思い出した教師

 もう、初老といっていい。


 六十代の歴史の教師が思い出したかのように教科書から顔を上げて、教科書の内容とは関係のない話をし始めた。穏やかな容貌、優しい低い声。近所のじいさんのような歴史教師の嶋村浅人。



 中学三年生である生徒達の殆んどが春の陽気と給食の後の五時間目の授業ということで、睡魔と戦っていた。だから嶋村先生が雑談を始めてるということに気がつくまで時間がかかった。


「あ、僕、妹がいたんですよ。いたいた。あれは、なんだ。僕のせいだ。消えたんですね。消えたと思ってた。なんだなんだ」



 笑顔で話している。笑顔で話すには「妹が消えた」という。生徒の一人の高嶺玲子は顔を上げて、眉を潜めた。妹? 授業の内容から飛んだわ、雑談かしら?


 なら聞こう。嶋村先生は歴史の教科書を読み続けるだけだから、普段から眠たくなるのよね。



「ああ、そうだ。今ね、線路という文字で思い出したんだよね。僕は妹と歩いていて、そこから、風が吹いて妹が消えたと思ってた。何で今まで忘れていたんだろう?いやぁ、思い出せて良かった。P182でしたね。皆、そこの後ろから五行目ですよ、戻ります」



 生徒の皆はきょとんとした。あれ?雑談が始まるかと思ったのにもう終わり?


 玲子がくるりと回りを見ると皆同じようにちょっとしたがっかり感を漂わせてまた教科書を机に立てた。野球部の山本誠はずっと突っ伏して寝ていた。


 嶋村は帰り、車のエンジンをかけながら妹のことを思い出していた。


 俺には妹がいたんじゃないか。仲がよかった。俺が7つの時に、聡美は3歳だったな。


 一緒に線路づたいに散歩してた。今みたいに穏やかな季節だった。春だった! そうそう、春だった!



 聡美は桜の花びらが舞ってるのに大喜びで、俺の手を握っていた。あいつは茶色の錆びた線路の上を歩きたがり、俺は俺で兄貴達もいなくて妹を守ってやっている気持ちであいつの小さな手を握りしめてた。あいつの手はいつもあたたかくて、湿っていた。




 あの二人での冒険の後から聡美は消えた。いや、写真になっていた。



 皆は聡美は可愛かった、聡美は元気だった、やんちゃだったなどと話していた。俺もずっと家族と聡美の話をした。



 どこに行ったのか聞きもせず、いなくなったことに不思議にも思わず、俺はあれから中学生となり、受験をして高校、大学へと進学。


 兄弟の四人とは今も仲がいい。いや、俺は大学からN県に引っ越してそのまま就職。家族の皆はA県のままだ。



「五人兄弟です。ええ、でも今は四人なんですよ」



 といつだったか、一番上の兄貴が誰かに言ったことがある。すると二番目の兄がそれをこづいて喧嘩になった。俺は二人が何で喧嘩してるか分からずに、一番下の妹が俺の手首をぎゅっと掴んでるのがわかった。一番下も妹で、芳子といった。自分の中では赤ん坊のイメージが強いがあいつも今では子持ちのおばさんだ。子供の受験のことで久しぶりに電話で夏に話したなぁ。



 浅人は自宅に帰らず、実家のA県まで車を飛ばしていた。明日から土曜日だ。部活の顧問も変わってもらった。



 俺は実家に帰らなくてはならない。



 高速道路を飛ばした。サービスエリアには一度も降りなかったのでついたときには母親がびっくりして出迎えてきたが、説明する間もなくトイレを借りた。



 懐かしい匂いのする実家のトイレは、思ったよりも狭かった。


 廊下の一ヶ所が柔らかい。白蟻かもしれない。だが父はもう死んでいて、母親ももう年寄りだ。長男の明和あきかずと敷地内で同居で暮らしているから、明和の世帯を起こさずに済んだが、母はトイレの外で何度も言う。


「あんた、こんな時間に帰った来て家族と何かあった? 心配するがね、何かあった? 明和を呼んでこようか? 」



 誰かが来る度に、母親はいちいち息子夫婦に声をかける。明和の嫁が嫌そうな顔をしていることには母は無視を決め込む。


 浅人は慌てて、「いいよ、起こさないで! 迷惑だよ! 母さん」


「ほうお?でも、何であんたが急に…浅人、ご飯は? 食べた? ひじきならあるけど、あんた好きじゃないもんねぇ」


 九十近い母が自分の心配をすることに、ふと、浅人は鼻の奥がつんとした。



 言いたいことも聞きたいことも聞けない気がした。トイレの水を流し、古びた便器を眺めながら、ここへ来た言い訳を探していた。



「浅人? 」



 浅人ははっとしてトイレから慌てて出た。



「トイレの前で人を待つもんじゃないよ、母さん、ぼけたか?明和の嫁さん、困らせてない? 」


「何が。仲良くやっとるが。あんたに心配されんでも。あんたはぁ?! あんたはどうなの、嫁さんはどうなの? 麻衣は? 元気にしとる?」



 浅人の一人娘の麻衣は就職したばかりだ。



「麻衣は仕事を頑張ってるよ」



「嫁さん任せであんたは何にもしとらんのじゃないの? 晩御飯は! たべた!?」



 浅人は「食べとらん」といった。すると浅人の母は「ひじきで食べなさい。魚も焼いてあげるから」といって食卓につくように浅人に促した。



 浅人は夜遅く帰ると妻は先に寝てることやご飯を作ってはくれないだろうと思うと思わずくすりと笑った。それを言えば妻はまたむくれるだろう。


 それを目ざとく見つけた浅人の母は「何か良いことでもあった? あんたが来なければ私は八時には布団の中よ」



「うん。そうだね。ごめんよ。今日は泊まってくね」



 浅人がそういうと母親は驚いた顔をしたが、布団を敷くから奥から出しとけ、といった。そして、早くいってくれれば今日はいい天気だったから干したのに、ともぶつぶつ言ったが嬉しそうではあった。



 浅人は母親の隣に布団をしいた。



 そして二人並んで寝たが、浅人は母が早く寝る人だとわかっていたが、真っ暗の中、天井を見ながら、そして仏壇をみて、仏壇の上に並んだ写真に聡美を見つけると浅人は思いきって口を開いた。



「ごめんよ、母さん。聡美を殺したのは俺だね」



 暗闇の中で空気が止まった。母が起きてるかどうかも浅人はわからなかったが、そう口にすると知らずに涙が次から次へと目から溢れて頬を伝った。



 浅人がとうとう嗚咽を漏らしながら泣いた。一度も泣いたことない自分だった。浅人は父の葬儀でも泣かなかった。「お兄ちゃん、強いのねぇ」と芳子に言われた。長男たちは泣いていた。


 だが、あまり家に帰ることもなく、父ともそこまで話をしていなかったので、強いのではなく、兄たちの方が父と仲がよかった。それだけだと浅人は思っていた。



「あんた、そんなこと二度というな」



 暗闇のなか、体を起こして布団に座ってるであろう母がそう言った。



「聡美は事故よ。3歳で…あんたと散歩して幸せだった。あんたも子供だった! 悪いのは私やお父さんだわ! あんたはちっとも悪くない! 」



 母が泣いてるのがわかったが浅人は苦しいくらいに泣き続けて、母の様子は見ることができなかった。



 だが、耳に母の声は届いた。



「なんで、思い出したの? あんたはずっと思い出さんと思ってたわ…」



 翌日、昨日よりも春めいた一日となった。空は青く、桜も咲いている。春の花の匂いが浅人の鼻につく。



 年老いた母は小さくなったが、腕をふりふりしゃきしゃきと浅人の前を歩く。



「あんた、別に見んでもいいのに。でも、聡美に手を合わたいでね。こっちよ。あんたが気にせんよう、私はずっとあんたの学校いっとる昼間や夜にきとったの。あんたは事故のこと、何も覚えてないと思ったのよ」




 小さな地蔵が線路の脇にあった。



「昔はもっと金網とかもなくてね、ぱーぱーよ。そりゃ、浅人も聡美も入って当然だわ。聡美だけじゃない。何人も子供が死んでからよ、この金網できたのは」


 お数珠を出して浅人の母は拝む。その眉間にシワを寄せて、念仏を唱える姿はとても必死そうであった。



「母さん、聡美のこと覚えてる? 俺のこと恨んでないの? 」



「何もかも覚えとる。あんたが忘れてることが不思議だったけど、それもわからんでもないと思ったのよ。…あんたはいつも、聡美のことは今もそばにいるようにあんたは話してたで…明和は気味悪がって、事実を話せってあの子が高校生の頃に言われたわ」



「……何で、教えなかったの?」



「あんたと散歩してただけなのに、何を教えるの? 何も隠しとらんわ」



 小さな地蔵を睨み付けつけるように見つつ、浅人の母はきっぱりといった。



「誰のせいでもないわ。誰かのせいかといえば、ここがぱーぱーだったのと、線路があった。それだけだわ。聡美、ごめんねぇ」



 母のシワだらけの顔に涙が溢れた。浅人は昨日で涙は枯れたかと思ったがまた、自分も溢れてきた。ぼやけた目で母を見ると、驚くことに、3歳の聡美がきた。



  そしていつものように浅人の手をぎゅっと握った。その感覚にはっとすると、小さな聡美は浅人を見上げてにっこりと、愛らしいいつもの笑顔を向けたと思うと、父親からいつも買ってもらっていた指輪の形をしたあめ玉を慣れたように口に入れてひとしゃぶりして、母親の元へと走った。「聡美…」


 浅人が思わず手を伸ばすと聡美はいつものように、ぎゅっと母親の背中にしがみついた。



 浅人の母ははっとしたように手を後ろにやる、するとその手をぎゅっと聡美がつかんだ。



 浅人の母は嬉しそうに振り返り、小さな聡美を抱き締めた。そして二人は仲良く歩きだした。聡美がひっぱったからだ。母の顔はお婆さんの顔ではなく、若く美しく見えた。喜びに満ち溢れている。



 聡美もいつもの笑顔、浅人にも見せていたいつもの笑顔で母と自分をにこにこと眺めて、おしゃまなポーズで自分に手をふったかと思うと母と歩いていってしまった。



 パァンと電車の警告音と轟音か響く。桜の花びらが舞う。



 美しく、素晴らしい春の匂いに包まれて浅人は思わず上を向き目をつむり匂いを思い切り吸い込む。



 そしてゆっくりと目をあけると、母が座ったままの姿で動かないでいた。



 近所の人が通りかかり、浅人の母に声をかけ、返事がないので軽くゆする。すると、浅人の母はそのまま倒れたのだった。






 あっという間の葬儀であった。



「はー。いい顔だわ。長寿だったしねぇ、あやかりたいわ」



「久しぶりに会ってなかった息子さんが帰郷して、その日に亡くなったって? お母さん、幸せだわねぇ。皆にみとられて」



「聡美ちゃんも待っとったわね。今度はお母さんを聡美ちゃんに独り占めさせなかんわ」



 芳子が近所の人に囲まれて、そう声をかけられていた。芳子はずっと下を向いて泣いていた。


 長男の明和も泣いていた。次男の広樹もだ。



 そして兄弟二人は三番目の浅人を見つけると立ち上がり側へきた。浅人の髪と違い、二人は父方の血が濃くて髪が寂しくなっていた。



「泣け、泣け。お前も疲れたろう。ずっと、泣かんで。泣いとけ、泣いとけ。母さんも聡美も俺たちも、お前が真っ直ぐ育つことだけ考えとったが、辛かったかもわからんなぁ」


「いや、兄貴、浅人もこうして泣いとるわ。だから重荷も取れたんだわ。なぁ、浅人」



「取れたも何も…ごめんなぁ、ほんと、ごめんなぁ」



 と浅人は泣きに泣いたが、ごめんなぁという言葉に、長男が顔を赤くして怒った。「お前は謝るな!何もしとらん!何もしとらん! 浅人は一番のバカだからなぁ、そんなこともわからんのか」



「兄貴がいつも俺をバカだっていうから見返す為に教師になったのに」と浅人が答える。





「お前は馬鹿じゃないさ。皆知っとる。ゆっくりしていけ。ほら、また母さんの幸せそうな顔を見ておこう。あんな穏やかで幸せそうな顔! 俺もああ死にてぇわ。お前に会えたからだな、浅人! 」



 広樹が言う。聡美に会ったからだと浅人は言おうとしたが、やめておいた。芳子も近所の人に促されて棺の側へやってきた。




「浅人に会えたから幸せな顔だと? わかっとらんな。俺が敷地内とはいえ同居しとったからだわ。母さん、俺が一番大事だったからな」


 と目を真っ赤にした明和がしれっと言うので、他の兄弟達は黙って頷いて三人で目配せをした。




























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腕のない男 糸杉賛(いとすぎ さん) @itosugisan

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