refrain

森山 満穂

refrain


 あなたの打つ句読点は、息継ぎなのか、区切りなのか、ぼくにはわからなかった。ただその言葉の波はおそろしく静かに降り注いで、呼吸を楽にしてくれる。それはぼくの指標になり得るくらい美しい、雨だったんだ。





 ぼくの人生はきっと平凡で、凪のようだねとみんなは言うだろう。否定はしない。17年間生きてこのかた、感情が揺さぶられたことがほとんどないのだから。友情も恋愛も上辺だけで感情は伴わず、いつだってみんなが一喜一憂する姿を一歩引いて俯瞰するのがぼくの立ち位置だった。そんな薄っぺらいぼくに顔も見えない他人との交流などできるはずもなく、ノリで始めたSNSは当たり前のように無交流だった。画面をただ漠然と眺めて、気の向いた時に詩のような言葉を流す。誰に向けるでもなく、心に浮かんだ言葉をたったの300字程度に綴るだけ。文章を書くのは昔から好きだった、でも。飾り気も、技巧もない。だから才能も、きっとない。


 その日も薄暗い自室でSNSの画面をスクロールしながら、見ているんだか見ていないんだかわからない速度で人様の愚痴や詩を受け流していた。ときどき目についた色鮮やかな写真に流れ作業的にハートを送りながら、文字の塊を飛ばしていく。上から下へ、白と黒の明滅を繰り返している画面のなかで、ふと、青い光が見えた。思わず指を止めて、その投稿をタップする。拡大された文章をそっと、指でなぞる。


 その瞬間、世界から音が消えた。しとしとと、言葉がぼくに降り注いで、滲んで、淡い水色の染みをつくる。それは次第に濃さを増して、青く溶けていく。静謐な世界のなか、その一音一音がやさしく、けれど鮮明にぼくのからだに染み込んでいくのがわかった。


 なんだ、これ。今まで抱いたことのない感情がぼくを支配している。全身が脈打って、スマホを持つ手が震えた。ひとつ、呼吸を整えて、もう一度スマホの画面を見る。 アカウント名は美雨みう、さん。アイコンは淡い水色の、紫陽花だった。衝動に促されるがままに、ぼくは投稿した人物のアイコンをタッチした。すぐにプロフィール画面が映って、いの一番に飛び込んできた自己紹介文に目を奪われる。


【誰かの心に降り積もるよりも、苦しみも与えないほど跡形もなく消える雨滴うてきになりたい】


 はぁ、と息が漏れた。スワイプして、彼女の今までの投稿を一つひとつ読んでいく。そしてまた、はぁと息をついた。なんて、美しいのだろう。空気感、感性、句読点によってつくられる心地好いリズムが雨のように降り注いで、言葉にできない感情が静かに沸き上がる。この何分か、いや何秒かの間で完全にぼくはこの美雨さんという人の虜になってしまったのだった。



 それから、ぼくは彼女のアカウントをフォローして、毎日のように紡がれる文章を欠かさずチェックするようになった。もちろん毎回ハートを送ることも忘れない。彼女からフォローが返ってきた夜には眠れないほど胸が高鳴った。


 美雨さんの文章は、驟雨しゅううでもなく、霧雨きりさめでもない。一定の雨脚でぼくの心に降り注いでくる。極度に激しかったり、弱かったりせず、常に適度な質量の淋しさと、おだやかな美しさがその言葉たちには満ちていた。その雨の中にいると、ぼくはなぜだか呼吸が楽になって、生きていることを許される気がした。


 彼女の言葉を口のなかでそらんじて、その言葉の湿度に、潤いに恍惚として、今度は秘め事ように囁いて、それを何度もなんども繰り返した。時には手帳に書き写して、ふとしたときに読み返すこともあった。その時間はなによりも幸福だった。



 美雨さんの誕生日、他の人たちのお祝いメッセージに混ざって、ぼくは思いきって彼女にメッセージを送った。彼女への憧れはこの胸のうちに秘めておくだけでは到底収まらないと思ったから。


『誕生日おめでとうございます。あなたの書く文章が好きです。心の底から憧れています。僕の人生にはあなたが必要です』


 送信して数時間が経った頃、ふと「あなた」と「が」の間の『言葉』が抜けていることに気付いた。なんて恥ずかしいセリフを吐いてしまったんだろうと悶絶するほど後悔した。ファーストコンタクトでいきなりこんなプロポーズみたいな言葉を送りつけるなんて引かれるに決まってる。でも今さら訂正するのも憚られるし。あーだこーだ考えていると、彼女からの返信を告げる音がぽろん、と響く。


『本当だ』


 立て続けにぽろん、ぽろん、と音が鳴る。


『新緑には、雨が必要ですものね^^』


 ぼくのアカウント名は「葉」だった。おまけにアイコンは青々とした葉っぱの写真。道端で適当に撮った雑草だ。そんな些細なものも特別に変えてくれる彼女の言葉は、やっぱり魔法のようだと思った。


『いつもありがとうございます。実はずっと、あなたとお話がしてみたいと思っていました』


 続いて映し出された言葉に、心臓が止まるかと思った。でも、ここで死んだら彼女と一生話せずに終わると思ったら、自然と心臓は正常に動き出した。



 それからぼくらは頻繁というほどでもないけれど、言葉を交わすようになった。 話すうちに、彼女は京都の大学に通っている四年生で、今は就職活動の最中だということがわかった。ぼくが焦がれてやまない文章は息抜きの一貫なのだという。


『今さらだけど、きいていい?』

『どうぞ』

『名前、はさん?ようさん?』


 ぼくのアカウント名はなんのひねりもなく本名だ。ようだよ、と打とうとして、少しだけ考えて、ちょっといじわるをしてみる。


『どっちだと思う?』

『えー?……じゃあ、ずっと呼んでたから、はさん』

『うん、じゃあ、はさんで』

『えー?正解は?』

『美雨さんが呼んでくれたほうが正解にする』

『なにそれ^^』


 笑うときにつける独特な絵文字も、おっとりとした性格もすべてが愛おしかった。 人となりも知ることになって、ぼくはますます彼女に好感を持った。 彼女からもらえる一言ひとことが、きらめく雨滴のようにぼくという青葉に露をもたらして、どうしようもなく元気をもらえる。 彼女はまさに、渇いたぼくの世界を潤す恵みの雨だった。



 ところが、毎日のようにつぶやかれていた彼女の文章がある日突然ぱたりと途絶えてしまった。四月に彼女は大学を卒業して社会人になった。多忙のせいで今までのように言葉を綴ることができなくなってしまったようだった。初めのうちは、『ちょっと晴れ間が続いていると思って下さい』と冗談めかした言葉を置いていって、週末にときどき戻ってくるくらいだった。だが、いつしかそれもなくなり、ついには『文を綴るのが難しくなってきました。このアカウントを削除するかもしれません』というメッセージが流れてきた。残業や休日出勤続きでろくに休みも取れず、息抜きどころではないらしかった。美雨さんがいなくなってしまう。美雨さんの文章が読めなくなってしまう。絶望に打ちひしがれて、それでも、ぼくは彼女に何も言ってあげることができなかった。ぼくなんてたくさんいるなかのフォロワーの一人、こんな顔も知らないガキから気休めの言葉をかけられたって、嬉しくもなんともないだろう。それに、これはぼくのただの我が儘だ。どうすることも、できないじゃないか。そうして何もできずに鬱々とした日々が過ぎ、彼女の文章が流れてくることは完全になくなった。


 彼女の居ないタイムラインを眺めて、白と黒の明滅を追い越して、ぼくの日常はまた渇いたものに逆戻りしてしまった。幸い彼女はアカウント自体はまだ消しておらず、ぼくは無更新な彼女のプロフィールページを眺めて、降り注ぐ言葉の雨に身を委ねていた。何度もなんども言葉をなぞって、仮初めの余韻でずぶ濡れになったこの胸の熱はひかなかった。きっと彼女の言葉に打たれ続けて、風邪をひいてしまったのかもしれない。


 美雨さん

 どうか、やまないで。


 心のなかだけで唱えても、願いが叶うはずもなかった。だったらこの想いを伝えよう。才能がないなりに、あがくことはできるはずだ。彼女がここから消え去ってしまう前に。


 それからぼくは、彼女の言葉を何度も読み返して、少しでも彼女のような文章を書けるように習作を重ねた。文字を打ち込んでは消して、打ち込んでは消して、点滅する縦棒は同じ場所を行ったり来たりを繰り返した。彼女が描く雨を光をぼくも描きたい。そして一ヶ月が経って、ついにその想いを書き上げることができた。美雨さんからもらった光をぼくの言葉の雫に変えて、そっと電子の海に降り落とす。画面右上の投稿ボタンを押した。





『いつだって、雨の香りを探してる。あなたがもたらした雨滴のぬくもりを、今でも忘れられないから。ぽつ、ぽつ、降り注ぐそれは、やさしくしたたかにぼくを揺らして、渇いた心を生き返らせてくれる。ぽつ、ぽつ、跳ねた光が希望を見せてくれるから、あなたが曇天に零した足跡に手を伸ばしたくなるのです。あなたが濡らした蕾はやがて、開いて花を咲かせるでしょう。ほら、雨の痕が永遠にぼくを輝かせてくれる。苦しみも与えないほど跡形もなく消えたい、とあなたは言うけれど、望みどおりにはさせてあげられないよ。水溜まりに映るのは虹じゃなくて、あなたが描いた波紋がいい。まだ鼻先に香る雨の余韻に浸りながら、切に祈る。だからどうか、やまないで。』





 ちぐはくで長ったらしくて、彼女の文章にはほど遠い。けれど、伝えたいことは込められたはずだ。これからあなたと同じ美しい世界を描くために、ぼくは文を綴り続ける。もっと、ずっと。だから届け。


 スマホごと両手で願いを握りしめる。窓の外には雲が折り重なるように空を覆っていた。遥か頭上の白が視線を下げるにつれて、灰色にくすんでいく。今にも、雨が降りそうだ。


 美雨さん、あなたが恋しい。


 静かに目を閉じて、耳の奥の雨音に意識を向ける。か細く、儚く消え入りそうな声。でも不思議と心地好い。声も聞いたことがない、顔も知らない、でもぼくのなかの彼女は揺るぎないほど美しかった。そうして微睡みに身を委ねかけていた時、ぽろん、彼女の投稿を告げる音が聞こえて、すぐにアプリを起動させる。


 ひとつ、雨滴がおちて、世界が静寂に包まれる。文字が光を湛えて、緑から青く、彼女の言葉を綾なす。





『あなたの葉脈に触れて、枝分かれした未来に行ってみた。一面を覆う野原になる未来、鮮やかな花が芽吹く未来、日にあてられて枯れる未来。まだ青いそれが、色濃く希望を描くから、わたしはまだ、途切れてほしくない、と思う。すべらかな肌を闊歩して、今のあなたに行き着いたら、もう、戻れないね。無条件にやさしいその色に染まれば、わたしはきっと、ふりやまない。』





 美しい言葉の雨滴を、雨音を、繰り返し、くりかえし。言い表しようのない感情が句読点を目印に、 ひとつ、ふたつ、ふたつ、ひとつ、心に静かに滂沱する。ひとつ、ふたつ、ふたつ、ひとつ、降り注ぐ彼女の雨滴は、まだ青いぼくの心の葉を揺らし続けた。


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