第47話 夕焼けの丘で
ドシュッと、鈍く重たい音が響きます。一瞬、クッと詰まったアリスの口からゴバァと大量の血が吐き出されました。チェシャ猫が繰り出した手刀が彼女の胸を一思いに貫いたのです。
「なっ……!」
言葉を失う一行でしたが、最後にやらかしてくれたアリスは戸惑う余裕さえ与えてくれないようでした。急に立っていられないほど地面が震え出し、法廷場が崩壊を始めたのです。それは創造主を失った夢が消えるような、容赦ない世界の終わりでした。
「マズいわ、このままじゃ潰されちゃう!」
「早く脱出を!!」
灰音と雪流が入ってきた扉を指します。因幡はぐったりしている金魚の元へと駆け付け、彼女が震えているのを見ました。何も言わず自分のコートを脱いで羽織らせます。それから頭夜と共にその身体を両脇から支えると脱出を始めました。
なんとか入り口まで来た時、一瞬だけ振り返ります。フロアの中心には冷たくなったアリスを愛おしそうに抱きしめるチェシャ猫が座り込んでいました。
――これでアリスはオレだけのもの……
因幡の聡い耳でも、捉えたのは微かな囁きだけでした。狂愛を貫いた猫の表情を確かめる前に、上から降ってきたガレキが彼らをグシャリと押し潰します。最後の崩壊が起こり、その痕跡さえも覆い隠してしまいました。
「何やってんのよ、早く!」
灰音の焦った声に引きずられるようにして城から抜け出します。ですが、脱出劇はそれで終わりませんでした。
「ウワアアア!!」
「誰か、助けてくれぇ!」
こちらも崩壊を始める城下町で、強制労働に駆り出されていた人たちがパニックを起こして走り回っていたのです。ドンッとぶつかってきた男性に顔をしかめながら灰音が叫びます。
「この人たちどうすりゃいいのよ!」
とてもではありませんが、自分たちだけでは対処しきれる人数ではありません。彼らを統率していたはずのトランプ兵たちは、皆ただのカードに戻ってそこらに散乱していたのです。
「金魚? おいっ」
その時、ついに限界を迎えた金魚の首がカクッと落ちました。無理もありません、今まで気を保っていたのが不思議なぐらいの出血量だったのですから。その脇腹からは相も変わらずトクトクと鮮血が流れ続けていました。
残された仲間たちは、崩壊していく建物が巻き上げる土埃と、走り出す群衆の悲鳴に挟まれ立ち尽くすことしかできません。
「ど、どうすれば、――うわっ」
青ざめオロオロしていた雪流は、後ろから突き飛ばされ転んでしまいました。踏み潰されてはたまりません。
その時でした。立ち上がろうとした彼の目の前に、しなやかで美しい手が差し伸べられたのです。
「お気を確かに、森の英雄さんたち」
こんな喧噪の中でも響く、涼やかで凛とした女性の声。真っ赤に塗られた長めのネイル。顔を上げた先の見覚えのある顔に、雪流は目を見開きました。
「眠花さん!?」
「どうやら間に合ったようですね」
つい先日、しとやかなドレスを着こなし灰音と死闘を繰り広げていた彼女は、今日は白を基調とした勇ましい軍服に身を包んでいました。薔薇色に波打つ豊かな髪を後ろで一つに括り上げ、その背後には優美な白馬が控えています。
「ど、どうしてここに」
「マオ殿から助っ人の要請を受けましたの。事情は全て把握しているつもりです」
雪流を立ち上がらせた眠花姫は、安心させるように力強く頷きます。背後に振り向くと、同じような軍服を着た一団にテキパキと指示を出し始めました。
「作戦通り、二班から五班までは群衆を誘導しこの街から避難させよ! 一班は負傷者を優先的に運び出し、外に控えている医療チームの元へ! デッドラインは状況を見て十五分とする。オペレーション開始!」
「「ハッ!」」
一度敬礼をした軍隊は、即座に散開し一般市民たちを誘導し始めました。あっけに取られている頭夜たちに振り向き、眠花姫は軽やかに微笑んでみせます。
「これで、少しは借りが返せたでしょうか?」
「おつりが出るくらいよ!」
俄然、希望が見えてきた灰音がかじりつくように飛びつきます。
眠花姫が組織した軍隊はとても優秀で、そうこうしている間にも周囲のパニックは少しずつ治まり、冷静さを取り戻した群衆が大人しく街の外へと避難を始めました。嬉しそうな顔をする頭夜が、陰の功労者を称えます。
「師匠が根回ししてくれたおかげだ」
「なによ、あのオッサンやってくれるじゃない!」
興奮した灰音が両手を握りしめピョンピョン飛び跳ねます。眠花姫はキリッと表情を引き締め、いまだ意識を手放したままの一人を見て言いました。
「さぁ、金魚さんも早く。その傷は早く処置しないと」
急かされて街の入口へと戻ってきた一行は、門を境にして赤いバリアのような物が張られているのを目にしました。どうやらそのラインからこちら側が、アリスの作りだした疑似ワンダーランドのようです。
「さっさと出るわよこんなとこっ」
「ひゃああ、何かぞわってします~」
勇んで飛び出した灰音と雪流に続き、金魚を抱えた頭夜もバリアを出ます。と、金魚を左側から支えていたはずの因幡が何かに気づいて一人、足を止めました。
「……因幡?」
一行が振り返った先で、因幡は表情を固くしていました。バリアに手をあて押し込む仕草を見せますが、腕は突き抜けることなくその場にとどまったままです。
「ちょ、ちょっと、なにふざけてるの。早く出て来なさいよ!」
「因幡さん、出て、早くぅ~~!」
慌てて引き返した二人が彼の手を掴み、こちら側に引っ張ろうとします。ですが、まるで見えない壁でもあるかのように彼の身体だけが外に出すことができません。その騒ぎに、意識を失っていた金魚はフッと目を覚ましました。
「え……なんだ、どうした」
その時、取り残されていた最後の一般市民が、因幡の横をすり抜けて外へと飛び出して来ました。それを見送った因幡は一歩引きます。バリアに指先だけで触れながらこう呟きました。
「そうか、私はアリスの創造物だから……」
誰がこんな結末を予想できたのか――いえ、アリスだけはこうなることが分かっていて、最後に因幡をあざ笑ったのでしょう。悲しそうに微笑んだ白ウサギはこんな時でも優しく穏やかでした。
「そこも危険だ、離れた方がいい」
何も言えなくなる三人とは違い、ようやく状況を理解した金魚が叫びました。
「バカ、なに諦めてんだ! 待ってろ今行く、絶対そこから出してやるからっ」
「おい金魚! やめろっ」
「危ないですよぉ!」
いよいよ崩壊が始まりました。門をフレームとした向こう側では、街の至るところがガレキとなって崩れ落ち、現実味のない動く絵画のようにも見えます。
何とかそちらに行こうとする金魚を、仲間たち三人が必死になって引き止めます。普段なら振り払うこともできたでしょう。ですが、今は立っているのでさえやっとです。
かすみ始める視界の向こうで、男が軽やかに笑うのを見ました。それは、これまで共に旅をしてきた中で一番、満ち足りた表情でした。
「ありがとう、君たちに出会えて、己の意思を貫き通すことができて私は幸せだ」
彼の中に悔いはありませんでした。ああ、いえ、一つだけあったようです。最後に金魚を見据えた因幡は、少しだけ困ったような笑みを浮かべました。
「夕日を一緒に見に行く約束、果たせなくてすまない。私は君が――」
最後まで聞き取ることは叶いませんでした。ドドドと崩れ落ちるガレキが土煙を巻き上げ、街を囲っていた城壁も倒れ始めます。
「因幡、因幡ぁぁ!!」
仲間に引きずられるようにしてその場から離れる金魚は、最後まで手を伸ばしていました。
……やがて、夢まぼろしのワンダーランドは溶けるように消え去っていきます。
夕陽がすっかり沈む頃には、そこには最初から何もなかったかのようにそよぐ草地だけしか残っていませんでした。
***
それから数日が経ちました。
アリスに壊されてしまったはずの小屋はふしぎな事に、戻ってみるとそっくりそのままの形で残っていました。そうなると、まるで彼らがやってきたこと自体が夢だったかのように思えてきます。
ポケットに手を突っ込んだ頭夜は、森を抜けて金魚を迎えに行くところでした。
木立の途切れたゆるやかな丘を登れば、夕焼け空が視界いっぱいに広がります。一番見晴らしのいい頂上にたどり着くと、金魚がこちらに背中を向けてあぐらを掻いて座り込んでいました。
「……メシ」
「ん」
簡素に用件だけ告げるのですが、金魚は立ち上がる気配を見せません。
その見つめる先には新しい墓標が建てられ、因幡の忘れ形見となったコートが掛けられていました。ゆるやかな風にひるがえるコートの隙間から真っ赤に熟れた太陽が覗いては目を射ります。
頭夜は黙ってその背中を見守っていました。やがて、独り言のように彼女はぽつりと呟きます。
「この夕陽を一緒に見る約束をしてたんだ」
その声は、震えてこそいませんでしたが、上手く呑み下せない痛みを抱えたままなのがありありと伝わってきました。視線を落とした金魚は、少しだけ声のトーンを下げて続けます。
「いい仲間になれると思ったんだけどな……」
「……」
正直言って頭夜の心は複雑でした。誰に対しても平等で公平。特別な感情を抱く事のなかった金魚に、ここまで複雑な爪痕を残していった人物が、しかも男。
いえ、分かっています。これはただの嫉妬で、そして因幡は正真正銘いい奴でした。だからこそ、自分の胸中にうずまくこの感情が嫌になるのです。
はぁぁっと重たい溜息をついた頭夜は、後ろからその頭を少し強めに小突いてやりました。
「あたっ」
ヘンな声をあげて前のめりになる彼女の横に勢いをつけ座り、因幡の墓を眺めます。
「らしくないへこみ方はやめろ。調子が狂う」
「んだよぉ、へこんでなんか無いって」
頭を抑えてブーブーと不満を漏らす声は、少しだけ調子が戻ってきたようにも感じます。ですが、彼にはそれが空元気なのはわかっていました。だから、あえてそちらを見ずに口を開きます。
「バラバラだったおとぎ話が交わり一つの物語を作る。そういう世界を作り上げたのはお前だろ」
こちらが何を言わんとしているのかを察したのでしょう、ハッとした金魚は動きを止めます。その背中を拳でトンと叩き、頭夜は何でもないことのように言いました。
「世界の壁をぶち破って迎えにきたお前みたいな前例もあるんだ、因幡が死んだって確証もない。いつかまた、きっと会えるさ」
その言葉で、ようやく金魚の胸をせき止めていた水門が開かれていきます。うりゅ~っと滲んでいく瞳で天を仰いだ彼女は、大声で泣き始めました。
それはもう、鼻水やら何やらでデロデロな泣き方でしたが、頭夜は隣に並んで泣き止むのをずっと待ってあげました。
***
「それじゃあ、監視役の引継ぎはこんなところ。あなたなら心配いらないと思うけど、この世界の事お願いするわ」
ところ変わってここは魔女の庵。深海の魔女は契約をまとめたものをクルクルと巻き取るとソファに腰掛ける男にぽんと手渡しました。
重要な書類であるにも関わらず、マオはそれを無造作に受け取って肩なんか叩き始めます。ぶはぁっとため息をつくと背もたれに体重をだらしなく預けました。
「これで風来坊ごっこもおしまいか、我ながらなんでこんな七面倒くさいこと引き受けちまったかな」
「この座を譲って欲しいと望んだのはあなたでしょう。これで別世界を探知する権限が得られるのだし。お茶のおかわりはいかが?」
「そのお茶ってのも監視者の条件なのか?」
ガラじゃねーなんてぼやくマオに、深海の魔女は二杯目を注ぎながらさらりと言います。
「何度も言うようだけど、くれぐれも金魚の動向には目を光らせておく事。……あの子が『ハイディメンション・メタウェポン』を手にしている以上はね」
その言葉で、マオは妹の腰に下げられている青い刀を思い浮かべました。城の宝物庫で長いこと眠り、蒼穹刀と呼ばれていたそれは、世界の隔たり(=次元)に干渉できる唯一無二の能力を持つ刀だと言うのです。新米監視者はどうにも分からないと言った風に首を傾げます。
「なんだっけ、メタポン? そんな危険な武器なら取り上げときゃいいじゃねーか」
「世界が繋がるのもそう悪いことばかりじゃないでしょう。少なくとも私はあの子を見てそう思ったの。やり過ぎないよう、そしてフォローするために監視者が居るんだから」
淡々と部屋の整頓を終えた魔女は、小さなトランクをパタンと閉じると扉に手を掛けます。マオはどうしても好奇心を抑えることができませんでした。
「なぁ魔女さん。あんたはこれからどこに行くんだ?」
魔女は足を止め振り返ります。あまり感情を表に出すことのない彼女は、少しだけ微笑んでいました。
「後任もできた事だし、私自身の物語を終わらせに」
はぐらかされたのでしょうか。それとも
いえ、これ以上深く干渉するのは『ただの一世界の住人である自分』には得策ではないでしょう。そう判断したマオは、肩越しに手をヒラヒラと降りました。
「はいよ、こっちの世界は任せときな」
その時、棚に置かれた置き時計がコチッと正時を指します。何となしにそちらに視線をやったマオは、時止めの能力を持つ実直な男の事を思い浮かべました。痛ましそうに目を伏せると独り言をつぶやきます。
「それにしても、金魚にはつらい結果になったな」
とっくに出て行ったと思っていた魔女の、クスリと笑う声が聞こえました。驚いてそちらを振り返ると、彼女は軽やかに言います。
「確かに『白ウサギ』は消滅した。だけど――」
***
再び場面は夕焼けの丘へと戻ります。嗚咽を漏らして泣き続けていた金魚は、カサッと背後からの足音を聞きました。ピクッと反応し涙を拭う手を止めます。
「あ……!」
そちらを振り向いた頭夜の驚いたような声が隣から聞こえてきます。
それでも振り向くことができませんでした。期待だけが胸をバクバクさせます。この、気配は
「あぁ、本当に君の言う通りだった」
落ち着いた穏やかな声が心臓を殴りつけました。
くしゃくしゃな顔でようやく振り向いた金魚の視線の先で、その人は目元にシワが寄る、あの優しい笑顔を浮かべていたのです。
「この夕焼けは見事だな」
――確かに『白ウサギ』は消滅した。だけど、外部から名を与えられた概念は、個のキャラクターとして『この物語の因幡』になったのよ。
3章/箱庭の隣人 おわり
おとぎの国の金魚姫 紗雪ロカ@「失格聖女」コミカライズ連載中 @tana_any
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