06 灰
怪異への対処にマニュアルなど無い。
強烈な個を持つ怪異。それぞれの本性は大きく異なるのだ。
習性から逃れる必要がある。特性を見定める必要がある。
そして、自分が感染しないことを祈れ。自我を奪われないことを祈れ。
リュデットは肘から先の無くなった右腕を振り乱し血液をまき散らしている。そして今度は左腕を眼孔に打ち込んでいる。
真紅の雨が降り、その全身を漆黒の瞳を濡らしていく。
「ああああああああ、く、い、ぐ、いいいい、いたいいたいいたいいたい」
不気味に煌めく旧文明遺跡の壁面。そこにリュデットは頭部を打ち付け、ぬめりとした赤に染めていく。
「いいいぎぎぎいいいい、が、あ、ほしい……」
ノイズのように濁る声。この世ならざるものの悲嘆の響き。
漆黒はもはや眼孔には収まってはいない。
無数の牙が乱雑に踊り、周囲の肉体を削り、漆黒が広がる。
もとの口の上に斜めに
両腕は無くなり、血の噴出口と化し、顔の半分は漆黒に飲まれた。
もうリュデットではなく怪異と呼ぶべきだろう。
天気屋は私と怪異の間にじっと立つ。仮面の先は怪異を向いたまま
「天気屋! 何をすればいい!」
「何もしないでください。理解できそうな気がします」
理解ってなに? 怪異の性質を見抜けるということだろうか?
疑問は絶えないが、天気屋に従うのが最善だろう。帝国内で天気屋ほど怪異と対峙した経験のある人間は数えられるほどしかいないはずだ。
怪異はリュデットの肉体を震わせる。
「るううううぐうううおおおおああああああ、いたいいたいいたいいたいいいい、いぎぎいいいい、ぐ、お、うお、ほしい……」
怪異の三つの口から同じ言葉がもれる。ひどく不快な雑音が重なっている。なぜだろう、深い悲しみを感じる。
不思議な光沢を放っていた遺跡の壁面には血液が、肉片がこびりついている。怪異は頭を打ち付けていた壁から跳ね返るように崩れ落ちる。
三つの口がそのまま自らの膝に喰らい付く。漆黒の物質だけではない、リュデットのもとの口もだ。
「ぐぶぶぐぐぐぐぐ、ぐいたいいたいいたいいたい」
脚には金属が仕込まれていた。もとの口の歯は砕け、内外から血が溢れる。嗚咽と共に食した自分を吐き出していく。
真紅染まるもとの口。対照的に漆黒の口はいくら血を浴びても染まらない。
漆黒が脈打ち、膨らむ。そして弾ける。
墨をぶちまけたように周囲に張り付き、喰らう、削る、飲み込む。
散った漆黒は震え、揺らぎ、
天気屋は動かない。
「いいいいいいいいぬううううう、くうううううう、ああああああ、そおおおそおらううううるるえ、ほしい……」
もうリュデットの輪郭も残っていない。
怪異は喰らい、自らも喰らい、血に染まり、染まれない。
漆黒は膨らみ、胴も破り、内臓が溢れ同時に
天気屋は動かない。
リュデットであった部分は失われていく。ただ失われる。
漆黒は混ざらない。赤に染まらない。
「ああああああああ、いいいいいたいいたいいたいいたい、……い、いたい、いたい、……こ……こ……に――」
震える金属の擦れるような音。不快な、受け入れがたい、耳を塞ぎたくなるような、欲の、飢えの、苦しみの、悲しみの、詩。
リュデットは無くなってしまった。
膨らんだ漆黒の塊が震える。恐怖に怯えるように。嗚咽を漏らすように。雨に濡れた捨て犬のように……。
そして、漆黒は爆ぜた。熟れ過ぎた果実はその身を保てない。
天気屋が動く。
編まれた術式から突風が巻き起こり、爆ぜた漆黒は全て私たちの反対側に舞う。
あまりの強風に私はバランスを崩し膝をつく。
漆黒の欠片は遺跡の壁に床に牙を立て、削り、落ちる。震える。動かなくなる。
それ自体がノイズのように揺らぎ、灰色になる。灰になる。
気配もない。力も感じない。ただ風に煽られ灰が舞い飛ぶ。
血に塗れ、削られ、死の臭いを残した遺跡を灰が舞い飛ぶ。
静寂が訪れる。
私はゆっくりと立ち上がり、天気屋に近づいていく。
天気屋も振り返り、私に顔を向けるが、近づく私を止めはしない。
終わったということだろう。
私は天気屋に近づくと、天気屋の
「仮面を外さないでも怪異が現れるなんて聞いてないわよ!」
「いえ、僕も驚いているんですよ。本来はありえないことで……。すみません」
天気屋の声は痛みに震えている。
私はさらに天気屋の手の甲を杖で打ち据える。
「私のことを餌にしたわね!」
「はい、すみません」
天気屋の腹を蹴り飛ばす。天気屋は避けずに衝撃で尻餅をつく。
「レイを連れてきたのも油断させるための餌ね!」
「はい、すみません」
私は怒りに震える。
だから、こんな奴は信用できないんだ。人を人と思っていないんだ。
天気屋は立ち上がり、複雑に口元を動かすが、明確な表情は作れない。
「全て僕の浅慮が招いたことです。申し訳ありません。だから、――泣かないでください」
私はいつから泣いていたのだろう。涙がとめどなく溢れてくる。それは恐れからなのか、同情からなのか、悲しみからなのか。自分でもわからない。
涙で歪む顔なんて他人に見せたくない。
私は天気屋から顔を
歪む視界、しかし違和感は消えている。顔に掛けられた術式もいつの間にか消えていたのだろう。
平常心を取り戻すため、呼吸を整える。
再び訪れる沈黙。私の震える呼吸の音だけが静かに響く。天気屋は言葉を発さず私を待っている。
「結局あの怪異は何だったの?」
いくら異質で根源的恐怖を誘われようと、怪異とは向き合わねばならない。神話遺跡に挑むとなれば、避けることはできないのだから。
「そうですね。あの怪異はリュデットさんに非常に似通っていました」
私の質問に天気屋は感情なく答える。
「どういう意味で?」
「本質的にです。欲し、求める。覗き込むもの同士の不幸な一致が現出を招いたのです。見るだけで寄生などというのは本当に
怪異の意思。あるのだろうか?
確かに現象というには不適正な執念じみたものを感じる。
「怪異に目的なんてあるの?」
狂った怪物にしか見えない。今日も、以前見たものも。
だが、きっと私には見えない何かがあるのだろう。
「目的はあります。実現する
天気屋が饒舌になる。私への助言なのだろう。
軽快に動く天気屋の口元。それを見る私は天気屋の言葉を理性と感情で別々に処理する。受け入れつつも受け入れがたい。認めつつも認めたくない。
理性が受け入れ、感情が拒む。同時に、感情が受け入れ、理性が拒む。恐怖か、忌避感か。
「まるで怪異の専門家ね」
天気屋に私は皮肉を言う。処理しきれない心は何かに代償を求める。爪を突き立て緊張を緩める。
「そうですね……。きっと、そうなのでしょう。僕の記憶は神話遺跡の内部から始まっていますから……。何にせよ、今回の怪異が大したものではなかったのは不幸中の幸いです」
神話遺跡はすべからく怪異に侵されている。天気屋はその記憶の初めから、文字通り怪異と共にある。怪異に関する感覚はきっと天気屋の方が正しいのだろう。
でも、そこじゃない! 天気屋の感覚は狂っている!
「大したことないって……、リュデットの魂が失われているのよ!」
リュデットは消滅してしまった。魂も、遺品も、何も、残さずに。
「彼女はその罰に値する罪を犯していました」
魂が失われる重大さは、それが見えない天気屋には分らないのかもしれない。死とは意味合いが違うのだ。
魂の見えない人間にそれを分かれというのは酷なことなのかもしれない。
けれど――。
「簡単に言うわね! 私たちに裁く権利なんて無いわ!」
「はい。ですが、神ならぬ我々にはどうにかすることはできません」
私たちどちらの言葉も誠実とは言い難い。私は分かっていて天気屋を責めているし、天気屋は自身の性質を現象であるかのように語っている。
天気屋は抑揚をつけず、言葉を続ける。
「アンヘルくんはいつの日か神話遺跡に挑むのでしたら、怪異を理解しなくてはいけません。そして、共感せず、
そんなことは分かっている。分かっているのだ。
矛盾を孕んだ内心を一旦抑え、私は冷静さを取り戻す。
怪異のこと以外にも聞かなければならないことがある。
「今回の件、リュデットが犯人だって目星がついてたの?」
私は腕を組み、つま先でコツコツと床を鳴らす。
「いえ、セルカを出た時点では罠にはめて遺物を奪うハイエナ冒険者の方が可能性は高いと思っていました。個人での犯行は難しいと思っていましたので」
天気屋は芝居がかった仕草で首を横に振る。
「どちらにせよ、セルカの冒険者ギルドでの振る舞いは犯人を油断させて、私たちを襲いやすくするためね」
理にかなわない行動は犯人を誘導するため。そのためにレイも連れてくるし、私の骸骨隊も見咎められないように控えさせた。
危険度が高くなるが、天気屋は自分の実力で対処できると思ったのだろう。
「はい、そうです。このような展開になるとは想像もしていませんでしたが……」
自分の本当の実力がどの程度なのか、自分で記憶していないくせに。長剣だって何となくで使ってるくせに。
その長剣すら私の杖術の力量に大きく上回っていることがムカつく。考えれば考えるほど天気屋の行動に腹が立つ。
レイの生命にも危険が及んだというのに。
「相手の力量も正確に分かっていないのに危険な真似をして……。この貸しは高くつくわよ」
私が睨みつけると、天気屋はいつのように口元を緩やかな弧の形の笑みを浮かべ、大仰に頷いた。反省しているのか、いないのか、その表情からは読み取れない。
もう話し方に私を気遣う
「さて、リュデットさんが冒険者たちから奪っていた旧文明の遺物を回収しなくてはいけませんね」
私は天気屋の発言を聞き、鼻で笑う。
一旦天気屋を放置して、ラティーニョに合流した他の骸骨たちと共にミルたちの遺体を回収するように命じる。
それから、ふうと息を吐くと、無駄に勿体つけてから天気屋に指摘する。
「あら、怪異博士は邪神には詳しくないのかしら。欲と歪みの女神は信徒に収集物を保管する空間を授ける。その空間にあるものは生きている間は信徒のもので他者に奪われることはなく、死後は女神に回収されるわ」
天気屋は笑みの形のままゆっくりと口を開けていき、固まる。間抜けな表情だ。
「それがクソ殿下の今回の目的だったわけね。ざまあないわね。怪異が現出した今日のことは忘れないのでしょう? 一つ賢くなれたわね」
天気屋はふうとため息をつき足元を見る。そしていつものように真っすぐな姿勢で、いつものように口元を弧を描く笑みの形にし、私の方に向き直る。
「ええ、そうですね。服を仕立て直さなくてはいけないことも、忘れずに済みそうです」
そう言うと天気屋は私に背を向け歩いていき、白い床に横たわるレイをそっと抱え上げた。
冒険者全滅調査委員会 赤見鮭児 @akajakesan02
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。冒険者全滅調査委員会の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます