群青色のその手で、わたしの首を締め上げて

高橋末期

群青色のその手で、わたしの首を締め上げて

「首絞めエッチの何が気持ちいいってさー……血流の流れを抑えられる事だけじゃなくて、酸素が脳に供給されないからからだと思うの。本来は、呼吸を大きくすればするほど、セロトニンっていう幸福物質が脳の中でドパドパ分泌されるはずなのに、どういう訳か、あなたに首を絞めれてから、酸素の供給を断たれるだけで、幸せを……幸福を感じているのは、どうしてなんだろうねって」


 金縛りになって、ようやく喋れるまで慣れるようになってから、わたしは真っ暗な天井に対して、一人で喋り続けた。いや……一人じゃない……に対してだ。


 カーテン越しから、車のライトが漏れて天井に当たると。影が天井に投影されるが、影が輪郭を保ったまま消えずに、そのまま人影のようなものへと、徐々に変化していく。


「ああ、今日はそのパターンね。悪くない」


 天井の影から、ニュッと陶器のように青白く、氷のような冷たい手が、わたしの首元にへ伸びると……。


「あっ」という間に、わたしは彼女によって首を絞められた。


「いっ……ぐっいい……いいよ、もっと強く」


 首を絞める力が段々と強くなっていく。金縛りのせいか、不思議と苦しみはなかった。首元を締め付ける手が、わたしの火照った体温に移っていくのを感じていた。


 わたしの下腹部……アソコも熱くなっていく。濡れているのだろうか。こんな状況で変な話だけど、わたしは妙な心地良さと安心を感じていた。もっと強く……そのまま……。


「もっと、強く! わたしをイかせて!」



「いくらなんでもそれは、安すぎない? ウミ?」


 ミカがハイボールをテーブルに叩きつけ、わたしに箸を突き付ける。


「どうせ、取り壊されるからいいの。課題が終わるまでの間だけだし、わたしそういう類のものは信じていないから」


 大学の友人であるミカと、馴染みの安居酒屋で、いつものように飲みながら、わたしは最近借りたアトリエのアパートの話をしていた。


 中央線の駅から徒歩五分圏内にあって、築四十年、敷金、礼金はゼロ。近いうちに建物の取り壊しが決まっているせいか、家賃は月三万円の1DKのアパートをわたしは、美大の課題制作ついでのアトリエ兼、寝るだけのアパートとして借りていた。


「一応、事故物件サイトで調べてみたけど、そういう情報は一切無かったんだよね」


「でも、三万円って……絶対、何かいるでしょ」


 元々、千葉の実家から八王子にある美術大学へ二時間掛けて往復していたが課題制作の為に、大学に籠る事も多く、これまで、元カレのアパートへ泊まらせてもらった事もあったが……。


「なんで、泊まらせてもらう彼氏と別れたからって……そんな、危なそうな部屋を借りちゃうのかな……っていうか、なんで別れたの?」


「それは……」


 それは……原因はわたしにもあった。端的に言うと、わたしには性欲があまり無かったからだ。セックスレスというか、わたしには性欲というものが、明らかに欠落していた。彼氏からアプローチしてくる事も多々あったが、わたしはというと、絵を描いてるか、バイトしているか、食うか、寝るかのルーチンを繰り返していて、彼氏とセックスをするという、発想や体力も残ってはいなかった。そんなカップルが、長続きしないのは、目に見えて明らかだろう。


「前にオナったのは、いつだろうなー」


 酔いが回ってきたのか、そんな事をわたしはミカに真剣に相談していた。


「スッポンとか、体力とかそういう問題じゃないよねウミの場合は……ま、その性欲の無さが、あんたの作品には十分、反映されているとは思うけどね」


 ミカはそう言いながら、わたしのスケッチブックを勝手にペラペラとめくる。


「こらっ! ミカ!」


 わたしがよく描くモチーフは、人間のアソコだったり、手や足だの、人間の先端だった。ペニスやヴァギナなど性器のパーツを、人間のあらゆる場所に生やしたり、手や足を家具や家電など、身近なモノにそれを写実的に具現化させる、歪んでいて退廃的でグロテスクな絵画を描き続けていた。


 わたしの性欲の無さと、この絵画たちはもしかしたら、一種の反動なのかもしれないというミカの考えは、ある意味当たっているかもしれないし、なんせこれを描いている時、わたし自身が一番楽しいので、そんな事もあまり考えたくはなかった。


「教授から、女性版フランシス・ベーコンと呼ばれるのも納得するわよね」


「だから、わたしはLGBTじゃないっ!」


 スケッチブックをミカの手から取り戻そうとするが、そのまま宙を舞い。おかわりのハイボールを持ってきた店員の前で、写実的なヴァギナの絵をぶちまけてしまった。



「三万円ね……」


 アパートに帰ると、ミカに言われた事を思い出していた。六畳の和室を見渡しながら、改めてお札のようなものはないかと、酔っぱらったテンションで探してみるものの、引っ越した時同様、それらしいものも見つからず、この酔いで絵が描ける訳でもなく、わたしは、そのまま布団に潜り込んだ。


 それから何時間経っただろうか、外を通るバイクのけたたましいエンジン音に目を覚ましたわたしは、愕然とした。それは、金縛りにかかり、身動きが取れなかったからだ。


 スーっと、何か引いたような音がした。


 目だけを動かせるわたしは、音のした押入れの方へ視線を動かすと、閉めていた筈の押入れの戸が開いていた。


「(おいおい、マジかよ!)」


 心の中で叫んでいたら、押入れの奥から、黒い……墨のように真っ黒な影が現れた。その影が、ゆっくりとわたしの元へと移動していくと、影の中から、女性の手のような、長細く白い手が、わたしの首元を締め付けた。


「ぐっ!」と、わたしは抵抗を試みるが、身動きも取れず、なすがままに首を締め付けられる。


「(綺麗な腕だな)」


 癖かもしれないけど、わたしはその腕をマジマジと見つめていた。人体デッサンを描き続けていくうちに、わたしは、絵描きの誰もが持つ、一つの特技を身に着けていた。それは、腕や手を見ただけで性別を見分けられるという特技だ。


 腕という部位には、輪郭や筋肉や骨格の付き方で、手には人間の中でも脂肪が付きづらく、手の甲に現れる血管や骨格の太さなどで、大体の性別が分かるようになる。街中で、女装をしている男をすぐに選別できる、そんな他愛もない特技だった。


「ぐっ……キレイ」


 ようやく、金縛りのわたしの口から出た言葉はそんな率直な感想だった。それを言った瞬間、わたしを襲う空気でも無くなったのかと察したのか、スーッとわたしの、首元に入る力が無くなっていた。


 金縛りが解けた瞬間、とっさにわたしは、部屋の電気を点けると、紙と鉛筆を持ち、さっき目撃した腕と手をスケッチしていた。例え今見たのが霊障だろうか、幻だろうと、わたしの脳の中には確かに焼き付いていた。それに今でも感じる、首を絞められた苦しみは確かに本物だ……この苦しみを思い出すだけでわたしは……。


「嘘……」


 出来上がった腕と手のスケッチを見ながら、わたしは思わずクリトリスを……。



「で、久々にオナニーしていたって訳!?」


「シーッ! 声が大きい!」


 大学の図書室で、ミカに昨日起きた事を話してみたら、当然のような反応が返ってきた。


「ウミ……あんた、正気なの? よりにもよって、幽霊に首を絞められながら、なおかつそれをスケッチしようだなんて……変態?」


「酔って悪夢を見ただけかもしれないけどね、あまりにも綺麗な腕と手だったから……」


 わたしは、大学に所蔵されている幽霊図についてまとめた本を眺めていた。昨日わたしが目撃した幽霊に近いものがあるかもしれないと、ネットだけの情報だけじゃ足らなかったからだ。


「ウゲッ……よくもこんな怖い幽霊を描けるもんだよね。しかも全員、女って……昔から、こんなイメージなんだね」


 応挙に広重、月岡芳年……名だたる画家たちが、幽霊図というものを残しているが、そこに描かれているのは、髪が長く、左前の白装束に身を包む、足の無い、未だに映画やテレビでよく見かける典型的な幽霊のイメージばかりだった。


「へえ……こういうものでも幽霊画って呼べるんだね」


 ミカが何気なく、開いていた本に興味深い幽霊図があった。作者が不明となっているが、十九世紀初頭の江戸時代に描かれた幽霊図で、一本の燭台に照らされた、にじみとぼかしを効かせた墨筆で描かれた影のようなものから、うっすらと青い塗料で塗られた写実的な腕と手が伸びていた。谷文一という絵師が描いた「燭台と幽霊」の幽霊がいないバージョンと言うべきだろうか。


「これだ……」


 わたしはそれをスマホのカメラで写真を撮りながら、この青さをどうやって、再現すればいいのか、画像を拡大しながらずっと考え込んでいた。


 

「よし!」


 美術予備校のアルバイトをいつもより多めに入れて、ヘロヘロに疲れながら、ストロング系飲料のロング缶を三本キメた後、わたしは万全のコンディションで、あのアパートの部屋で彼女が現れるのを待っていた。


 一瞬だけ、意識が途切れたかと思うと、気が付けばわたしの首元に、あの青白い腕がわたしの首元まで伸びていて、ギリギリとわたしの首を絞めていた。わたしは、その腕を、掴むまでのその手を、指先の指紋から手首に走る血管、肘にかけての骨格のラインや、筋肉の付け方までを網膜に、脳へ焼き付けようと必死だった。


 息が持たなくなり、再びわたしの意識が途切れると、あの腕が煙の消えていて、わたしはそれを二度と忘れまいと、あらかじめ枕元に置いてあったスケッチブックに鉛筆を走らせ、そのスケッチを眺めながら、わたしは自慰行為をするのを繰り返していた。



「随分と生気の無いものを描いてるな」


 大学であの幽霊をモデルにした作品を制作中、その様子を見にきた教授にそんな事を言われた。


「やっぱり、分かります?」


「何となくだがね……それに、これ生気が無いのに、まるで生きているような、狭間というか、得体の知れない不気味さがあるね……いいを持つモデルに出会ったんだね」


「いいえ、それが本物なんですよー」なんて、本気で言える訳もなく、わたしはハハハと笑ってごまかした。


「そういえば、この色についてお聞きしたいのですが……これの顔料って何か分かりますか?」


 以前、図書室で撮った幽霊図を写したスマホの写真を教授に見せる。


「ふむ……変わった幽霊図だな。明確には分からないが、江戸時代後期に描かれた日本画の青というのは、アズライト……岩群青や藍銅鉱とも呼ばれる、とても高価な色が多かったらしい。その腕や手の部分だけを、塗っていたという事は、よほど大切な人の為の理由があったのかもしれないな」


 大切な人の為の理由……教授が言ったその言葉が、妙に頭の中に残り続けていた。



「あなたはっ……誰なの?」


 毎度のように、彼女に首を絞められながら、わたしは顔の見えない、腕だけの彼女に向かって問い続けた。大家さんや、長く住んでいる住人に、前に住んでいた住人についてや、役所や図書館などで、アパートがあった土地の過去などを辿ってみたが、住人はずっと、一人暮らしの男性であり、特に目立った事件もなく、土地そのものも、処刑場や墓場、いわくつきの殺人事件があったという訳でもなく、ただの街道沿いの田んぼだったらしい。


 それじゃあ、今、わたしの首を絞めつけている彼女は誰なんだ。


「あっ……逝きそう」


 快楽の相乗効果を高められるように、タイマー付きのディルドをアソコに挿入しているせいか、金縛りにも関わらず、わたしの下半身がビクビクと痙攣していた。すぐに、息が続かなくなり、血の気が引いたわたしの意識が遠のいていく。そういえば、エッチの時の、イクっていう言葉、と意味って同じなのかなーと思いながら。



「大丈夫? 元気がないけど……」


 大学でミカが心配そうに、わたしにエナジードリンクを差し出す。


「ええ……あの幽霊の事を考えていると、中々寝れなくてね」


「やっぱり、呪われてんじゃないの? お祓いとかにいった方が……」


 それは必要なかった。むしろ、この異常な経験によって得られる快楽の方が重要だからだ。


「ねえ……ウミ。今度、わたしもそこのアパートに行ってみてもいい?」



 ミカがやけに強気な姿勢で、わたしの家へ泊まる事になった。今か今かと、霊障が起きるんじゃないかとビクビクしながら、部屋をせわしなく見渡している。


「そんなビクビクしたって、彼女はわたしが寝るときしか現れないんだよ」


 晩飯を作りながら、ミカがおもむろに部屋の隅に置かれたぬいぐるみを持ってきた。引っ越す直前、ゲーセンで多く取りすぎたからと、ミカがわたしにくれた人気少年漫画のキャラクターをデフォルメ化したぬいぐるみだった。


「この埃をかぶったぬいぐるみ。勿体ないから、メルカリとかに売ってもいい?」


 珍しい。実家が結構裕福で、お金に困る話をあまりしないミカが、オークションサイトを使うなんて。


「別にいいよ」と、わたしは特に気にもせず返事をした。


 その日の晩、ミカも霊障がある事も忘れていたのか、二人でしこたま飲んで、気が付けば、深夜の二時を回っていた。ミカのいびきに目を覚まし、いつもこの時間だったら、例の彼女が、わたしの首を絞めてくるが、空気を読んでいるのか、そういう気配もなく、やれやれとわたしはトイレへと向かった。


 ドサ


 何かが、落ちたような音がした。振り返ってみると、風呂やキッチンがある廊下の方に、紙袋が横に倒れていた。ミカがわたしにくれたぬいぐるみをオークションサイトで売る為に、入れておいたものだ。仕方なくわたしは、散乱したぬいぐるみを元に戻そうと、拾ってみたら……。


「え」


 ぬいぐるみの背中が、刃物ではなく、手で無理矢理破いたかのように開いていて、中から綿と一緒に、紙のようなものがはみ出ていた。その紙をめくってみるとわたしは、絶句した。


「掌」とただ一文字、赤黒く変色した血で書いたような文字と一緒に、陰毛のようなものが、無数にぬいぐるみの中に仕込まれていたのだ。


「これって……」


「どういう意味だと思う?」


 さっきまで寝ていたはずの、ミカがわたしの背中に立っていた。配達ピザを切っていたオピネルナイフを、右手に持ちながら。


「それはね、一種の降霊術でね。ネットでも調べれば、簡単に見つかる初歩中のやり方なの。まさか、こんなに効果的だったとはね」


 降霊術だって? ミカが言っている意味が分からなかった。


「ウミ……全部、あなたが悪いんだからね。その嫉妬するくらいの絵の才能を持っているだけじゃなくて、わたしの初恋の人を奪っておいて、それを捨てるなんて」


「ミカ……言ってる意味が……捨てた? 初恋の人? それってあのセックスにしか頭にないボンクラ――」


「あの人の事をボンクラって言うなよっ!」


 ミカは叫んだ。ナイフを振り回しながら、わたしにジリジリと近づいてくる。玄関から出るか、ベランダから飛び降りるか、少しでも逃げる仕草をすれば、刺されてしまいそうだった。


「落ち着いてよ、ミカ……」


 わたしはそう言っておきながら、本当の気持ちは心底ガッカリしていた。事の真相が、こんなつまらないものだったという事実に。わたしを毎夜毎晩、首を絞めてくる幽霊も、ミカの生霊のようなものだったというガッカリ感。あの首絞めで感じていた、心地良さや、安心感も、わたしの一方的な勘違いだったのだろう。勝手に感じて、勝手にイって、作品として一方的に利用していただけに過ぎなかったのだ。


「落ち着け? 落ち着けだって? 幽霊相手ですらも、勝手に気持ち良くなってる奴が、ふざけた事言ってんじゃねえよ! この変態が!」


 ミカが叫び、わたしに向かってナイフを振り下ろす。もう駄目だと思った瞬間、耳元から、見慣れた腕と手が伸びていた。


「がっ……なんで……なんで! だってあなたは!」


 その陶器のように美しく、アズライトで塗ったかのような長細く、青白い手は、ミカの首元を思いっきり絞めていた。


 ミカの手元からナイフが落ちて、それを拾い上げると。わたしは一目散にアパートの外へと逃げ出して、警察に通報をした。



 あれから、数か月経つ。あのアパートは決められた通り取り壊され、今はただのコインパーキングになっている。


 ミカは、殺人未遂の現行犯として逮捕されたが、状況が状況だけに、わたしはどうしても、詳しい事情を説明をしなかった……というより、出来なかった。けれど、ぬいぐるみに入っている、降霊術の痕跡は本物であり、そのことは事実として警察へ話した。


 あれ以来ミカとの連絡も途絶えるが、風の噂で聞くに、自宅で彼女は首吊り自殺をしたらしい。呪いをかけた代償なのか、「ごめんね、ウミ。許して」と書き置きを残しながら。その噂が本当なのかは知らないが、わたしはたぶんミカは死んだのだと思っていた。だって……。


「これで、完成かな……うん、いい感じだよ。ミカ」


 少々、値は張ったが天然のアズライトの顔料を使った青白い腕を描いた幽霊図がようやく完成した。教授が言っていたように、大切な人の為の色だからだ。以前にも描いた幽霊図も大学での講評や、展覧会での評判も上々で、前衛的な日本画というより、「怖くない幽霊図」として、買ってくれる人が増えてきた。


 その日の夜、群青色の腕が、わたしの絵画から抜け出してきて、夜な夜なわたしの首を絞めつけてくる。ミカの呪いは、まだ持続していたのだ。どういう訳か、その事に関して、わたしは不思議と安心感を得ていた。


「もっと強く……」


 腕の力が強くなっていく。息が出来ない。血の気が引いてボーっとするが、気持ちいい。


「どうして、首を絞められて、息が出来ないのに、幸せを……幸福を感じているのは、どうしてなんだろうって思っていたけど、今、その答えが分かったような気がしたよ。それはね、死に……あなた、ミカに近づいているような気がするからだよ」


 腕の向こう側の影がボウっと一瞬、ミカの姿に見えた気がした。わたしは薄れる意識の中、この苦しみを抱きながら、夢の中へと微睡んでいく。あの世にいると思しきミカと一緒に、微睡んでいくのを確かに感じていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

群青色のその手で、わたしの首を締め上げて 高橋末期 @takamaki-f4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ