第6話 水野亜玖亜は読ませられない


 もしもこの世に、手放しに天才と褒めそやせる人間がいるとしたら、私にとってのそれは碧宇美を除いて他にはいないだろう。


 ——そう断言できると、信じていた。


 その作品は誰の目にも触れられていない新作だった。その作品は彼女がこれまで挑戦したことのないジャンルだった。その作品は——、

 私のこれまでを完膚なきまでに凌駕する大長編の異世界ファンタジーだった。


「どうでした……?」


 前回と同じ喫茶店。前回とは異なり、マホガニーのテーブル席に差し向かいに座っている碧宇美こと美紅が、不安げに声のトーンを落として問いかけてくる。胸の内にあるのは、感想に対する不安ばかりではないだろう。何故なら、私はつい二十分前に出会った彼女と視線すら合わせていないのだから。

 テーブルの上で二つのコーヒーカップの間にある『異世界』の詰まったB5大ほどの封筒を見つめて、私は絞り出すように声を吐く。


「ごめん————」


「どうして、謝るんですか?」


「ごめん……————」


 二度目の謝罪。

 美紅が肩を強張らせ、息を飲む気配がした。


「それじゃ、何も分からないですっ」


「何も、言うことが、ないの……」


 誤字脱字がちらほらあった。もう少しテンポをよくした方がいいところも、表現を見直したほうがいいところもあった。キャラクターの設定に改善点がいくつもあると思った。

 しかし、それら全てを差し引いても——、


「面白かった」


 たった一言に尽きる。


「文句なしに。初めて書いたとは思えないほど、面白かったんだよ」


「嘘……ですね。顔に書いてありますよ」


 私はどんな顔をしているのだか。この際、そんなのどうでもいい。


「嘘じゃないよ」


「どこか変なところがありましたか? ちゃんと読める作品になっていましたか? こういう作風は初めてだったから、なんでもいいんです。意見が欲しくて……っ」


 美紅は早口に問い詰めてくる。

 その一言一言が、私の鼓膜を刺し、胸を穿つ。


「だから、嘘じゃないって」


「だったら、どうして——綾香さんは笑ってくれないんですか?」


 美紅の言葉はいよいよ私の腹部を抉る。


 碧宇美の実力は知っているつもりだった。躊躇いなく『波止場』で作品を講評し合って、無邪気に研鑽し合っているつもりだった。

 しかしその関係は、彼女と私の立場が全く違うからこそ成立していたのだ。誰だって、畑と田んぼを比べることはない。異世界ファンタジーという同じジャンルに立って初めて、彼女との実力差を思い知らされた。私が書いてきた作品たちは、私の中で完全に霞んでしまっていたのだ。

 おかげで、彼女の小説を読んでから今日までの三日ばかり、執筆はおろか『波止場』にも顔を出せていない。

 本物を前にしてへらへらとしていられるほど、私は楽天的にはなれなかったのだ。


「一瞬だけど、さ」


「はい」


「本気で、焼き捨ちゃおうかって考えたんだよ」


 渡された原稿はプリントアウトされたものだ。焼いたところで作品が葬られるわけではない。それでも、葬ってしまえたらよかったのにと思ったのだ。


 浅く差し込む夕陽が瞳孔を刺した。

 絶句する美紅と初めて視線を合わせる。

 学校帰りで制服を着ているけれど、前回とは違って化粧をしているんだろう。今日は頬や唇の血色がよく見える。


「お父さんにも見せなよ。真面目に、商業デビューも夢じゃないって」


「商業なんて望んでません。わたしは、綾香さんに——、わたしに物語を教えてくれたあなたに……——」


 言葉が食い込む度に吐き気がこみ上げてきた。

 美紅に罪はない。でも、顔見知りのアマチュアにも、出版社のプロフェッショナルにも、インターネット上にいる数多の読者にも見向きもされず、あまつさえ知り合ったばかりの歳下の少女の目映い才能に打ちのめされている。


 ——私は絶対、ライトノベル作家になるんだ。


 もう、夢のような口上に逃げ込むことすら叶わない。


「望んでないなんて、余裕だね。こっちは望んだって届かないのに」


「え——?」


 思わずこぼれた言葉に、美紅は目を白黒させる。


「美紅に私の気持ちがわかる? 私はずっとこれ——異世界ファンタジー——一本でやってきた。本だってたくさん読んだ、自分の書いたものを他人にだって読ませた、持ち込みだってした。なのに、全然評価されてこなかったんだよ。そしたら何? 初めて書いた高校生に負けましたって? これ以上、何を言っても惨めなだけじゃない」


「——っ、物語に勝ち負けも優劣もないです」


「それはただの理想論だよ。ずば抜けて『いい』作品はやっぱりある。あなたはそれを書ける人だよ」


 穏やかに、ゆっくりと。しかし、言葉の端々から突き出る棘を隠すことなく。私は美紅に悪意を投げかける。

 分かっている。これは八つ当たりだ。私の自尊心にチェックメイトをかけた美紅への。大学生にもなって高校生の少女相手にみっともない。それを俯瞰している自己の存在を実感つつも、行動を制止できない事実が、尚更に惨めだ。


「あなたは私とは違う」


 美紅の薄い唇が震えている。その揺るぎない瞳にあるのは怒りか、失望か。

 一瞬にも永遠にも感じられる間が過ぎて——、


「違いません。『波止場』で何度もやり合って、わたしが好きな作品と同じ作品を好きでいてくれて。ようやく会えて、言葉を交わしてる」


 薄紅のリップを塗った唇が凛とした言葉を紡ぐ。


「それは勘違いをしてただけだよ。次元が違うって知らなかっただけ」


「わたしは綾香さんがいなかったら小説を書いていませんでした」


「いつかは書いてたと思うよ」


「でも、今ここにいるわたしが書いていられるのは綾香さんが書き続けてるからです」


 椅子をガタリと引いて美紅が立ち上がる。原稿用紙の束が入った封筒を手早く通学鞄にしまうと、テーブルの上に代わりに五百円玉を一枚置いた。


「帰ります。読んでくれて、ありがとうございました。公開する勇気、ようやく出ました」


 ふいに、硬貨を置いた美紅の手を繋ぎ止めたい気持ちに襲われた。その物語が公開されてしまったら、本当に私たちの世界は断絶してしまう気がしたから。

 でも、その手を出したら取り返せない何かが終わると思って、代わりに歯を食いしばった。


「綾香さんは『波止場』に戻ってきます。書かずにはいられない人だから。わたしと同じです」


「どうして、そんなに私を買いかぶれるの……——?」


「鈍すぎるのって罪だと思いますよ?」


 美紅はそう言って、邪気ひとつなく、ふわりと包み込むように顔を綻ばせた。


「わたしは綾香さんが思ってる以上に、綾香さんの書く物語が好きなんですよ」




   ***つづく***

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水野亜玖亜は読まれたい 〜女子大生は女子高生と小説投稿サイトでつながってみる〜 白湊ユキ @yuki_1117

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