美術部

 絵肌に触れてしまう寸前で思い留まる。


 イーゼルに立てかけられたままのキャンバス。

 そこに、例えば『ごっぺり』とか、思わずそんな擬音で形容したくなってしまうほどに、絵の具が山盛りに盛られていた。


 顔を近づけてよく見ると、ところどころ砂粒が撒かれたような部分や、平たいものを擦りつけたような跡が見られる。その一つ一つがなんとも、これは絵としてどうなのだろう? と、そう異質に思えてしまう反面、少しずつ背後に後ずさりしていき、その全容を視界に収めてみると、そこに恐ろしく精緻で実在感のある風景が浮かび上がってくる。

 思わず固唾を飲み込んでしまう。


 そこは夕暮れの路地だった。


 車が一本通れるくらいの幅の路地と、紺色の空。夕暮れの闇が今にも押し寄せてきて、宵闇に覆われてしまいつつある最中さなか


 離れてみると、山盛りの絵の具や一つ一つの筆触が、一見適当なようでいて、実のところそのそれぞれが意味のある陰影を成していることがわかる。画面の手前側の建物や路面――せり出すように盛られた絵の具によって、ちょうど、どこかモチーフがこちらに迫ってくるような印象を受ける。


 そしてその反面、画面の中央付近――先細りに闇に紛れて消え入ってしまう路地が描かれている――その奥のほうは、キャンバスに平面として描かれているはずなのに、ぽっかりと、穴が開いたように深く奥行きがあるように感じる。


 恐ろしくうまい。


 絵に造詣ぞうけいの深くない僕でも、この絵を描いた人が恐ろしく絵がうまいことが分かった。


 吹き込んできたぬるい風が、視界の端で美術部のカーテンをチラチラと揺らしている。西日が窓から差し込んで床に照り返し、キャンバスをぼんやりと照らし出している。


 キャンバスの一番手前にはアスファルトがある。続いて電柱。それから看板。


 電線、石塀、……順々に視線を滑らせていくと、気づかぬうちにその先は真っ暗闇になっていた。列をなして暗闇を僅かに照らす街灯も、途中で途切れてしまっている。その先はどこまでも暗く奥まっていって、どこか、まるで闇の中に吸い込まれていってしまいそうな気配さえこぼしているようだ。


*


「いい絵でしょ」


「ひっ」


 思わずビクリと身をすくめてしまった。いつの間にか僕の真横に美術の石端いしばた先生が立っており、僕と同じように目を細めて絵を眺めていた。「おっ、お疲れ様です」思わず挨拶が口をついて出る。


「これね〜、これ描いたの一年生なのよね〜」


 石端先生は絵に視線を向けたまましみじみとした声音で呟いた。初老で皺の入った目元がすっとすがめられている。


「篠崎さんと同じね」


「は、はぁ……」


 先生は絵を眺めたままで、僕が何となく所在無くしていると、ふいに、「ねぇ、篠崎さん」と先生が声を上げる。


「ね、篠崎さん、前も言ったけど、良かったら美術部来ない?」


「え、あ、……」


 僕は答えあぐねる。


 美術部には入らない。そう決めている。

 ……しかしさすがに、今ここで断ると心象が悪いのではないだろうか。何となくそんな不安が頭をもたげ、どう返したものか逡巡していると、先生は僕が『美術部に入るかどうか』を迷っているものと勘違いしたらしく、「篠崎さんが入ってくれると嬉しいんだけどな〜」と重ねる。


「い、いえ、……自分、もう文芸部に入ってまして」


「そっかあ、残念……」


 僕の言に、先生は眉をハの字にしてそれだけ告げ、にわかに肩を落とした。


 それからしばらくの間、残念ねぇ、と心底残念そうに小声で何度も呟くので、僕としても、なんとも気持ちが居たたまれなくなってきてしまう。


*


 美術室の隅の方、木枠から剥がされ、乱雑に重ねられたキャンバス達。


 準備室にプリントを取りに行った石端先生を待ちながら、半ば埃を被ったそれらをぼーっと見つめつつ、僕は思い返す。


 先程のキャンバスの脇、机上に残されていた画材セットの名札。そこには確かに、『川瀬ひかり』と書かれていた。


 僕は胸元にせりあがるような震えと、恐ろしいようなおののきを抱くと同時、――どこか高揚するような熱が湧き上がるのを感じていた。

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川瀬さんと僕 古根 @Hollyhock_H

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