だけどな、飼い犬は手を噛むんだ
俺たちはわざと八重洲の繁華街から背を向け、大手町方面に歩みを進めた。
あまりに職場に近すぎると、上司の飲み会に巻き込まれる可能性があるからだ。
「暑いですね。」「7月だからな。」なんて言葉をポツポツと発しつつ、俺たちは東京駅の高架下をほぼ無言で歩き、駅舎を背中に、有楽町方面に向かった。会社から出て20分ほどたったころ、ようやく俺は一軒の小料理屋の前で足を止めた。くたびれた暖簾の奥から、甘辛いタレを焦がしたような香りがして、空腹を刺激した。
「焼き鳥好きか?」
「なんでもいいです。」
俺の言葉に、関心が無さそうな声で笹野葉が言った。
場末という表現が似合う、寂れた居酒屋であった。
金曜日の夜だというのに、席はポツポツと空いている。俺たちは堂々と4人掛けのテーブルに腰かけると、手を上げて店員を呼んだ。
「生ビール一つ。あと……なんだ、烏龍茶か?」
笹野葉を横目で見やると、彼女は首をブンブンと横に振り、店員に向かって指を2本立てた。
「私も生です、生2つお願いします。」
「了解しました」と言って店員が去っていく。
俺は怪訝な顔で目の前に座る彼女を見つめた。
「笹野葉さん、お酒飲めないんじゃないの?」
「お酒は好きです。ただ、嫌いな人の前で飲まないだけです。」
笹野葉は目線を下に向け、ぶっきらぼうにそう言った。
「そうか」と言うと、俺は思わず息をついた。それはつまり、少なくとも、俺は嫌われてはいないということだ。
ほどなくして生ビールが2つ届いた。「お疲れ」と言ってグラスを差し出すと、彼女も「お疲れ様です」と小声で言ってグラスを合わせた。
その後、適当なつまみと焼き鳥の盛り合わせを注文する。
俺たちは終始無言でビールを飲み、お通しのキャベツをちびちびとつまんでいた。少々の気まずさを感じた俺は、何を話せばいいのだろうかと頭をフル回転させていたが、意外にも、先に話し出したのは彼女の方だった。
「先輩、入社何年目ですか?」
「俺、ああ。4年目だ。26歳。」
「ふうん、寮生活ですか。」
「ん、ああ。家は北千住だよ。既婚者だから、独身寮には入れないんだ。」
笹野葉の箸の動きがピタリと止まった。
驚いたように目を見開き、俺の顔を見つめた。
「結婚してるんですか、先輩。」
「ん、ああ。2年前にな。子供はいないが。」
「……相手は?」
「札幌支店にいる。社内婚だから。」
「ふうん」と言って、彼女は目線を左に逸らした。
丁度注文した焼鳥が運ばれてきたからだ。
「笹野葉さんは、どうなんだ。」
「何がですか?」
少々思い切った質問だとは分かっていたが、どうしても気になっていたことだ。俺は意を決して聞いた。
「彼氏いるの?」
笹野葉は焼鳥の場所を開けようと、机の小皿を隅によせていた。こちらの方を見ることも無く、あっさりと答えた。
「いますよ。」
「あー、そうなんだ。どこの人?」
「大学の同級生です。今は都内の保険会社にいます。」
「そうなのか」と相槌を打ちつつ、俺はビールをゴクリと喉元に流し込んだ。
これは驚いた。こんな腐ったような性格の女子にも彼氏ができるのか。
まあ実際、顔面だけで言うなら笹野葉はレベルは高い。そう思って無理に自分を納得させた。
焼鳥が来たのが幸か不幸か、その後、俺たちは食事に夢中になり、しばらく会話が途切れてしまった。
そうしている間にも、笹野葉は生ビールを3杯平らげた。俺と全く同じペースで驚いた。
そして、さすがの俺もビールの味に飽きて来た。向かいの笹野葉の了承を取ったうえで、店員に日本酒2合とお猪口を2つ頼む。
……そろそろか。
お店に入ってから1時間が経過していた。本来話したかった本題に進むべく、俺はおもむろに切り出した。
「笹野葉さん。」
「……先輩。」
改まったように言う俺に対して何かを感じたのか、笹野葉が言葉を遮った。
「その話を始める前に、いいですか。」
「……なんだ?」
「私の事は、ササって呼んでって、初日に言いましたよね。」
「分かった、笹
彼女はキッとこちらを睨みつけた。
唇を尖らし、次いで「違います!」と一言いった。
「ごめん、あの、ササ。」
「ええ、何ですか。」
ようやく納得したように頷くと、ササはビールをグッと飲み干した。
トンとグラスを机に置くと、人形のような丸い瞳で俺の顔をジッと見つめた。よく見ると、お酒のせいで頬がほんのり赤くなっている。
「開発業務課に来てから一週間経ったが、どうだ。」
「どうだ」という一言に、色んな意味を込めている。
荒井課長によるパワハラ、桧村チームリーダーの無能っぷり、くだらない社内文化、そして……俺による投資データの改ざんだ。
ササも俺の言わんとしている事を十分に理解していた。
答える代わりに、ふーっと大きく息をつく。
その間に、注文した日本酒が運ばれてきた。
ササは慣れた手つきで2人分のお猪口並々に酒を注ぐと、片方を手に取って、グッと喉に流し込んだ。
そうして、もう一度、ふーっと大きく息をついた。
奇妙なまでの沈黙が数秒間続いた後、ようやく彼女は口を開いた。
「最低です。」
「良かった、ちゃんと評価は最低だった!」
俺はほとんど自虐心で乾いた笑い声を上げた。
ササの顔は先ほどより赤くなっている気がする。もう一度、日本酒をグッと喉に押し込むと、堰を切ったように話し出した。
「何ですか! あの課長! 気持ち悪い!!!」
「ほんとだ! アイツは最低だ!」
「あとあのデブは何にも仕事してないです! 邪魔!」
「桧村さんだな! アイツは無能だ!」
「あと、あのぶりっ子女! ほんと腹立ちますっ!!」
「え、女? 誰だ?」
「佐倉舞子! あの人、ちょっと可愛いからってぶりっ子ぶってチヤホヤされて! ろくに仕事もしてない癖にオッサンの評価ばかり高くて!」
「え、佐倉さん、そうなの。」
「裏では女子の悪口流して、自分が気に入らない女締めだして! ここは学校じゃないんですよぉ!」
「お、おお。」
ササは完全にお酒が回り、饒舌になっている。今、溜まりに溜まっていたストレスをドバーッと吐き出しているようだ。まさか、そこに佐倉さんへの悪口が含まれているとは思わなかったが。
「それに、先輩!!!」
ササは握りしめた箸の先を俺に向けた。
「あんなクソ課長の言いなりになる必要ないですよ!!!」
吐き捨てるようにそう言うと、空になった自分のお猪口に日本酒をドクドクと注いだ。
良かった。俺は内心ほっとした。その程度で非難で済んでいるということは、投資データを改ざんしたのは、荒井課長の指示だったと理解してくれているみたいだ。
「善町の土地評価額をどうやって下げたか、分かったか、ササ。」
「路線価使ったんですよね、馬鹿にしないでください。」
ササは両肘を机につき、お猪口を口元に掲げて持った。
ジッと見つめるその瞳が、「嘘ついたら殺す」と言っている。
「……ご名答。さすがだな。」
俺は観念したように息をついた。
土地取引の経済性を算出する際、価格に関しては、2通りの方法から算出する。
一つは、実際に契約に基づいて決まる取引価格だ。しかし、これは地主とディールをする段階になるまでは明らかにならない。そのため、プロジェクト段階では、もう一つの方法を使うのが一般的だ。それは、「公示価格」を使う手法である。公示価格はお国が年に一回公表する価格で、不動産取引の指標となる。
今回の善町に関しては、公示価格が投資額1.2億であり、地主もそれに応じるとの報告を支店から受けていた。
しかし、俺は土地価格を路線価ベースに改ざんした。路線価は、主に税金の計算に使う指標で、主要な公道に面する宅地の1m辺りの評価額だ。こちらもお国が年に1度公表するが、目安として、公示価格の8割程度の価格になる。これが今回のポイントだ。
公示価格と路線価は、結果として出てくる評価額が違う。しかし、どちらも土地の価値を示す指標として正当なものである。これは決して嘘をつくことをせず、上手に数字を調整する手段なのだ。
今回、土地の価格を路線価ベースに改めた結果、投資額は9千8百万円となり、見事に常務決裁を回避できた。ついでにいうと、初期投資額が引き下がったため、IRRは脅威の11.3%を叩き出した。これには俺も笑ってしまった。ソフト〇ンクも驚きの優良投資案件である。
「先輩、これ、立派な不正ですよ。」
ササが前のめりになると、前髪がほどけて、毛量の多い髪の毛がファサと顔にかぶさった。
首をブンブンと振って髪をかき分けると、彼女はもう一度、俺の顔を見つめて言った。
「どうして先輩は、ここまでしてでも荒井課長の言いなりになるんですか。」
「ササ。」
「なんですか?」
「髪切れば?」
「は。」
ササがきょとんとした顔をした。
「ササはショートヘア―の方が似合うと思うよ、顔小さいし。」
「せ、先輩っ!」
ササがふざけるなとばかりに食い掛ってくる。
「くだらないこと言わないでください! セクハラですか! 荒井さんと一緒に訴えますよ!」
「あのなあ、ササ。」
ササの言葉を切った俺は、日本酒のお猪口を手にもち、上を向いてグッと喉に押し込んだ。
コトンと音を立ててお猪口を机に置いた後、眉間に皺をよせ、ササの小さな顔を見つめた。
「落ち着け。」
「こ、これが落ち着いてられますかっ!」
「俺を荒井さんと一緒にしないでくれよ。」
「あ、セ、セクハラに関しては冗談ですが。あの、これでいいんですか、先輩も不正に加担したんですよ。」
「そうだなあ。」
俺は大きく息を吸うと、胸元からスマホを取り出した。
2、3回操作のために指を動かすと、ササに向けて差し出した。ボイスレコーダーの機能だ。
『——調整しろ。——常務説明を回避できるように、土地価格を引き下げろ。』
「……先輩、これって。」
荒井と密室で話した会話が、不正の指示がしっかりと残っていた。録音を聞いたササが口をあんぐりと開けていた。
「今回の案件、どうして荒井が常務説明を避けて、内々で執行したかったのか、ずっと気になっていた。案件自体は、もともとそんなに悪いものじゃあないんだ。」
驚いている彼女をよそに、俺はそのまま机の下にかがみ込んだ。鞄の中から紙の資料を一枚引っ張り出し、ササに見えるように差し出した。
「今回の地主の名前、知ってるか。」
「『赤城新聞社』、でしたっけ。」
「その通りだ。そして、これがその役員のひとり。」
俺は資料の中の写真を指さした。
荒井と同じくらいの40代半ばだろうか。スポーツ刈りの男の写真である。
「この役員の名前は、佐々木というらしい。」
「……? それがどうかしたんですか。」
そう言いながらもササはこれでもかと前のめりになり、写真を見つめる。
よく見ると口元がつり上がっている。やはり、コイツは俺と気が合うようだ。
「荒井課長の大学時代の野球部の先輩だ。」
俺の言葉に、ササが顔を上げた。
「……それで?」
ササが期待した顔で俺を見つめている。
しかし、俺は顔をしかめて首を振った。
「今のところは、これしかわからない。」
「そうですか。」
ササはふっと息をついて椅子に深く腰掛けた。
「だけど、これは何か、怪しいよな。」
俺は右手で拳を作って、机の上に置いた。酒に酔っているせいで力の加減が分からない。ドンと思ったよりも大きな音が鳴り、隣の席の男性2人がチラリとこちらを向いた。
「ササ、今、俺は社内では飼い犬だと思われている。パワハラ課長の飼い犬だ。」
「誰がどう見ても、そう思います。忠犬ハチ公だと。」
「だけどな、飼い犬は手を噛むんだ。」
俺は左手でお猪口に残った酒をグッと飲み干す。一呼吸置いた後、言った。
「本当は、飼い主の腕を噛みちぎる、恐ろしい狂犬だよ。」
ひひひと、自分でも驚くくらいの引きつった笑い声が出た。
「荒井を叩き潰してやる。不正を暴いて、俺を舐め腐っていたことを、後悔させてやる!」
誰に向けた決意という訳では無かったが、大きな声でそう叫び、店中の視線が一瞬俺に集まった。
幸い、会社関係者はササの他にはいないようだ。
ピタっと、俺の右手に暖かいモノが触れた。
目を向けると、ササが自分の左手を俺の手に重ねたのだと分かった。
ササの方に目を向ける。
目が合った。すっかり出来上がっており、顔はリンゴの様に真っ赤だ。
しかし、ニッと白い歯を見せて、こちらに向かって笑いかけていた。
ササは開発業務課に来て以来、ずっとムスッとした表情をしていた。だから今、彼女の笑顔を初めて見た。心臓の鼓動が、一瞬だけ奇妙にドクリと脈打った。
ササは俺の右手を包む手に力を込めた。
瞳を逸らすことなく、ハッキリとした声で言った。
「先輩、その話、私、乗りました。」
今思えば、この日から、俺と彼女の距離は、急速に近づき出したのだと思う。
パワハラのススメ @pocket1818
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