見える人見えない人
カーリング。カーリングという競技があることは知っているが、実際に綾子はよく知らなかった。
氷をこすって、距離を調節したり速さを調節するのだろう。綾子はその見えない線が家族に見えた。
綾子はお盆が嫌いだった。なぜかは思い出せないが、実家に帰りたくなくなるのだ。
ある日ママ友が言った。「妹が親の介護に来ないのよ」と。
「私は県外だからたまにしか顔を出せないのに、なんで近くに住むあの子が行かないのかしら?」
ある時は別の近所の人が綾子に言う。
「兄夫婦なんて父親が死んでも知らん顔よ。葬式はうちで取り仕切ったわ」
「そもそも、引きこもりの息子がいるからって実の父をほったらかしってありだと思う?兄もお嫁さんも苦労してるのはわかるけど、長男なのにさあ」
綾子は近所の人の舅を思い出した。兄嫁を悪く言っていたのを彼女はうれしそうに綾子に話したからだ。じゃあ、葬式なんてくるわけない。そう思っても綾子は知らんふりした。「そうなの、あなたも大変ね。無理しちゃだめよ」
そう話しながら綾子は見たこのないその兄夫婦の肩をこころで持った。
「あなたのお父さんは葬儀に興味を持たれないほどに兄夫婦に何かしたんじゃないの。子供が長くできなかったことをずっとぶちぶち言ってたものね」
そう心で呟きながら急に、綾子は30年ほど会っていない兄のことをふいに思い出したのだった。名前は広志。嫌な男だった。
綾子は兄と仲が悪かった。広志は小学校に上がると暴力がひどかった。保育園の頃からかもしれない。三十年、四十年も前は障碍者もそうでないのも同じクラスで過ごす。兄の広志が障害があるとは父も綾子も思ってもいなかった。だが綾子は子供を産んで分かった。兄は障害があった。兄だけでなく、自分にも父親もだ。
父親は広志に期待をしたが、やり方は一貫しておらず、子育ても気まぐれであった。広志は言語能力が発達していたが、言葉通りに受け止める特性もあり、父の一貫性のなさに振り回され、学校では小学生らしからぬ暴力を奮い、綾子はそんな兄がいることをひたすら隠して過ごして高校生まで生きた心地がしなかった。
父は広志を誉めたかと思えば、親戚の前では「この子は頭が良いが顔がいまいちで」と言ったり、「態度が悪い」「将来が不安ですよ。ほら、挨拶もできない」と笑いながら息子を嘲った。
皆はそれを謙遜と分かっていたが、広志は自閉的な傾向が強く、言葉通り受け取り苦しんだ。
それに気付いたのは綾子だけであった。綾子はそれを見て自分だけは上手くやろうと、お盆で親類が集まると小学生なのにくるくると皆の元へ行っては気遣い、大人から褒められていた。
広志はとうとう、父にもう、親戚に会いたくないよ。お父さんはなぜそんなことを言うの?と言った。だが、広志の父は自分の何が悪いのかがわからない。
そして、広志が苦手とする人付き合いを親戚ならできるだろうとひたすらやれと言った。良かれと思ってだ。
広志は勉強はできる分野とできない分野の差が激しかった。広志の両親はそれに気づいてさえもいなかった。綾子は広志が勉強が苦手なのではと薄々気づき始めたが、もう、高校生になっていてそれを誰かに伝えることはなかった。
綾子は高校が兄と離れてほっとしていたからだ。関わりたくもなかった。
広志は偏食も激しく、ニキビだらけになっていた。進学校へ進んだが、家ではひたすら絵を描いていた。綾子はその高価である油絵の具の匂いやテレピンの匂いにいつもイライラした。広志と綾子は一言も口を聞かなかった。小学三年生の頃から高校一年までだ。両親はそれを「思春期ね」と笑うだけであった。
綾子はふと母親に、広志は異常だ、友人も一人もいなければ、小学校の頃はひどい苛めもしていたよ、お母さん知らない?と訴えても母は、
「あの子は誤解されやすの。苛めなんてとんでもない。中学では苛められてたのよ?あなたが知らないだけ。それに、高校ではうまくやってるでしょう?」
と言った。
父に至っては「おかしな子が多いなあ」とまるで広志以外の人間が駄目かのように呟く。
息子を信じているわりには、広志に対して、
「親戚付き合いくらいは常識だぞ」と人付き合いの苦手な広志に長男の役目を早くから押しつけ、広志がそういうことはしたくないと反論したことがあったが、「親のいうことを聞け」で父親は後は広志を無視した。
広志もまたいつしか家族を無視するようになった。家族の行事から消えた。
広志が画家になりたいと言った時、父親は広志の夢は絶対に叶わないといった。変な夢は見るなと言って進むべく大学を父が選んでいた。
綾子は初めてその時、兄に少し憐れんだ。だが一瞬だ。
人を見下し、暴力的な広志を死ねばいいとしか思っていなかった。あいつはやばい。駄目な遺伝子だと。
父も「あいつは駄目だ」と言っている。広志は駄目な奴だ。父が思う以上に駄目だ。早く死ねばいいのにと綾子は思っていた。いや、そうでなくてはならないと信じていた。でなければあの男はいつか人を刺す。あいつがいる限り、私は幸せになれないと。
綾子の悩みは高校一年生の時に解消した。兄が消えたのだ。どうせあんな乱暴者は社会から弾かれひきこもりになるに違いないと綾子が思っていた。だが、広志は、急に消えたのだ。
母親は嘆き悲しみ、広志を探した。
綾子は兄がいなくなったことよりも、そのことに驚いた。どうして嘆くの?
あの人がこのままいたら私達の人生はめちゃくちゃだよ?なぜ、心配するの?安心すべきでしょうと思ったのだ。
何より、両親はカーリングのブラシのように、兄の広志が落ちるように、せっせとブラシで氷上をこすっていたのに。母もそれに倣っていたのに、なぜ今更驚くのだろうか?
綾子は自分の両親が分からなかった。そして我々が一番気にすべきは、警察から電話があることだけだ。兄の訃報ではない。あんな兄がだれかを殺してしまうのではないか・・・・。
綾子はずっとそのことを口にも出せずひそやかに悩み、髪がかなり抜けた。兄がいなくなったショックなのね、と母親は涙ぐんだ。何の冗談かと綾子は思う。
そうだ。もうあれから三十年以上経っている。両親は兄のことを口にしない。母がアルツハイマーで入居してからは母は兄の事を全く口にしなくなり、綾子は本当に広志がいないかのような気持ちとなりほっとしていた。父親は綾子の息子をひたすら可愛がっている。そうだ、私の人生は今ひらけた。だがずっと、家を出るまで、広志がいなくなるまで苦しんでいたじゃないか。
いなくなって数年は、いつか電話がなるのではと、びくびく過ごしていたのに…。
綾子は忘れている自分に驚いた。晩御飯を夫と食べていた時だった。夫が食べ終わりテレビをつける。
ニュースが流れた。安倍元首相を撃たれたと。事件の詳細がわかるにつれ、加害者は宗教の被害者であった。
「なんてことを。安倍さんに家族だっているのに。この男、どうかしてるぞ」
綾子の夫が言う。綾子は思い出していた。ニュースを見ながら思う。うちは宗教もやっていなかった。親にほったらかしにもされなかった。大丈夫だ。いや、だが、見えない何かでずっと親は我々を苦しめていた。
綾子は考えた。被害者ぶる訳ではないが、真っ直ぐ育つには難しい環境であった。
「母親を殺せなかったから安倍さんを殺したんだ」
と事件の加害者の身内の台詞がテレビで流れる。
「そんな迷惑な話があってたまるか。なあ、綾ちゃん」
夫が言う。五十になっても夫は綾子をちゃんづけで呼ぶ。
綾子は「そうね」とだけ呟いた。
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