放課後

 シュシュを買ってしまった。


 駅中のモールを徘徊するうち、薄紫色の和柄のシュシュが目に入り、それがなんとなく、川瀬さんに似合うかもしれないと思ったのだ。


 想像してみる。川瀬さんの二つ結いが一つになり、和柄のシュシュがそれを留めている。見返る川瀬さん。気恥ずかし気にやり場に迷う腕と、こちらには向けられず、ゆらゆらと辺りを漂う視線。


 うん、たぶん似合う。


 似合……。


 ……いや、どうだろう。わからない。


 もともとが男だったので、似合うかどうかなどよくわからない。いや、僕は可愛らしいと思うのだが、もしかすると男の思う可愛いと、女性が思う可愛いの感覚が同じとも限らないし、全然違うともよく聞く話であるし……。


 それに、一方で、なんとなく別の不安も頭をもたげてきた。そう、てっきり女子って髪飾りやアクセサリーを日常的に贈り合ったりするものとばかり思っていたが、よくよく考えればそれもそれで確証がない。もしかすると意外とそんなこともないのかもしれないし、むしろ、改めて考えれば、物を贈り合ったりなど、男だった頃にもなかなかしなかったわけで、いかに男子よりも友達関係が近そうな女子といえど、普通仲の良い間柄でなければプレゼントなどもそうそうしない気もしてくる……。


 そう、僕は、仲の良い、どころか、別に、川瀬さんと友達でさえないのだ。


 受け取ったばかりのレジ袋の持ち手が、思わず握りこんだ手の汗で湿っていく。


 いや、違う。やめよう、ネガティブなことばかり考えるのは。


 家路を急ぐ。モールを出口に向けて早足で辿る。歩くたびに、レジ袋に入ったシュシュの包みが腿を叩き、音を立てる。僕は頭を振る。


 大丈夫だ。きっと。そう、大丈夫なはずだ。先日、家にまで課題を届けてくれたお礼、という大義名分が僕にはある。ある。


 ……あるが、あるにはあるが。


 やはり迷う。どうしよう。


 どうだろうか? どうしよう。渡すべきか?


 もうこの際だ、いっそのこと、自分用にしてしまおうかしら。それでも良いかもしれない。折角包装もしてもらったが、まぁ、別に、たかだか数十円といったほどのものだ。それに、あっ、ああぁ……。


 僕は思わず立ち止まり頭上を振り仰ぐ。とある思考が脳裏によぎってしまった。


 要は、逆の立場になって考えてみれば明らかなのだった。自分に対して、何か勝手に髪飾りを買っており、今その髪飾りを付けた姿を妄想してにやけている(にやけて……はいなかったかもしれない)何や知らん非モテ男。


 はっきり言って、相当気色が悪い。


 通りすがりの親子が僕に不審な目を向けている。僕は再び歩き出した。


 ……うん、自分用にしよう。


 渡すのはやめておこう。そうしよう。それが良い。もとより、課題を届けてくれたお礼といった程度に、ほとんど千五百円もするものを返すなど、気持ちが重すぎるという話でもある。


 そもそもそういうところなのだ。僕が気持ちの悪いコミュ障でぼっちな所以は、そういう人としての勘定ができないところにもあるのではなかったろうか。


 ……やめよう。


 渡すのはやめておこう。


*


 渡すのはやめておこう。


 そう決めた筈だったが、僕は今、川瀬さんの下駄箱を前にして、かれこれ数分間は逡巡していた。放課後、今は誰もいない昇降口で、きっちり揃えられた川瀬さんのローファが眼前にあり、上靴を入れるための上段は今は空っぽになっていて、そこに包みを置くかどうかをじっと佇みながら悩んでいる様は、傍から見れば控えめに言ってもかなり変態的だ。


 どうしよう。


 極論、……そうだ極論、置くか置かないかだ。置くべきか。置いた方が良いか? 置かないべきか。置かなくて良いか。置かないほうが良いのだろうか。


 どうしたら良い。僕はどうしたい? わからない。


 ……わからない。


 わからない、僕はどうしたいのだろう? 頭がぐるぐるしてきた。いっそのこと、コイントスで決めてしまおうか? 置いたらどうなる? 川瀬さんは受け取ってくれるのだろうか? 受け取ってくれないかもしれない。そしたらどうだろう。うん、考えただけで心が折れてしまう。つらい。もし受け取ってくれたら? 受け取って、うわ、気持ち悪い奴だ、と思われたらどうしよう。それはそれで心が折れる……。


 もし受け取って、もしこれを身に着けてくれたら。例えば明日、さりげなく彼女が結った髪にこれでつけていたりしたら。嬉しい。……は嬉しいけれど、もしかして、これを付けていることで、川瀬さんが他のクラスメイトから変な目で見られてしまったりしたらどうしよう。……うん、心が折れてしまう。思えば、買ったときは落ち着いた色合いだと思ったけれども、今考えるとけっこう派手かもしれない。よくよく思い返してみると、クラスの女子も、あまり派手(だろうか……)な髪飾りなんてつけていなかったようにも思う。もともとが男だから、どのくらいのものが派手で、どのくらいのものが普段使いできるものなのか? そういった、いわば女子の中の常識さえ僕にはよくわからないのだ……。


 固唾を飲みこんでしまう。包みを掴んだ腕が中空に静止したそのままで、僕はいつまでも動くことができないでいる。


*


 ふいに遠くから足音が聞こえ、心臓が跳ね上がる。


 廊下をたどり、だんだんこちらに近づいてくる足音は、その調子からして一人のようだ。早足でこちらに向かっている。


 気付くと、僕は包みを下駄箱に突っ込んでいた。え? と思わず自分でも驚いてしまう。


 足音が近い。ままよ。僕は昇降口の隅の柱の影に身を隠した。足音の主が昇降口に現れ、入れ違いに今しがたまで僕が佇んでいた下駄箱の列に入っていった。


 何をやっているのだろう、僕は。


 下駄箱に包みを突っ込み、柱の陰に隠れて息を潜める自分。そんな自分を客観的に思い直せば、まぁ、本当に僕は何をやっているんだろうな……。自分でもそう思ってしまうし、咄嗟に包みを突っ込んだ自分も自分でよくわからない。


 わからないが、そう……。


 はぁ……。


 がっくりと項垂れ、ずっと溜め息をつきたいのをこらえつつしばらくぼうっとしていると、いつの間にか、すでに昇降口から人の気配は消えていた。


 昇降口に斜めに差し込む夕日は一層赤くなり、艶掛かった床に照り返す太陽を眺めながら、僕は何となく、やり切ったような達成感に全身が包まれていることに気がついた。


 今の人は、もしかすると川瀬さんだったかもしれない。


 足音からそんな感じが、……。いや、それはないか。


 もとより、そうであろうがなかろうが、もうどちらでも良くなってしまっていた。下駄箱をもう一度見ればそれは確認できるが、なんとなく犯罪的だし、別にそれも今やどうでも良い。


 僕は柱の陰から滑り出る。


*


 靴を履き替えて外に出ると、夕暮れの外気が爽やかに鼻腔をくすぐっていった。校門に向けて昇る坂に起こる風は草木と土の香りを纏っていて、その奥から僅かに夏の気配が香っているような感じもする。


 頬と口角に、我知らず力が入ってしまうのを感じる。

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川瀬さんと僕 古根 @Hollyhock_H

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