忠臣
しばらくして、道の脇に井戸があった。
その横には一人の老人が座り込んでいた。老人は白髪頭で着物は血に塗れていた。
「ご老人、そこで何をなされておる。」
「はて、何処かで聞いたような声でござるな。」
老人が途切れ途切れに言った。
「まさか、貴殿もしや。難波田殿ではござらぬか。」
綱成はその声に聞き覚えがあった。
難波田弾正憲重である。
「如何にも。貴殿は、綱成殿でござるな。」
「貴殿の目論見は崩れ去ったな。」
「我が策は半ばまで上手くいっておりました。だが、詰めが甘かった。」
憲重は自嘲するように言った。
「勝負は時の運という事か。」
「左様でござる。」
「どうだ、降伏いたさぬか。」
綱成は言った。
「何を仰せられるか。忠義の道に生きるは武人の道。殿がお亡くなりになられた今、この老いぼれに居場所はござらん。」
「そこまで頑ななら仕方あるまい。」
「それがしはもう直ぐ死にまする。綱成殿、これだけは心に留めおかれよ。」
憲重は急に改まって言った。
「何でござろう。」
「それがしが思うに、この戦により北条は関東の覇者となりましょう。ですが、覇者となった時、その権勢に驕り、油断すれば我らの様な末路を辿る事になりまする。ゆめゆめお忘れになられるな。」
憲重は息も絶え絶えに言った。
「ご忠告痛み入る。」
「うむ。あの世で貴殿の活躍を楽しみに見ておりますぞ。」
最後に弱々しく笑った憲重は、横にある井戸に飛び込んだ。
「弾正殿!」
綱成は声を上げた。
「敵ながらご立派な最期でござるな。」
横から綱房が言った。
「うむ。あのお方の様に忠義に生きたいものだな。」
そう言うと綱成は馬上で手を合わせた。
「綱成ではないか。そこで何をしておる。」
後ろから突然声が聞こえた。
振り返るとそこには一人の武将がおり、後ろには多くの兵が引き連れられていた。
武将の額には大きく刀の古傷がついていた。
「これは兄者。よくぞご無事で。」
綱成は喜々として言った。
武将は綱成の義兄の氏康であった。
「そなたこそ、よく無事だったな。あの大軍を半年も食い止めるとは誠に天晴じゃ。礼を申す。」
氏康は綱成に労いの言葉を言った。
「いえ、兄者が来て下さらねば我らはあの城で飢え死にするばかりだったでしょう。」
「地黄八幡の綱成もさすがに追い詰められておったか。」
氏康が笑った。
「兄者。綱房にも礼を申して下され。あの者が来なければ私は兄者が敵陣に夜襲を仕掛ける事を知れませんでした。」
「そうだな。綱房、この度のそなたの働き
比類無きものじゃ。あのような決死の任務を成し遂げてくれるとは。礼を申すぞ。」
「有り難きお言葉。励みまする。」
綱房は恥ずかしそうに言った。
「さて、兄者。これからどうなりましょう。」
綱成が言った。
「うむ。この戦によって公方どもは力を失った。これにより、我らには関東統一の道が開ける。そなたらにももっと励んでもらわねばならぬ。」
「分かりました。それで、関東の外はどうなりましょう。」
綱成が疑問を投げかけた。
「この勝利により、武田、今川は我らに一目置くだろう。此度の戦では敵対したが、いずれ手を結ぶ時もあろう。」
氏康は力説した。
「我らも粉骨砕身努力いたす。」
「これからも励んでくれ。さて、この戦は勝ったのだ。皆、勝鬨を上げるのだ。」
「おー。」
勝鬨の声だけが、武蔵野に響いていた。
さて、川越城の戦いの後も北条家は、勢力を拡大し続けやがて関東に覇を唱えた。
その関東平定の戦で綱成は常に先陣を務め、その勇猛さは諸国に鳴り響いた。
氏康の死後も氏政、氏直と歴代の当主に仕え威勢を誇った。晩年は上総入道道感と号し悠々自適な隠居生活を送った。そして、綱成は天寿を全うし、天正十五年に七十三歳の生涯を終えた。
小田原征伐で北条家が滅亡するのはその僅か二年後の事である。
終
地黄八幡 あっちゃん @atusi0519
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