「飲み会の翌日は上司にお礼を言う」というルール
三林大光UP商事。
アホが文字を適当に並べたような弊社の社名は、度重なる合併による「政治」の産物である。
弊社の源流にあるのは、三林商事という会社だ。今も昔も国内有数の総合商社で、大財閥「三林」の血を引いている。
それから、大光リアルエステート。主に不動産仲介を生業にしていたが、10数年ほど前から、ネットの不動産紹介サイトが勃興し、瞬く間にシェアを奪われてしまった。
それが折しも、バブル崩壊後の不動産価格の下落に見舞われ業績が低迷していた三林商事の生き残りをかけた思惑と一致。今から7年ほど前に両社は合併し、三林大光商事が誕生した。
当時は世界有数の売上高を誇る企業だの騒がれたものだ。勢いよく不動産開発の業務を遂行していたが、国内市場の頭打ちはひどいもので、競合他社と狭いパイを奪いあうことに終始した結果、いつの間にか世界での競争力を失ってしまった。
で、「三林大光商事」から「三林大光UP商事」になった理由は何だって?「UP」は何の略だって?
そんなこと、俺もわからない。数年前に中堅の専門商社を買収して、いろんな企業派閥がぶら下がった結果だろう。
逆に聞かせていただきたいが、お前たちは新〇鉄住金の「住」の意味は分かるのか? 三〇東京UFJ銀行の「J」の意味は分かるのか? 損〇ジャパン日本興亜の「興」の意味は分かるのか? 俺の言いたいのはそういうことだ。社名は政治の産物であって、興味をもってもキリがない。
「っし、終わり。」
時刻は朝7時15分。
恒例の脳内悪口を繰り広げつつも、ようやく月報をメールで送付した俺は、座席でふうと一息ついた。
昨日は結局、新人の歓迎会だかなんだかで開発業務課の飲み会に連れ去られてしまった。
それから上機嫌の荒井課長に連れ去られ、新橋で3軒。結局解散は夜中の
実際、それはいつもの事だから、問題ではない。問題は別のところだ。
昨日の本来主役であるはずの「新人」は、なんとも変わった人だった。
「笹野葉未来」、とんでもなく奇抜な名前のそいつは、歓迎会でもずっと不愛想で、酒も一滴も飲まなかった。
いや、体質の関係があるから、酒を飲まないことが問題な訳ではない。
しかし、飲み会中にも一切笑顔を見せず、つまらなそうな顔をしていた。ついでに言うなら、隣で勝手に酔っぱらっていた荒井に対して、「本当に気持ち悪い」という表情をしていた。もちろん、荒井は酔っぱらったら馬鹿だから、そんなこと微塵も気付いていないと思うが。
そして、なんと彼女は1次会で帰ったのだ。
信じられるか? 6時スタートの飲み会で、8時半には帰ってしまったんだ! 「じゃあ、お疲れ様です」って感じで、何にも気を回さず、ササッーっと忍者のように消えてしまったのだ! 自分の歓迎会にも関わらず!!!
一言で言うなら、無礼者だ! いくら女性だといっても、入社2年目の行動としてはあまりに無謀すぎる。しかも、うちは総合商社なのだ! 人付き合いがなんぼの会社で、そんな態度で良いのだろうか。幸い、酒に酔った荒井は偏差値が「5」しかないから、何にも気が付いていないようだが。
「中山クン、昨日はお疲れさんでしたっ!」
真っ暗だったオフィスの電気がパチパチと明るくなり、若い女性の声が耳に飛び込んできた。
相変わらず脳内悪口に興じていた俺は、はたと顔を上げる。女性は至近距離に顔を近づけて来た。
「あっ! 佐倉さん。」
思わず驚いた声をあげると、佐倉さんは悪戯っぽく笑って息をついた。唇に塗られたグロスがPC画面に照らされ艶っぽく光っている。あまりに至近距離に近づいてきたものだから、俺はドギマギとしてしまった。吐き出した息にミントの匂いが混じっている。
「昨日も荒井さんの相手、お疲れさん。」
「あ、あ、どうも、ありがとうございます。」
「何時まで飲んでたの、中山クン。」
「あー、明け方の
「ふふふっ、すごーい、大変! ほんと、中山クンて、荒井さんと仲良いよねぇ。」
「いや、あれは僕じゃなくて荒井さんの方から——」
この女の名前は、佐倉舞子という。
俺より2年だけ年上の業務課の同僚だ。俺が今26歳だから、彼女は28歳ということになる。
日本人離れした高い目鼻立ちが特徴だ。モデルの様に整った顔であり、男性人気が高かったもので、入社後最初の数年間は人事部の採用チームにいたそうだ。そこから支店の営業を通って、今年の4月から本社に来た。
チームが違うため俺と一緒に仕事をすることは無いが、それでも開発業務課に佐倉さんがいることで、だいぶ雰囲気が明るくなったと思う。彼女は愛想がよく、それなりにお酒も飲むからだ。
そう、開発業務課の華は、佐倉先輩なのだ。若くて美人で愛想の良い彼女に、我々は随分と癒されてきた。
それに比べて、新人の笹野葉という女は。
昨日の飲み会での仏頂面はひどいものであった。俺が言える義理じゃないが、あんな態度では彼女の先が思いやられる。
「あの新人は、一体どうすればいいのだろうか。」
思わず声を上げてため息をついた俺に対し、予想外の返事があった。
「私がどうかしました?」
「はっ……!」
思わず右を向くと、いつの間にか佐倉さんがいなくなり、笹野葉未来がちょこんと座っていた。
「な、お前、なんでっ!」
「なんでって、先輩。」
笹野葉は左手を突き出し腕時計を見せつけて来た。
いつの間にか、時刻は9時2分前になっていた。
「時間ですから。」
「いや、時間っちゃ、そりゃそうだが、いや、もうこんな時間っ!」
佐倉さんと話していたら、いつの間にか時間になっていたようだ。
座ったままビシッと背筋を整え、オフィスの辺りを見渡す。すでに桧村等の課の主任は揃っているようだった。
同時に、始業のベルがオフィスに響き渡る。
ベルの音が鳴り終えるかどうかのタイミングで、真っ赤な顔の荒井がオフィスに顔をヒョコッと出した。
「桧村さん、来ましたっ!」
「え、ああっ!!!!!」
横に座ってPC画面を見ながら唸っていた桧村を急かすように言った。
桧村も慌てたように顔を上げる。
荒井は肩幅の広い図体をこれでもかと揺らしながら、開発業務課の自席に向かって歩いてくる。
すでに俺の脳内では、ゴジラのテーマソングが流れていた。
ガタガタガタッと、総勢8名の業務課のメンバーが一斉に立ち上がる音が、オフィスフロアに響き渡った。
「荒井さん、昨日はお疲れさましたっ!」
「昨日はありがとうございました、課長!」
「楽しかったです、またお願いします!」
荒井が歩く度に、次々と声がかかっていく。それに手を上げて答えている荒井の顔は、二日酔いで優れないようだった。嫌な予感が胸によぎった。
案の情、席に着いた荒井は、PCの電源を付ける前に、開口一番こう言った。
「ナキャーマ。資料。」
「はい。」
資料、資料。なんの資料のことかわからないが、荒井の席の前まで回り込み、とりあえず一番大事そうな予算の常務プレゼンの資料を手渡した。昨日の午前に赤ペン塗れになり、なんとか今朝までに直しが完了したものだ。
「色々お前にお願いしてるじゃねぇか!」
俺の渡した紙に一瞥もせずに、荒井が叫んだ。席に深く腰掛け、踏ん反りえっている。
「え、はい。」
「善町とか、色々お前に託したじゃん、どうなってんの? 」
「……すいません、まだ。」
ドォンと荒井が机を拳で叩いた。
「なんで、何で終わってないの? 俺が頼んだってことは、急いでるんだよ、何でだよっ!!!」
「いえ、あの、すいません。」
「何でだよって聞いてんの、俺の質問に答えろ。」
「……すいません。」
夜中まで飲み会に付き合わせておきながらよく言ったものだ。
俺はギュッと拳を握りしめ、必死で怒りを抑え込んでいた。
「何だよ、言いたいことあれば言えよ。」
「いえ。……すいません。」
俺の無言を抗議と思ったのか、荒井は俺の顔を見上げ毒を吐いた。
真っ赤な顔で目を見開いているその姿は、どこぞの漫画の妖怪のようだ。
ドン、と今度は小さく机を叩いて、荒井は言った。
「善町も次の常務プレゼンでやるからよお、早くしろ、ボケ。」
「はい。」
ふーっと肩で息をしながら、俺は席に戻った。
左隣の桧村は、俺の説教に巻き込まれたくないとPCの影に顔を隠している。右隣りの笹野葉は、「大変ですね、先輩」とでも言いたげな哀れな目で俺を見つめていた。
「……笹野葉さん。」
そんな彼女と目が合って、俺はあることに気が付いた。
椅子を右に寄せると、荒井に聞こえないように小さく囁いた。
「お前、荒井さんに昨日のお礼言ったか。」
「……は?」
笹野葉は本気で意味が分からない、と言った顔をしていた。
俺の記憶では、笹野葉は荒井の出社に際し、立ち上がってお礼を言っていなかった気がする。これは俺の失態だ。「飲み会の翌日は上司にお礼を言う」というルールを事前に伝え損ねていた。
「すまない、笹野葉さん、荒井の席まで行って、『昨日はありがとうございました』って、言ってくれ。」
「は、なんですかそれ。」
「頼む。昨日は一応君の歓迎会だったんだ。」
「けど、会社のお金で飲みましたよね、どうせ。」
「そうだ、そうなんだけど、課長にお礼を言うんだ、頼む。」
「……会社の金ですよね、別に課長のおごりじゃないですよね。」
「その通りだ、その通りなんだけど、頼む、『昨日はありがとうございました』って、その一言だけでいいんだ、頼む。」
笹野葉は本気で意味が分かっていないようだった。「はっ?」と不服そうに眉をひそめている。
2、3秒無言で見つめ合ったあと、俺が再び小声で「頼むっ!」と囁いた。
想いが通じたのか、ようやく重い腰をあげた彼女は、荒井の席まで周り込み、機械のような声で「昨日はありがとうございました」と言った。
当の荒井は、急にデレデレとした顔で笹野葉に微笑み、「おう、また飲もうね。」と手を振った。
席に戻った笹野葉は、まるでゴミを見てみて来たかのように死んだような目つきをしていたのだった。
そうして、俺にしか聞こえないくらいの小さな声で、「キモイわ」と言った。
「誰のことがキモイ?」
小声でそうささやくと、笹野葉は俺の方を向いて、ぶっきらぼうに言い放つ。
「全てです、弊社。」
ふふふっ、と思わず笑ってしまった。
「……そうだよなあ。」
誰にも聞こえないような相槌を打つと、大量に届いていたメールの処理をすべく、PC画面に向き合った。
笹野葉未来。
まだ、彼女の性格を知り尽くしたわけではない。
しかし、苦手じゃない。なんとなく、シンパシーが合う子だと思った。
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