水底の灯
陸棲アメフラシ
水底の灯
私は眠るのが怖い。
今日の私は何一つ積み上げていなくて、今日の誰かは何かを積み上げている。
時間が流れるのが怖い。無意味なことをしているのは分かっている。何かしなくてはならないけれど、体を起こすよりも先に未来から込み上がる不安に押し潰されてしまう。酒に溺れる勇気も煙草を吸う度胸もなく、絵にかいたような社会不適合者像にすら届かない。
半開きの瞼には揺れるつり革が映り、何度目かの高田馬場に止まった。人がなだれ込む。スーツ姿の男が私の前でつり革を握った。
新入社員だろうか。バインダーをめくっては小声で暗唱している。あぁ、彼は懸命に頑張っているな、私は胃が奈落に落ちるような、寒気に似た気持ち悪さを堪える。私は頑張れなかった。環境に恵まれていたにもかかわらず、私は折れてしまった。こみあげてきた胃酸を上へ向いてやり過ごす。私は何をやっているんだろう。どこかへ行くわけでもなく、何かをするわけでもなく、山手線に座り、ぐるぐると中途半端な自傷行為を続けている。こんなことをしている間にも目の前の新入社員は業績を積み上げ、金を稼ぎ、着実に未来へ歩みを進めている。
何かしなくてはならない。それは分かっているけれど、何をしたらいいのかわからない。アルバイトでもしようか、いっそ遠い土地へ行ってみようか、ぼんやりと思い描くけれど、体は動かない。今を変えてくれる劇的な何かを求めているのに、自分からは探す気力もない。
電車が池袋で止まった。新入社員は人の波に流れ降りていく。電車が動き出し、私はようやく視線を戻した。
人のいなくなった車内には私と彼しかいなかった。彼は金髪のショートボブで時代錯誤なラウンド型サングラスをかけていた。半袖のパーカーに足首の出たパンツ、小綺麗なスニーカーは修繕の跡が伺える。愛嬌のある口元のホクロのせいだろうか、彼は柔和な雰囲気を纏っていた。線の細い中性的な外見がうつらうつらと船を漕ぐ度、足元のリュックサックと大きな袋が揺れる。船を漕いだ末、彼は手すりへ頭をぶつけた。鈍い音が響き、銀色の頭を抱える。
彼は周囲を見回し私と目が合った。私は俯く。人と話すような気分じゃなかった。思い返せば私の人生は酷く内向的なものだった。他人と話せるなら私はこうなっていなかっただろう。後悔の暗雲が頭と胸を覆う。息が苦しい。蹲ると涙が零れてきた。どうして、嫌だ、なにもしたくない。幸せになりたいわけではない、ただ辛い今から逃れたかった。けれどどこに逃げても辛い毎日は変わらなくて、どんどん惨めになっていく。
電車が止まる。開くドアに合わせて足音が遠のいていく。顔を上げると荷物だけが残され、彼の姿はなかった。私は安堵の息を漏らす。彼がいてもいなくても暗雲は消えないが、それでも一人でいることに安心感があった。扉が閉まり始める。荷物はどうしたのだろうか、と頭の片隅によぎると同時に、彼が飛び乗ってきた。息を切らせた彼は私へソーダ缶を差し出した。
「あげる」
電車が走り出す。咄嗟に声の出なかった私は受け取ることしかできなかった。彼は元の場所へ座り私を眺めている。冷たい缶と同じく、私の背中は汗をかいていた。疑問はいくつもあったが、考えるのは面倒だった。私はただ缶を開け、一口呷った。口の中に冷感と刺激が満ちる。
「おいしい?」
私は首を振った。
「苦手です。炭酸とか、梅とか」
「じゃ、無理して飲まなくていいよ」
彼はポケットを漁り、飴を差し出してきた。形は溶けて楕円になっている。
「いらないです」
「そっか」
彼の後ろに旅行会社の看板が流れる。北への旅行案内だった。受付期間はとうに過ぎていた。私がソーダ缶に口を付けないでいると、ねぇ、と彼は前置きし、ラウンド型サングラスを下にずらした。
「君は生きてて楽しい?」
胸が詰まる。上手く息が吸えなくて、私は言い返すこともできなかった。私に浮かぶ暗雲は僅かに赤みを帯び、静かに稲光がちらつく。
「……あなたには関係ない」
これが精一杯だった。彼は飴を口に放り込むとリュックサックを漁り、ランタンを手に取った。随分と古いランタンだった。煤で汚れたガラスのカバーに、やや黒みのある暗い赤褐色のフレーム。重量を感じさせる外見とは裏腹に彼は軽々と持ち上げ、私の隣に座った。
「私に関わらないで」
彼は話を聞かない。マッチを擦り、小さな火を移す。淡い光がランタンに灯る。
煤けたガラスに揺れる炎が映り、私の視界を満たした。
「これは作ったばかりでね。今日ずっと、見せる相手を探してた」
炎の向こうには青空を映す湖が広がっていた。波紋一つない鏡面はその身に雲を漂わせ、太陽を浮かべている。湖畔には木々が生い茂り、時折獣の姿が伺えた。私は立ち上がった。立ち去ろうとする腕は彼に摑まれる。
「君も劇的な何かを探してる。違うかい。退屈で辛いことばかりの今を壊して、別の世界に連れていってくれるような何かを」
ランタンを揺らす。炎の向こう、飛び立つ青鷺の翼が太陽を遮った。羽根が落ち、鏡の水面に波紋を産む。人の往来が続く世界と比べて、ランタンの中の世界は静かで、神秘的で、私の心は強く惹きつけられた。今と違う何かだったからかもしれない。物珍しさや新しい物に飛びつく幼児性だったかもしれない。けれど疲弊した私の弱い心は新しい逃げ場を見つけてしまった。
「かつて僕の人生を変えてくれた灯がいたように、今度は僕が君の人生を変える灯になろう」
彼の瞳は炎の向こうに見える湖と同じように静けさに満ちていた。私は生唾を呑みこんだ。運命などという曖昧な言葉へ簡単に身を任せ、劇的な何かに流されてみたくなってしまっていた。惰性のまま、私は席へ座り込む。彼は手を離し、ランタンを揺らす。
『—-君は湖に寝転がっているんだ』
彼が柔らかい低音で言葉を紡ぎ始める。炎の向こう、羽根の落ちた波紋の中心には人影が浮かんでいた。
『空には夕焼けに照らされた鱗状の雲が広がり、煙草の先に灯る火に似た太陽は遠のいていく』
彼の言葉に合わせ、ランタンの中、炎の向こうの景色がうつろう。
『腹を浮かせ、体の力を抜くと湖の流れが緩やかに君を運んでいく。ずうっとそんなことをしていると眠くなってくるんだ』
うつら、うつら、と彼は船を漕ぐようにランタンを揺らし、人影は流されていく。陽は遠のき、空が暗くなる。
『体はいつしか湖から落ち、小さな波紋だけが残る』
人影が沈み、水面から消える。波紋は大きく広がり、湖全体を波立たせた。
『口の端からは気泡が昇り、開きかけた瞼は水で滲む。暗い水底へ落ちていくんだ。もがく気力も起きない』
炎の向こうに広がる闇に得も言えぬ不安を覚え、私は胃が奈落に落ちるような、寒気に似た気持ち悪さがこみあげてきた。なぜ苦しくなるのか分からなかった。
『まるでまどろみの連続のようで、永遠に眠りは訪れない。ただ無意味な時間と共に落ちていく』
嫌だ。私は眠りたい。まどろみの連続を越えて、思考を止める時間を味わいたくて仕方がない。この気持ち悪さを味わいたくない。未来の不安も己の弱さも感じたくない。
『長い長い時を経て、君は水底へたどり着く』
炎の向こうは完全な闇だった。冷たく果てのない場所。私は今、酷い顔をしているのだろう。もうやめて、言葉よりも先に彼の肩を揺すっていた。
「本当に辞めていいのかい」
私は頷く。
「痛みから目を逸らしていては水底へ落ちるだけだよ」
「そんなことわかってる。でも痛みを堪える力はないの」
「痛みはすぐ消えるのに」
「消えるとは限らない。ずっと苦しい痛みが続くかもしれない」
「目を逸らし続ければ溺れるような苦しみが続くよ。動かなければ動かないほど君は水底へ沈んでいく」
「それでも激しい痛みよりまし。もう私は疲れ切って水面に上がる力もないの」
それに、と私は言葉を続けた。
「いつか劇的な何かが私を助けてくれる」
「……怠惰な人だ」
彼がランタンを揺らす。水底へたどり着いた人影は沈殿した砂を巻き上げた。
巻き上がる粒を見て気が付く。これは砂ではなく、細かい骨の破片だった。
『堕落の終わりには大きな影が横たわっていた。水中を漂う星のような海月たちが瞬き、見上げるほど壮大な影は寝息を零す。姿は蛇のようで、幼い頃図鑑で見た恐竜のような鋭い歯が並んでいる』
炎の向こうから寝息が聞こえる。それは苦悶に耐える唸り声のようで、私の足は竦んでしまう。道理の通じない巨大な生き物と対峙した根源的恐怖と同時に、ここにいてはいけないという焦燥感が生まれた。ここが終わりだというのならあまりに寂しく怖かった。こみあげてくる胃酸を堪える私へ、彼は古ぼけたランタンを握らせた。
「ここはもう水底。這い上がるのも、埋もれるのも君の自由だ」
「私は……」
私は決断が苦手だ。だから今も、今までも流されて生きてきた。自分で決めなかったことに偉そうに文句を垂れ、勝手に折れて腐ってしまった。それでも今、後悔と不安の積み重なった水底の怖さを知った。嫌だった。
「私は水底から這い上がりたい。痛みは怖いけど、ここにいる方がもっと怖い」
「……そっか。君は偉いね」
彼は微笑んだ。彼の年齢は分からないけれど、大人びた父親のようだった。
電車が巣鴨に止まる。彼は立ちあがり、リュックサックと大きな袋を抱えた。
「そのランタンは君にあげる。もし水面へ上がる気があるなら、物語の続きを誰かに聞かせてあげて」
「どうやって? 私は物語の書き方知らないし、話せるような知人もいない」
簡単なことさ、と彼は金髪を揺らして私を見た。彼の瞳は湖と同じように静けさに満ち、遠のいたはずの陽の光を帯びていた。
「僕と同じことをすればいい。話したい人を見つけて、灯を見せ、心の内を語る。見せるのはランタンじゃなくったっていい。懐中電灯でも携帯でも、灯になるならなんでもいい」
彼の瞳は私に陽の光を分けてくれるようだった。この人に背中を押されていると考えるだけで暗雲が晴れ、胸に太陽が宿る。
「僕も灯に助けられた。だから君も灯で誰かを助けてあげて。続けていけば必ず、君は水面へ上がれる。それどころか空すら飛べるかもね」
「……できるでしょうか」
「できるよ」
彼は私の肩を叩いた。
「君は僕が話したくなった人だ。必ずできる。僕が保証するさ」
彼は私の手に溶けかけた飴を握らせた。扉が開く。彼はリュックサックを背負い、大きな袋を持ちあげた。
「ほら笑って! 不安や劣等感なんて覚えないほど、人生が忙しくなるよ!」
彼は電車を降りる。私はまだ席に座っていた。走り去る後ろ姿をあえて目で追わなかった。手元には多くの物が残されていた。ランタン、溶けかけた飴、サイダー缶。扉が閉まり、電車が動き出す。私はサイダー缶を一気に呷った。喉が痛かったけれど、すがすがしい気分だった。
「劇的な何か。とうとう来ちゃったな」
手は震えて、喉も痛かったけれど、胸は暖かった。窓の向こうに旅行会社の看板が流れる。今度は南への旅だった。受付期間は始まったばかりで、電話番号も覚えやすかった。私は携帯を開く。覚えたばかりの電話番号を入力し、コール音を待った。電車が駒込で止まる。コール音が鳴りやまないうちに私は電車を駆け下りた。
「お電話ありがとうございます。丹波旅行代理店です」
「あの、看板を見て。旅行へ行きたいんです」
「希望はございますか?」
「できれば今すぐ。うんと遠い所へ」
〈了〉
水底の灯 陸棲アメフラシ @rikusei-amehurasi
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