球技大会

 ボールが――。


 「ひっ……」


 びくりと身を縮めてしまう。


 後ろでボールが跳ねる音。それから誰かが背後を横切り、次いでドリブルの音が始まる。幾人かが砂利を踏みしめ走り出す音が聞こえる。


 立ちすくんだ足に再び力を込めるのは難しくて、足先が縺れそうになってしまう。嫌な跳ね方をした動悸につられ、全身に変な緊張が走っていた。胸元に湧き上がるソワソワした感覚がなかなか離れない。走り続けなければならない。僕が取りこぼしたボールは、チームメイトの水元さんが拾ったようだった。今、水元さんは敵陣ゴールに向けてボールを放った。ボールはちょうどリングに跳ね返り、背の高い女子がそれをキャッチした。青色のハーフパンツ――三年生。相手チーム。


 すぐに、周囲は踵を返して走り出した。ハンドボールを投げるような美しいフォームで、後方に向けて大きくボールが放たれる。チームメイトも相手チームも皆、脇目を振らず後方に駆けていく。僕もそれに続く。チームメイトが大きく跳ねてボールをカットした。再び全員が前方に向けて走り出した。僕も続く。


 全身を包む忙しない感覚が消えない。嫌な汗が額を伝う。いつまで走り続ければ良いのだろう? チラと横目で、コート外のパネルを見る。あと七分。秒針がのろのろと明滅している。再び後方にボールが投げられた。皆が踵を返す。僕も従う。――衝撃。地面がぐらりと傾いだかと思うと、頬に砂利の感触があった。


 「ごめっ」


 ぶつかったのはチームメイトの新庄さんだった。「うん、だ、大丈夫」僕が答えるのを待たず、軽く手で謝意を示すのもそこそこに、彼女はボールを追って走り出した。三年生の恐ろしい突撃に、水元さんが鮮やかにカットしたボールが、今ちょうど新庄さんに繋がれる。再び敵陣へと走り出す面々。腕を地面に立て、僕は身を起こした。足を踏みしめて立ち上がる。背中に嫌な汗が噴き出す。生唾を飲み込む。戻してしまいそうだ。僕は今、何をしているのだろう?


 足が動かない。


 顔を上げられない。ワ、と周囲から声が上がり、次いで笛の音。新庄さんが単身敵陣に突撃し、シュートを決めたのだ。束の間、周囲の駆け足が緩まった。足の感覚がない。感覚がないのに、皆が自陣へと下がっていくのに合わせて、なぜだか僕もヨロヨロと後ろへ下がっていた。周囲の音が遠のいていく。再び短く笛の音が響く。皆走り出す。僕も走っていた。


 助けて。


 *


 水元さんが再びシュートを決めるのを、僕は遠くから見ていた。足の感覚も、全身の感覚もなく、小さく体育座りをしながら、直射日光がジリジリと肌を焦がしているのにもかかわらず、僕はただ寒さに震えていた。


 涙は収まっていた。頬の丁度涙が乾いた辺りにはパリパリとした感触があって、砂まじりの風が汗ばんだ肌にチクチクと吹き付け続けていた。僕が抜けた穴は、クラスメイトの杉光さんが補ってくれた。僕がいたときよりも、明らかにチームの動きは良くなっている。ただ走るだけだった僕が抜けたのだから、至極当然だった。


 膝を強く抱きしめ、腕の中に頭を潜らせる。日差しが斜めに砂利の上に掛かっていて、キラキラと輝いていた。目を閉じる。周囲の応援の声が遠くに聞こえ、忙しないような感覚があった全身も、次第に落ち着いてくるようだった。今はただ一人になりたかった。後で聞いたところによると、僕のチームは優勝したらしかった。


*


 教室に戻るのは基本的に禁止されているので、昼食を終えて午後になってからも、生徒は皆校庭と体育館とに分かれて応援に出払っていた。午後はバレーボールとバスケのBトーナメントで、Aトーナメントに出ていた僕は午後は丸々フリーだった。


 校庭の隅には小さな木立ちがあって、その手前の木陰に座り、遠くのバスケの試合を眺めることにした。今やっている準決勝に川瀬さんが出ていて、彼女も僕と同じように、ボールを触るでもなく、ただ何となく皆の動きに合わせてコートを前後していた。どこかワタワタとしていて、傍から見るとどうにも滑稽に映る。ボールの動きをまるで追えていない。本当にただなんとなく居るだけになっている。


 僕を見ているようだ。


 男だった頃、やはり体育でバスケットボールの授業があって、どう動いたら良いかわからないまま立ちすくんでいたことを思い出す。いつだったか、走れ、と叱咤されたので走るようにしたが、走るようにしたところで結局居るだけなのはあの頃も何も変わらなかった。今も変わらない。


 ――あっ。


 声が出そうになる。鋭く放たれたパスが、ちょうど川瀬さんの頭に勢いよくぶつかった。どさり、と音がしそうな勢いで地面に倒れる。


 試合が止まる。近くにいたクラスメイトの一人が川瀬さんに駆け寄った。


 我知らず、僕は息を詰めていた。


 ほどなく、川瀬さんはヨロヨロと立ち上がった。俯いていて表情はよく伺えない。隣に駆け寄ったクラスメイトが何か話しかけている。僅かの後に川瀬さんは首を振り、コートから出た。残された両チームと審判が話し合い、幾らかの後に試合は再開される。


 コートの中は再び忙しなくなった。


 川瀬さんはうつむいたまま、なぜかこちらに向かって歩いてきていた。前髪で表情が見えないぐらいに顔を伏せ、ぐっと唇を引き結んでいる。どうやら僕には気づいていないようだった。


 思わず、僕は木立ちの木のうち一つの裏に隠れてしまう。しばらくして木陰に辿り着いた川瀬さんは、糸が切れたようにその場に頽れる。


*


 風が吹き、梢を涼やかにザワザワと揺らす。


 幹に背を預けたその背後で、息を殺した嗚咽と、鼻をすする音だけがしばらく続いていた。

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