IRRを0.2%上げることがどんなに大変か、現場の事が分かっていないから、そんなことが言えるのだろう
「笹野葉未来」が業務課にやってきてから、1週間が経った。
この時点で、分かったことがいくつかある。
まず、彼女の付き合いの悪さは筋金入りだ。
昼ご飯すらも一緒に食べなければ、無理に連れていかれた飲み会でも、酒は一滴も飲まない。そうして、必ず一次会で帰る。さらに、プライベートを会社に晒すことを過剰なまでに嫌がる。別の飲み会で、荒井課長が「業務課のLINEグループを作ろう」とほざき出したときは、この世の終わりかの様に不快そうな顔をして、俺に向かってQRコードを突き出してきたものだ。
それから、彼女の勤務態度も最悪だ。
どんなに周りが残業していても必ず定時に帰るし、朝は始業時間すれすれに出社する。周囲が鬼の様に忙しくても、どこ吹く風だ。不在着信を代わりに取ることも無ければ、上司への挨拶もろくにしない。敬語もあまり上手じゃないし、何より、彼女自身に職場に早く馴染もうという意欲が感じられない。……たった一年で前の部署から異動させられた意味が、少し理解できた。
しかし、勤務態度はともかく、彼女の仕事力に対しては、肯定的な評価をしなければならないだろう。
桧村を始めとした職場のジジイどもが扱えないEXCELを見事に使いこなす。当然の様にマクロを組んで作業を効率化していたことは驚いた。山の様に溜まっていた請求書の束も、すさまじいスピードでシステム入力し、次々と仕上げていく。承認する俺側のスピードが追いつかないほどだ。引き継がれた作業も手早くメモを取り、一度教えればすぐに理解してくれる。これは非常に心強かった。
笹野葉は職場には一切馴染んでいなかった。ただし、一週間で業務課の仕事には十分に馴染んでいた。
そのおかげなのかどうか、少しだけ業務の余裕が生まれた俺は、例の善町の件で、大宮支店とやり合うことになってしまった。もう一度言うが、俺は北海道・東北担当だ。大宮は担当外だが、業務範囲を無視した荒井の命令と、徹底的に仕事を押し付けてくる桧村のせいで、面倒な荒波の中に飛び込んで行かざるを得なかった。
問題が起きたのはその善町の案件に他ならない。金曜日の朝の事だ。笹野葉未来が業務課に来てから、一週間と一日が経過していた。
「ナキャーマ、どうなってんだよっ! コレ!!」
大宮支店からの申請書がメールボックス届いた瞬間に、荒井が声を張り上げた。
「8.2パー? ナメてんじゃねえぞ、何にも変わってねぇじゃなぇか!!」
やっぱりか。
俺は重い腰をあげて荒井の席まで回り込んでいく。
「一度大宮支店に再検討の指示を出して、地主交渉を再開、取得額を5百万円減額することに成功し……」
「8.2パー、って、この前と何も変わってねぇだろうが、舐めてんのかテメェ。」
俺が言い終わるより先に荒井が叫んだ。顔を真っ赤に高揚させ、こちらを睨み上げている。
どうしたものかと数秒黙り込んでいると、「分かってんのか、オイ!」と言って机を軽く蹴り上げた。
ガタンという音が鳴って、荒井の正面に座っていた桧村が驚き、体がビクリと動いた。
しかし、相変わらず矢面に立とうとせず、自席で縮こまっている。これでは大宮支店担当失格だし、俺たちのチームリーダーとしても失格だ。
全く頼りにならない桧村には構わず、俺は言葉を続けた。
「ただ、社内基準は達しているので……」
「オイ、俺の質問に答えろよ。なんでだって聞いてんの!」
こうなってしまった荒井はもはや何を聞いても止まらない。俺は「すいません、再考します」と言って頭を下げると、後ずさりをして自席に戻っていく。
荒井はまだ納得がいかないとばかりに、腕を組んで鼻をフンと鳴らしていた。
俺は誰にも聞こえないような小さな舌打ちをして席についた。
笹野葉がこちら側を向いていた。また、「大変ですね、先輩」とでも言いたげな哀れみを持った顔をしていた。
ちなみにさっきから、パーセントがなんたらと言っているのは、投資IRRの事だ。
IRRとは別名「内部収益率」。投資に必要な支出の投資時点の現在価値と、投資によって得られるキャッシュフローの現在価値の総和が等しくなるような割引率のことを指す。
……なんのこっちゃ?と思い人もいると思うが、つまり、投資によって得られる利益を、単純なキャッシュフローの総和ではなく、時間的価値を加味した数値にしているということだ。早く回収できたキャッシュはより価値があり、プロジェクトの最期の方に回収できたキャッシュはあまり価値がない、という概念さえ覚えていただければ問題ないと思う。
数十年に及ぶプロジェクトを組む不動産開発の場合、プロジェクトの良し悪し評価は、このIRR基準をもとに行われることが一般的だ。ちなみに、当社の基準は、「15年のプロジェクトでIRR8.0%以上」。今回の善町も、最初はIRR8.0%で上がってきた。これだと社内基準ギリギリだからと、一度大宮支店に突き返した結果、IRR8.2%で返ってきた。荒井は8.0も8.2もほとんど変わらねぇだろうと文句を言ったが、IRRを0.2%上げることがどんなに大変か、現場の事が分かっていないから、そんなことが言えるのだろう。
「無茶ですね、これ以上は。」
荒井が席を外した瞬間に、笹野葉が呟いた。気になって自分のPCで善町のEXCELファイルを見ているようだ。
「土地取得1.2億は高そうに見えますが、坪単価は群馬県としては標準的です。ちゃんと角地も取れてるし。そんで……日販予測が65万円、いいじゃないですか。十分頑張っていると思いますけど、大宮支店。」
頭の良い彼女は、手元の電卓をパチパチと叩きながら、申請書の分析を始めている。
「俺もそう思う。だけど、荒井さんは社内基準ギリギリで常務説明するのが嫌なんだろうよ。」
「そんなこと言っても、群馬の片田舎でバカ高い収益を求めるなんて、あまりに常識から外れてます。」
そう言って笹野葉は、納得できないとばかりに唇を尖らせた。
お前が常識を語るか、と心の中でツッコミながらも、状況を打開する手段を考える。なんせ、常務プレゼンは今日の4時からなのだ。今から支店に突き返しても間に合わない。
やがて俺は小さくため息をついた。
「……ちょっとだけ、数字を丸めるか。」
「常套手段ですね、私は嫌いですけど。」
そう言って俺はEXCELファイルに向き合った。
EXCELの「ROUND」の関数は、どこの桁で四捨五入をかけるかによって、結果の数字を若干いじることができる。俺からしたら、そんな作業朝メシ前だ。
年間2,380千円の固定資産税の金額が2,000千円とみなされた。ついでに建設費と解体撤去費にも十万円単位で四捨五入を引っ掛ける。IRR8.2%がIRR8.8%に上昇した。
「先輩、やりすぎ。」
結果の数字をみた笹野葉が俺を睨みつけて来た。明らかに軽蔑しているようだ。
「しょうがないだろ、課長命令だ。……来たぞ。」
俺がそう言って彼女の方を向くと、遠目に喫煙室帰りの荒井の姿が見えた。
笹野葉は「私は何も知りませんから」と一言言うと、俺の頼んだデータ入力の作業に戻っていった。
荒井が座席にドカリと腰を下ろすや否や、俺は善町の申請書を印刷して荒井の席にもっていく。常務プレゼンは紙で行うため、EXCELファイルの調整は絶対に気付かれないという自信があった。
荒井は申請書を手に取ると、真っ先に投資IRRの方に目を向けた。8.8%という数字を見つけると、「ふん」と鼻を鳴らして、左側に積み上がっていた書類の束の上に、善町の申請書を置いた。どうやら、数字は満足のいくものだったようだ。
これで善町の案件は万事解決、と言いたいところであったが、そうは問屋を下ろさない。
荒井は自席で腕を組んでふんぞり返っていた。数十秒間そのままの姿勢で天井をじっと見つめると、やがてポツリと口を開いた。
「ナキャーマ。」
「はい。」
「今、あの会議室空いてるか。」
荒井が指さした先を振り返ると、無人の小会議室の扉が明け放たれていた。
「空いてるみたいですね。」
「そうか、来い、ナキャーマ。」
「……はい。」
嫌な予感しかしない。覚悟して俺は座席から立ち上がった。
同時に、チームリーダーでもある桧村も恭しく立ち上がり、ノートを手に持った。
「チームミーティングじゃねぇから、アンタはいらない、桧村さん。」
キッパリと荒井がそう言うと、桧村はがっくりと肩を落としてドスンと席に座った。体重で椅子がキキィと悲鳴を上げる。
善町の申請書を掴み、荒井が会議室に向かっていく、俺は小走りで一人付いていった。
佐倉さんの席を通り過ぎる際に、小さな声で「中山クン、がんばっ!」と囁かれ、少しだけ元気が出た。
「どうしてこうなるんだろうなあ。」
俺が後ろ手で会議室のドアを閉めるや否や、荒井が切り出した。
「善町の件ですか? これ以上は、ちょっと難しいかもしれないですね。」
IRR8.8%でも満足しないのか。この数字なら、十分に常務承認は下りると思うが。
しかし、荒井はやはり納得が行っていないようで、申請書の投資額の部分を指さした。
「ここ、どうにかならないのか。」
「取得額ですか、それは何とも……。」
初期投資額を下げることは、投資効率を上げるための基本だが、土地価格は厳しい地主との交渉で決まる。再検討の結果、大宮支店が5百万円減額に成功したのも、奇跡みたいなものなのだ。
「土地価格って、本当に1.2億なのか、確認したのか、大宮支店に。」
「いえ、さすがにそこまでは……支店の数字を信用していますが。」
荒井はその瞬間、手に持ったボールペンを机に向かって投げ捨てた。
2人切りしかいない部屋で、ペンがカランカランと転がる音が響き渡る。
「お前、そういう所が、詰めが甘いって言ってんだよ。」
「いえ、しかし……今回は売買ですから、取得価格は決まっていますし。」
俺は机の上にばらされた申請書類の表紙を引き寄せ、その中身を覗き込んだ。
「地主は、『赤城新聞社』、知らない名前ですね。」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
地主の名前を読み上げた後、一瞬荒井の目が泳いだ。その瞬間を俺は見逃さなかった。
「投資額だよ、もう少し下げられんだろ、ちゃんと調べろよ!」
ははーん。荒井の言いたかったことがようやく理解できた。
俺の人間観察力をナメてもらっては困る。
うちの会社の基準では、投資額が1億を超えたら、常務による決裁が必要だ。
それは逆にいうと、1億を下回る投資額の場合、常務に説明する必要はない。部長の印鑑のみで予算を執行できるため、実行までのハードルが相当下がる。
ドンと机の上に荒井が肘をついた。
これでもかと身を乗り出し、俺の顔をジッと睨みつける。よく見ると、意外と皺だらけの顔だと思った。
「
「……はい。」
今思えば、荒井はこの時、奇妙なまでに切羽詰まっていた。
その課長の決死の表情に、俺は言い返すことができなかったのだ。
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