休み

 ひどく頭が痛むのと、かなり妙な夢を見てしまったらしくて、目を覚ましてからもしばらくは体を動かす気がまるで起きずに、ぼんやりと天井を見続けていた。


 どんな夢だったろうか。すでに記憶は霞がかって、今一つ思い出せなくなってしまった。


 湿り気を帯びたような静寂が辺りを満たしている。ひどく耳鳴りがする。


「……うぅ……くそ」


 呻きながら上身を起こすと、全身がじっとりと汗ばんでいた。


 喉が渇いている。それから徐々に吐き気と、鈍い腹痛とが蘇ってきた。加えて悪寒に、体の節々のひどい痛み。


 今何時だろう。


 ベッドから足を下ろす。頬に張り付いた髪が気持ち悪くて、思わず搔き上げる。そのまま壁に目を向けると、時刻はすでに午前十時を回っていた。授業はすでに始まっている。今朝がた体調不良で欠席する旨を連絡したので、今日は一日休むことができるのだが、それはそれとして、こうして休んでいる僕を差し置いて、皆がいつも通り授業を進めていることを思うと、否応ない焦りがだんだんと膨らんでくる。


 手の甲で額を拭う。


 明日、授業のノートを誰かに見せてもらわなければ……。


 ふいに気管にむず痒さがせりあがってきて、次には咳き込んでいた。痰の絡まる咳がしばらく続き、咳き込むたびに、全身の関節に痛みが響き、苦しさに思わず蹲ってしまう。


 静まり返った室内に、僕の咳だけが音を上塗りするが、それがまた次の静けさを一層際立出せてしまう。


 寂しい。


 つらい、寂しい、苦しい。


 そんな感覚が去来したことに、何となく自分でも驚いてしまった。そうだ、寂しくて、苦しかったのだ。ここ最近もうずっと、楽しいことなど何一つなくて、常にそこはかとなく苦しくて、どこかつらいことばかりだったように思う。


 最後に笑ったのはいつのことだったろう。


 一体いつからこんなことになってしまったんだっけ?


 ひどくお腹が苦しい。


 どうしてこんなにつらいんだろう。わからない。何がこんなにつらかったんだっけ。痛い。最初はもっと、はっきりとした原因が何か、確かに輪郭のあるものがあったはずだったのだ。それが、いつの間にか毎日のように続いて、つらさと苦しさとがだんだんと上塗りされていって、何がつらいのか、何が苦しいのか、もう何もわからなくなってしまった。寂しい。春先に実家を離れて、今こうして一人暮らしだから、助けてくれる人も、共感してくれる人も、ここには誰もいない。痛い。寂しいな。誰かいないだろうか。僕のこの苦しさを、つらさをわかってくれる人はどこかにいないのだろうか? どこにもいないのかな。


 いないよ。


 どこにもいない。誰もいない。誰も助けてくれない。こうして今、ここで苦しくて辛くても、誰が助けてくれるわけでもない。


 違う。


 違う、そうではない。


 目尻を拭う。枕元に置いた頭痛薬の錠剤を口に二、三押し込み、ペットボトルの麦茶でそれを嚥下する。床に下ろした足を再び抱え、ベッドの上に丸くなる。毛布を被って蹲る。白い壁を睨みつける。


 誰も助けてくれないのではない。誰だって助けてくれるはずだったのだ。むしろ、助けを求めていないのは僕自身だ。助けが欲しければ、自ら求めなければならない。もう子供じゃないんだから、僕には、僕にでも取れる選択肢がいくらでも用意されていたはずだった。しかも依然、今もそれはあるのだ。いくらでも助けを求められる。けれどそうしない。そうしないのは結局単に僕の小さなプライドを守るためなのだ。一人ぼっち、休み時間にずっと寝たふりをするような学校生活になってしまったのも、今こうして寂しくて、つらくて、苦しいのも、全て自分のせいだ。僕自身が招いたことで、僕自身の責任なのだ。


 誰かに助けてもらえる人になるには、誰かを助けられる自分にならなければならない。


 誰も助けてはくれない。主体的に動かなければ、世界は自分に応えてはくれない。


 大人にならなければならない。


 鼻に伝う雫と、鼻水とをティッシュで拭う。毛布を頭まで被り、絶えず襲う痛みに、ただひたすらに耐え続ける。


*


 再び起きたときも、ずいぶん妙な夢を見たことは覚えていて、しかし夢の内容はおぼげになってしまってまるで思い出せなかった。


 鎮痛剤を飲んで、痛みがある程度楽になるとはいえ、全身のだるさと悪寒とが良くなるわけではない。ただでさえ、自分の意思に関係なく気分が落ち込んでしまう、そんな日なのに、そのうえ風邪も重なるなんて。


 なんとか寝室を後にし、体を引きずるようにしてキッチンにたどり着く。冷蔵庫から昨日の残りの冷やご飯を取り出してレンジに入れ、それが温まるまでシンク下の収納扉に凭れてぼんやり中空に視線を漂わせる。


*


 インスタントのお茶漬けと味噌汁とを胃に入れると、ずいぶん気分もマシになってきて、食べ終わってそのまま床に置いていた食器を手に取って立ち上がった。


 シンクにそれを置こうとしたとき、ふいに蛇口に映った細長い自分の顔が、まるで(男だった頃の僕が常に思い描いていたような)女とは思えないぐらいのどんよりした顔色をしていて、何となく可笑しくなって、思わず声を立てて笑ってしまった。


 性別が変わってすぐの頃は、割と無邪気にはしゃいでいたことを思い出した。鏡に映る自分の姿を見て驚いたこともあったし、自分の考える理想の美少女になるために、いろいろと工夫を凝らしたりもした。可愛らしく見える仕草の練習もした。


 それらももう、ずいぶんと昔のことのように思える。


 洗剤をスポンジにつけ、食器を手早く洗っていく。


 ずっと蓋をして、考えないようにしていたことがあった。どうしてこんなにつらくて苦しいのか? いつからこうなってしまったんだっけ? 結局のところ、何が原因でこんな生活になってしまったのか?


 そう、要するに、こんな風につらく苦しい状況がいつから始まったのだったか、つまりそれは、あの朝、僕の性別が変わってしまった、その日から始まったのではないかということだった。


 食器をすすぎ終えて、排水溝に泡が流れていく様をじっと見送っていると、ふいにドアホンが鳴った。


 モニターを見ると、マンションのエントランスが映っていて、そこに制服姿の少女が立っていた。川瀬さんだった。


 思わず息を詰めてしまう。通話のボタンに指を伸ばし、触れようとし、触れる直前で指先が止まった。


 固唾を飲む。


 出たい。出たくない。


 どうする。どうすればいい?


 どうして彼女がここにいるのだろう?


 疑問が脳裏をよぎるものの、理由、それ自体は明白だった。きっと彼女は親切にも、今日の授業のノートなり、課題なりを持ってきてくれたのだろう。


 だが――動機は? そもそも、課題を持ってきてくれるなんて、小学生ならあり得るかもしれないが、今、僕らは高校生だ。別段、机に無造作に置かれ、それを翌日に回収する、それでよいはずだったし、現に僕が男だった頃はそんな感覚だったはずだ。ちょうど、今日言い渡されて、明日が期日、などのようなことでもない限り、こんなことは……。


 脳裏であらゆる可能性が勘案され始め、しかし僕の指は動かないままだった。川瀬さんは落ち着かな気にカメラを見たり、視線を落としたり、不安そうに周囲を伺い、居心地が悪そうにもじもじと体を動かし始める。


*


 やがて川瀬さんはほっとしたように息を吐き、一方で少し肩を落としたような格好でカメラの前から姿を消した。しばらくの間、モニターには誰もいないエントランスだけが映り、そのままじっと注視していると、画面の隅から再び川瀬さんが現れ、そののち正面の自動ドアから出ていった。


 どこか高揚していたような胸中が、急に冷えていった。


 これでよかったのだ。


 これでよかった。これで良いのだ。


 いつの間にか、僕の視線は床面のフローリングに注がれていた。つや掛かった表面には、項垂れた少女の影だけがぼんやり映り込んでいた。

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