おいしい?
何がしたいのか分からない。志がない。
志望校なんて無かった。だからまともに勉強もしなかった。
将来は自分が決めるものだと親に言われた。それにしては障害が多すぎた。
大学1年生はぼっち安定。もはやそれでいいと思っていた。アイデンティティの一種だと思っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
1年生の初めの頃だった。友達も作ろうとしないまま、私は大学から独りで帰る。その途中、近くの商店街に寄った。軽い逃避だった。下宿してきたばかりなのでここらの土地勘もなく、うどん屋、服屋、八百屋、揚げ物屋・・・と、並ぶ商店と客を見ながら、目的も無いまま歩いていた。
そんなとき、突然、私の目に映った店があった。それは右手には大手チェーンスーパー、左手には大手ハンバーガーショップに挟まれた、小さくて窮屈そうな洋食店だった。私はその風貌に妙なシンパシーを感じ、引き込まれるようにその洋食店に入った。からんからんとドアの音が鳴る。中は至って地味で、木製のテーブルが2つ、カウンター席が6席の、年季の入った店だった。また、マスターが一人で営んでいる様子で、私の他に少数の客がいた。私は一番奥のカウンター席に座る。
黄昏時だったので、夕食としてオムライスを頼んだ。それは思いのほか絶品で、内心とても感動した。こんなにうまい店がここにあってはいけない、と感じた一方で、有名になってほしくないとも思った。カタカタとスプーンがすすむ。
「おいしい?」
突然、静寂の洋食店で声が聞こえた。しかもそれは私に向けて言ったのだと直感的に分かった。オムライスから顔を上げる。すると、キッチンでグラスを拭いているマスターがこちらを見ていた。マスターは、見たところ五〇歳ほどで、一丁前な口ひげを生やして、気品のある、しかし温和にも感じる笑顔をしていた。私は苦笑いで誤魔化す。
「は、はい・・・」
「・・・よかったぁ」
マスターは何も無かったかのように皿洗いを始めた。
普通の飲食店ではまず見ない、奇妙な瞬間だった。
▽
後日、私はカレーを食べようと再び洋食店を訪れた。他の客が食べていたカレーがとても美味しそうで気になっていたのだ。
ドアがからんからんと音を鳴らす。
私は今日も一番奥のカウンター席に座っていた。カタカタとスプーンを進める。
「おいしい?」
以前と同じ、マスターの声だ。
私はぴくっと体が動く。これは毎回聞かれるのか、とやや億劫に感じたが、そのときのマスターの何もかもを包み込む穏やかな笑顔がそれを打ち消す。カレーから顔を上げる。
「はい」
▽
それからは週2回ペースであの洋食店に行っていた。普段は外食ができるほどお金が無かったが、私はわざわざ貯蓄して、あの洋食店に赴いた。もちろん常連で、マスターに「また来てね」と言われるようになった。そんなマスターのやんわりとした気質と、店内の質素な感じ、そしてあのどこか懐かしい、しかし他の店では食えないような、確立された味が忘れられなかった。
「おいしい?」
私が訪れる度に同じ質問が飛んできた。また、他の客にも質問していた。さすがに慣れてくると流すように応えることが出来たが、もともとコミュニケーションが下手くそな私は「はい」と応えるか、頷くだけだった。それでもマスターはいつも笑って返事をしてくれた。端から見れば微妙な関係性だっただろうが、私はそれがとても好きだった。
▽
流すようにテストを受けた前期の終わり、私は慣れた拍子で商店街へ赴き、洋食店へと向かっていた。ハンバーグを食べようか、カレーを食べようか悩んでいた。しかし、洋食店にはシャッターが下ろされていて、今日は営業していなかった。私が通い始めてから閉店は今日が初めてだった。とても驚き、完全にハンバーグを食べる口になっていたので残念に思った矢先、シャッターに張られた紙に目が移った。
「体調不良で倒れたため、長らく営業を休止します。なるべく早い営業再開を予定しております。申し訳ありませんが、何卒ご理解のほどよろしくお願いいたします」
確かに、ほぼ年中無休で働いていたのだ。無理も無い。私は沢山休んでもらいたいと思うと共に、今までの感謝をした。すると、後ろで友達らしい二人が洋食店の閉店に嘆いているのが耳に入った。
「うわっ、しまってるぞ」
「俺のオムライスがぁ」
「体調不良だってさ、毎日働いてたからな、何も父を真似ることないのにな。」
「マスターの父は頑丈だったからな・・・」
「腸閉塞だっけ?」
「うん、マスターすげぇよ」
「間違いないな、それでも毎日営業するなんて、ここはやっぱり人情ある隠れた名店だよ、また来よう」
「早く元気になってくれー」
二人は腑抜けた様子で去って行く。
私は呆然と立ち尽くしていた。
コードが絡まるようにぐしゃぐしゃな違和感が湧き出る。かと思うとそれは瞬く間に解かれていく。
腸閉塞について私は知っていた。大学で扱ったのだ。たしかあれはその名の通り、腸が塞がってしまい、栄養をうまく摂取できず、激しい痛みも伴う病気だったはずだ。そして、悪化すれば食事制限。そして栄養失調で倒れる。
「おいしい?」
いつも決まって尋ねてきたマスターの声、笑顔が脳裏によみがえる。
あれはただ単に料理をしたときに尋ねる文言では無かったのだ。
マスターは、流動物以外の料理を食べられずして、私たちの料理を作っていたのだ。
私たちが当たり前のように食べているものを食べられない。それなのに料理を作らなければ生計がたたない。マスターが洋食店を始めたのは、父を引き継ぐためであり、洋食が好きであるからだろう。
また、病的に食欲が無くなったり、食事制限を与えられたことがある人ならば理解できるはずだろうが、日常から食事を奪われるだけで日々のQOLは恐ろしいほど下がる。私も心が参っていたとき、ほとんど食事をとれなかったが、それだけで、まるで生きている心地がしなかった。
これはとても残酷なことなのではないか。
――思い出す。
私が初めてオムライスを食べたときの、「おいしい?」
カレーを食べたときの「おいしい?」
どれも私の返事は無愛想で、本当に美味しいのかすら分からないほどだったかもしれない。あの奇妙な瞬間を、私はおざなりにして流し、その真意も知ろうとしないままこの時を過ごしてきた。
マスターがいつも「おいしい?」と聞いてしまう真意。
私はシャッターの前で己の、今までの行為の愚劣さを恥じらい、涙が止まらなかった。
それからは大学が終わるたびに遠回りをしてあの洋食店が開いていないか確かめた。ずっと謝りたかった。しかしこれは自分の中の話であって、いきなりマスターに謝るのはおかしいとも思っていた。そんな中、私の気持ちは固まっていった。私がマスターにできることはないか、その自分なりの答えを見つけたのだった。
3ヶ月後、洋食店は開いていた。私はそれを目視した途端、目を疑ったが、確かに開いていることをもう一度確認すると、全力で走った。はぁ、はぁ、と息が漏れる。
がしゃんごろんとドアが鳴る。
私はカウンター前で呼吸を整えるように軽く前屈になりながらマスターをみた。
客、そしてマスターが、なんだなんだと言わんばかりに驚いた形相でこちらを見ていた。
私はそんなことは蚊帳の外で、ただそのときマスターがいた、それだけで暗がりの世界が晴れるような安堵に包まれた。
「あの!」
マスターが不思議そうな顔でこちらを見ているが、私にとっては関係無い。息は絶え絶え、言葉はちぐはぐだったが、ずっと溜めていた気持ちが、爆発する。
「ここで、迷惑なら、断っていいので、料理を、手伝わせて、もらえませんか?!」
ココロユレル @Shiba_Ryunosuke
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