騒音

清野勝寛

本文

騒音



死ぬという選択肢が選べないというのは、息苦しいものである。


先日、こんな言葉を聞いた。

「自分が生きやすい場所を求めて、何が悪いというのか。シロクマが北極で生きることを選んで、だれがそれを責めるのか」


なるほど、これはとても良い言葉だ。

生物の本能であるのかもしれない。自分が生きるために最適である場所へ移住し、順応する。


だが私はこう考えた。

「では、死は。死はなぜいけないのか。生きやすい場所が地獄や天国である可能性だってあるだろう。地獄のような日々を生きているのであれば、なおさら」


何故生きることに、生物は固執するのだろう。

自分の血を、祖先の血を子孫に繋ぐ以外に、意味などないのに。


それが出来ないのであれば、なおさら。


ごちゃごちゃとした頭の中は一向に整理が付かず、かと言って何かを具現化する力は今の自分にない。今だって、こうやって当てつけのように曲を作っているフリをするだけ。どうせ誰も、こんな曲聞きやしないのだ。誰のためでもなく、自分のためでもない、こんなゴミみたいな曲は。


それでも、習慣となっているせいで指は勝手にギターを奏でるし、メロディは意識でもあるみたいにひとりでに歌い始める。


何かを作る時、必ず達さなければいけないルールのようなものがある、と私は思っている。それは、「悩み、もがき、苦しむ」ということ。これをせずに作ったありとあらゆる創作物は良作足り得ず、また仮に良作であったとしたら、それはその人間が作ったものではない、紛い物だ。


だから、言ったろう?

私の作るものは全て、くだらない、自慰に等しい一人遊びなんだ。

しかし、ここで思うところがある。

「創作外での悩み、もがき、苦しみは、良作のエッセンスにはならないのか」ということだ。


生きていれば大なり小なり、悩みはあるだろう。ないと答えるやつは嘘を吐いているか、或いは死んでいるかのどちらかだ。


では、万人に等しくあるそれらは、等しくあるが故に創作足り得ない、ということになるのか。それは、全く、甚だおかしな話だろう。


「私」は「こんな」に「苦しんでいる」のに!


などと考える人間だって一人や二人じゃないだろう。

たしかに、そうだ。誰もその苦しみの深さなど聞いてはいないのだから。


――


「聞いてくれてありがとう」


客のいないライブハウスのステージの上で、男が一人、ギターのサステインを止めた。六弦のチューニングが甘いのがずっと気になって、何を歌っていたかなんて全く聞く気にならなかった。

ブッキングライブは転換込みで三十五分。今のでこの男のステージは終わり。男は誰もいない空間へ頭を下げて、ステージを降りる。こちらは次の出演者のセッティングを手伝うため、PAブースから飛び出してステージへ向かう。

今日の出演者は五人。今の男が四人目。あともう一人いる。出演者五人合わせて、今日の集客は三人。その三人も、最初の高校生バンドの演奏が終わったらさっさと帰ってしまった。多分演者の彼らもチケットノルマの支払いを済ませて、帰っている頃だろう。

こんな仕事をもう十年も続けているが、未だに解せないことがある。客のいないステージをする彼らは、一体何のために高い金を払ってこの空間を貸し切って演奏するのだろう。

「大きな音で、声で歌うのが気持ち良いから」ならば、カラオケにでもいけばいい。

「ライブハウスという空間が好きだから」ならば、プロの演奏でも聞きにいけばいい。

なんの意味もない行為だ。余計な出費である。彼らが自分の親族だったらきっと止めているだろう。


まぁ、彼らみたいな演者がいるおかげで、こちらは飯を食えるわけだが。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

騒音 清野勝寛 @seino_katsuhiro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る