雪を溶く熱、
祟
前夜
夜景の光に紛れて、雪の粒が落ちてきた。
高層の風に巻かれて、私の前でくるくると回りだす。
ふたつの粒が、じゃれるように目の前で踊ったので、思わず手で包んでしまった。
白い手の中に入った雪は消え、指の隙間から雫が落ちて、夜景の中に消えてゆく。
色とりどりで、うるさいぐらいの光の中、雫の透明さだけが綺麗に思えた。
小さくなってゆく淡い雫を見続けることなく、私は静かに目を閉じた。
あの雪のように、変わってしまっても、いっしょになることができたなら――
思わずにはいられなかった感傷を抱き、上から眺めていた施設から目を離した。
私は笑顔で、彼が来てくれるのを待ち望む。
柵のない屋上の端から離れ、扉が開かれるのを待ち続ける。
厳重に施錠されていた鍵は、開け放っておいた。
夜景に慣れた目に、簡素なドアノブが冷たく映る。
雪が積もりだした頃。
突然、悲鳴に似た音を立てながらドアノブは回りはじめた。
鈍い輝きを放ちながら動きだし、扉が開かれてゆく。
眼前に、驚き目を見開く懐かしい顔が広がった。
ああ、まだ誰からも見られたことのない姿を、この人に見せることができた。
慌てて目をそらす彼に、ゆっくりと近づいてゆく。
「ひさしぶり、会いたかったわ」
今や、すぐそばにいる彼は、背を向けて私を見ないようにしていた。
「どうして、見てくれないの」溢れそうな感情を堪えて、彼の背に手を当てた。
彼は、答えてくれなかった。
「なぜ、出席してくれないの」沈黙と、彼の荒い息づかいが聞こえてくる。
「ねえ、こっちを見て」衣擦れの音が響いていた。
明日の結婚式のための白い衣装が、彼の無骨な作業着に当たる。
「俺には、それを見る権利はない」搾り出すような彼の声が届いた。
「あなたに最初に見てほしかったの。祝福してほしかったの。他の誰からよりも」
「花嫁が、そんな事を言うな」寂しそうな声が聞こえた。
「でも、あなたは見てくれたわ」嬉しさのあまり、涙がこぼれてきた。
私の声に何を感じたのか、彼は息を落ち着かせてから、呆れた声でつぶやいた。
「美冬。来なければ自殺するなんて、冗談でも言うな」
本気だった。と思ったけれど、言うのはやめておいた。
私は、あの施設で最後の撤収作業をしていた彼を、電話で呼び出した。
絶対に来てくれる言葉だけを告げて、最後のこの夜に出会うのを待ち望んでいた。
大きな背中を撫でて、震えそうな声を誤魔化していると、彼が話し出した。
「明日の式は、解体に合わせたのか」
「そうね。いっそ、全部壊れてしまえばいいと思って」
すがるように、彼の背中に頬を押し当てた。
懐かしい、あの施設の土ぼこりに汚れた作業着に、雪が触れて溶けてゆく。
背中から感じる暖かさが、凍てついた体をやさしく溶かしてくれた。
「汚れるぞ。美冬」
「汚して。兄さん」
白い衣装に、彼の土の色を分けてもらった。
懐かしい、児童養護施設の空気が、私の中に入り込んでくる。
私が離れてしまった後も、そこで働いていた彼の空気を味わった。
過密状態の施設で、手の空かない職員さんたちよりも、ずっと頼りにさせてくれた彼の匂い。明日、香を焚きしめられて、別の匂いに染まる前に、嗅ぎたかった匂い。虐待児童だった過去なんて、忘れた方がいいと告げられ、去られて以来の彼の背中。ずっと頼りにしていたかった、その背中が、また私から離れてゆく。
「俺は、この街から離れる」「知ってる」
「新しい施設に行くから、ここには戻ってこれない」「だから、会いたかったの」
「式にも、出れない」「分かった。兄さんのために、特等席を用意しておく」
「美冬……」
また、呆れられてしまった。
きっと、困った顔をしてるんだろうなと思って、クスクス笑ってみせる。
ちらりと、彼は私の顔を見ると、安心したように笑って進みだした。
「俺がいなくても、大丈夫だろう。幸せになってくれ、美冬」
「うん。またね、兄さん」
肩を揺らした彼は、妙にゆっくりと歩きながら、ビルの屋上から去っていった。
私は、ここで飛び込むつもりは無かったから、去りゆく背中を見送った。
――結局、秋人って呼べなかったな。そう思いながら、屋上の端へ近づいた。
風が白い衣装をひるがえす。しんしん降る雪が、私を誘うように落ちてゆく。
ここから落ちたら、秋人といっしょになる事ができるかな。
眼下の夜景に、ビルから出て行く人影が小さく見えた。
秋人が、舞い落ちる雪を見上げて、待っていてくれている気がした。
私の幸せは、きっと。
すっと手を広げ、高層の風の流れを身に受けていると、大きな風が吹いた。
突風が、私を夜景から遠ざけてしまう。足がよろけて、屋上に倒れてしまった。
ああ、タイミング、逃しちゃったな。
静かに降る雪を見上げながら、私は目を閉じた。
果ての無い暗闇の中から、雫がいくつも降り落ちてきた。
衣装に雪が落ち、彼の土色を消すように降り積もってゆく。
❅
ビルの高層階にある式場。その控室の窓から、壊れゆく施設を眺めていた。
建物が壊され、小さな庭も跡形もなくなって、私の思い出も消えてゆく。
理性を捨てたかった夜も離れ、ありきたりの幸せに浸る日々が始まる。
私を叩いた人と同じ存在になるという、恐れを抱き続ける幸せな日々が。
どうにもならない虚無感に包まれながら、自身の白い衣装を抱き締めた。
慣れてしまった作り笑顔で出番を待ち続けていると、突然ドアが開かれた。
式場のスタッフが植木鉢を持って訪ねて来て、困惑したように聞いてきた。
「匿名の方から、美冬様に花が贈られているのですが……」
白い、不吉な花だった。死を象徴する、白い彼岸の花を受け取った。
土の中から花を咲かせるスノードロップと、彼の言葉を受け取った。
諦めと慰めと、絶望の中に希望を見出す花の言葉。
彼は、正しく私の事を分かってくれていた。
静かに涙の雫を零す私を見て、慌てるスタッフさんに花を返した。
「この花を、空けていた席に飾ってください」
滲む視界の中、うつむき揺れる白い二輪の花が部屋から去ってゆく。
きっと、あの夜、秋人は私を下で待っていてくれたんだろう。
そう思えるだけで、思わせてくれただけで、私はじゅうぶんだ。
身を包む白い死に装束を抱き締め、私はうつむきながら、次に訪れる春を想った。
雪を溶く熱、 祟 @suiside
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