンジンを点けた。スコップを握りしめ続けて力の入らなくなった腕を、だらりとハンドルに預けたその瞬間だった。



ほぼ無音に近い轟音が鳴り響き、視界は月の裏側みたいな完全な空白で満たされた。



自分が生きた証も含めて、この世界には何も残らないのだと知った。



話は冒頭に戻る。これは死んだ後に思い出したのだが、腐敗した漂着鯨の死体内部にはメタンガスが蓄積され、限界まで膨張した結果、爆発事故を起こすことがあるらしい。


でも、その近くにいた人が死んだ事例は見たことがなかったなあ。これまでのことも、今日のことも、やっぱりぜんぶ神の思し召しだったのかも知れないね、って君が笑った気がした。

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37世紀の夏蜜柑 / 君の居ない材木座海岸にて モチミズユウ @motimizu

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