彼が何を頑張っているのかは分からないし、分かろうという気もしていない



 俺と荒井は同時に会議室を出て、お互いに不気味なほどに一言も発せず、座席についた。

 何事も無かったかの様にPCのスリープモードを解除し、作業の続きに取り組み始める。


 そのままお昼の時間が過ぎて、時刻は午後3時。常務プレゼンの一時間前になって、荒井がPCの影から顔を出した。


「ナキャーマ。」

「はい。」

「駿河湾サービスエリアの実績サマリーできてんのか、あと、この前頼んだ予算資料の直し!」

「はい。」



 間髪入れずに、手元に用意していた紙を2枚を手にとり、荒井の席まで回り込んだ。

 まさか2つとも完成していると思わず、荒井は一瞬驚いた顔をしたが、「出来てんなら早くだせよ、ボケ」と言って、俺の手から資料を奪い取った。



「駿河湾の実績って、常務用の資料じゃないですよね。」

「知らん、今決まったんだろう。」



 笹野葉が怪訝な顔で尋ね、俺はぶっきらぼうに答えた。 

 一週間前に頼まれた資料だ。荒井が忘れていることを期待したが、念のため用意しておいてよかった。


 荒井はしばらく俺の資料に目を通した後、赤ペンでゴリゴリと資料に書き込み始めた。やがて顔を上げると、2枚の紙を俺に向かって投げつける。



「ここだけ直しとけ、常務プレゼンはこの2本で行くぞ。」

「はい。ありがとうございます。」


「2本……?」



 俺と荒井の会話を聞いて、勘のするどい笹野葉が、キーボードの上の手をピタリと止めた。



「善町、やらないんですか。常務プレゼンで。」



 右側から笹野葉の勘ぐったような目線を感じる。

 俺はPC画面から目線を逸らさずに、無言で首を振った。


 何かを察した笹野葉は、カチカチとマウスをせわしなく動かし始めた。

 社内の共有フォルダから善町の申請書を探しているようだ。やがて、数秒間の沈黙の後、ハッと息を飲む声が聞こえた。やっぱり、彼女は賢いから、すぐにばれてしまう。



「先輩、これって——」

「笹野葉さん。」



 何かを言いかけた笹野葉の声をさえぎった。

 首を右に向けると、ポケットからスマホを取り出し、「スマホを見ろ」と口の動きだけで伝えた。

 LINEでパチパチと文章を打ち込んだ。PCメールだと、万が一の時の検閲が怖いのだ。



『荒井さんが調整しろと言った。』

『誰にも言わないでくれ。』

『すまない。』



 連続して3つのメッセージを打ち込んだ。

 笹野葉はスマホの画面を見つめたまま数秒固まった後、眉をひそめて、思いっきりこちらを睨みつけた。


 笹野葉は頭が良い。だから、彼女に隠すことは難しいと最初から思っていた。逆に、彼女以外の開発業務課のメンバーは大したことないから、絶対にバレないとも思っていた。



「説明はナキャーマがしろ。桧村さんは来なくていいから。」



 額に脂汗を垂らしながら必死に常務プレゼンの資料を読み込んでいた桧村は、荒井の言葉を聞いて、がっくりとうなだれた。チームリーダーとして、そこは責任を持とうとしたのだろうが、明らかに戦力外と言われたようなものだ。



「いくぞ、ナキャーマ。」



 荒井がそう言うと、スーツのジャケットを羽織り、常務プレゼンに向けて席を立った。

 俺も用意した資料の束を小脇にたたみ、立ち上がる。

 

 右から笹野葉の視線を感じた。

 「すまない」と、もう一度、口の動きだけで伝えた。

 

 笹野葉は険しい表情のまま、正面のPCに再び向き合った。どうやら諦めて自らの仕事に戻ったらしい。


 彼女からのLINEの返信は、全く来なかった。





♢♢♢♢





 常務プレゼンは無事終わった。

 荒井の思惑どおり、駿河湾サービスエリアの実績に常務は大満足で、特にそれ以上の物言いは無かった。

 もっともこちらとしても、議論が紛糾しそうな議題を避けただけではあるが。



 「じゃあ、お疲れ様ぁ。」



 定時の鐘が鳴ると共に、荒井がジャケットを羽織って出て行った。今日は金曜日だ。お気に入りの取引先と、会社の経費で飲みにでもいくのだろう。


 俺は残りの仕事に取り組んでいた。


 大宮の善町に付きっ切りだったが、俺の本来の担当は東北・北海道だ。本来処理しなければならない投資の申請書が2、3件溜まっていた。さらに、笹野葉が先ほど仕上げてくれた請求書の承認もまだである。


 不思議なのは、隣に座っていた笹野葉が帰らないことだ。

 彼女は業務課に来て以来、毎日定時に帰っていた。それが6時を過ぎ、7時になっても、オフィスの机で何かをカタカタやっている。俺の認識では、今日頼んでいる作業は終わっているはずだ。



「笹野葉さん、今なんか仕事溜まってんの?」


 

 8時になり、オフィスの一斉消灯の時間が迫ってきた辺りで、俺はようやく彼女に向かって聞いた。



「いや、別に、何にもないです。」



 笹野葉はなぜか気まずそうに目を逸らした。

 既にオフィスには誰もいない、と思ったが、俺の左隣で桧村が「うーん」と呟きながら何かをやっている。彼が何を頑張っているのかは分からないし、分かろうという気もしていない。



「やることも無いなら、さっさと帰った方がいいぞ。時間は過ぎてる。」



 俺は腕時計を見せながら言った。一応、弊社の社員の残業制限は8時までだ。  もっとも、俺はここ数カ月8時までに帰れたことは無いけども。



「ええ。でも。」



 笹野葉の回答は要領を得なかった。

 モゴモゴと口ごもるように言うと、桧村の方を邪魔そうに見ていた。


 ははーん。何か言いたいことがあるんだな。

 ようやく彼女の内面を理解した俺は、おもむろに切り出した。



「メシでも行くか?」

「なっ……!」



 俺の誘いに、笹野葉は目を見開いて声を上げた。

 いや、自分から誘って欲しそうな態度を取っておいて、何でそんな驚いた表情をするんだろうか。



「あ、ごめん、嫌ならいいんだ。俺、帰るから。」

「あ、いや、あの。」



 俺が本当に帰ろうというそぶりをすると、案の定彼女は慌てふためいた。

 机の上のPCを唐突にパタンと閉じた。どうやらいつでも帰る準備ができていたらしい。



「あの、行きましょうか。……ありがとうございます。」



 上目遣いで彼女が言って、俺は思わず口角がつり上がった。なんだ、かわいいところあるじゃんか、コイツ。


 そうして、俺たちは何かを一生懸命やっている桧村に「お疲れ様した~」とあっさりと言い放つと、2人でオフィスを発った。時刻は8時20分だった。



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