逆雨《さかさめ》

真花

逆雨《さかさめ》

 逗留が半月を超えた頃から宿のお嬢さんと話をするようになった。

 湖畔にある何軒かの内からこの宿を選んだのは、お嬢さんと目が合ったからだ。火事による死者が統計開始以来一人も出ていない、水害もないと言う稀有な街があると友人に聞き、私はその街に行こうと決め、しかし泊まる所は未定のままに街に入った。無鉄砲ではない。料理店の味が、どんな前評判よりもその日の状態を察知することの方が正しく予測出来るように、宿もその佇まいを嗅いでから決める方が自分に合った宿と出会える。私は多忙でその時間的余地がない場合を除いては必ず泊まる宿を見てから決める。

 真夏の太陽に焦がされつつ大きな荷物を引いて歩き、左に湖、右に宿の列を交互に吟味していた。最初の宿は気配がどんよりとしていたのでパス。暫く行った所の二軒目は逆に開けっ広げな印象で、それはそれで肌に合わないのでパス。三軒目は硬すぎるイメージでパス。どこも客は入っていなそう。次はどうかなと辺りを見回していたら、水を打っていた、素朴ながらも凛とした女性と目が合った。

 にこりと笑った。

 鼓動が高鳴るのが分かった。だから、彼女の方に真っ直ぐ向かって行った。

「もしかして、宿をやられてはいませんか?」

「ええ、この宿です。どこかお探しでしたらご案内しますよ」

「いえ。まだ決めてないんです。もしよかったらあなたの宿に泊まらせては貰えませんか?」

 強引に口説いているような気もしたが、彼女も客商売なのだろう、動揺は感じない。

「ちょうど部屋がいています。では、ご一緒にどうぞ」

 先導されてすぐそばに建っている「飛水荘ひすいそう」に案内された。そこは彼女に相応しく、そして彼女そのもののような空気を纏っていて、当たりだ、高揚とホッとした感じが同時に生まれて釣り合って、穏やかに入り口を潜った。

「私はここで若女将をやっている、水野です。何かお困りのことなどがありましたら、何でもお申し付け下さい」

 通された部屋は湖が一望出来る三階で、広さも申し分なく、持って来た仕事をするのに丁度いい机まである。私は荷解にほどきをして、棚に物を仕舞い、机にパソコンを置いた。開け放たれた窓から舞い込む風が体の熱を持ち去ってゆく。

 私は探偵でも新聞記者でもないから、この街が燃えない、水にやられない秘密について嗅ぎ回ったりはしなかった。運がよければそれを訊く機会もあるだろうと、自分の仕事をしながら、街をよく散歩した。街は湖を囲むようにあり、東側には宿が集中していて、他の方面には商店街や学校、住宅地などがある。人が少ない訳ではないが会話をする機会はあまりなくて、まあそんなものか、宿に戻る。

 戻ると大体若女将が水を打っていた。

「お帰りなさい」

「お嬢さんは今日も水打ちですか」

「暑いですからね。水は大事ですよ」

「そうですね」

 そんな程度の会話だったのが、徐々に話す分量が増えて来て半月経つ頃にはお嬢さんは手を止めないままに世間話をするようになった。

「お帰りなさい。今日は収穫はありましたか?」

「いや。もう二週間になるけど、まだまともにお嬢さん以外の人と会話もしていません」

「誰かと会話をされに来たんですか?」

「そう言う訳でもないのですけど。対岸の学校でお嬢さんも過ごされたんですか?」

「そうですよ。中学校までは町内で、高校は少し離れたところに通いました」

「電車ですか?」

「はい。自転車で駅まで、これが大変なんですよ、坂ばっかりで、で、そこから電車です」

「私もえらい距離を通いましたよ。今じゃ信じられない」

「若いから出来たってありますよね。それと、時間が余っていました」

「確かに、働くと忙しい。まあ、世の中には長時間かけて通勤している方もいるので、そこは断言は避けましょう」

 お嬢さんは、ふふ、と笑う。

「一体誰が私達の話を聞いているんですか?」

「聞いていなくても、気持ちです」

 お嬢さんがついに笑ったせいなのか、その夜に宿の前庭まえにわで湖を眺めながら夕涼みをしていたら私服のお嬢さんが現れた。

「隣、いいですか?」

「もうお仕事終わりですか?」

「もうって、いい時間ですよ。後は当直の時間ですよ」

「どうぞ」

 お嬢さんは他人と恋人の中間の距離に腰掛ける。

「訊いてもいいですか? 秘密なら構いません。どうして期限も決めずにずっと逗留されるのですか?」

 その質問に納得した。私の疑問は彼女に訊く、それ以外はないのだ。

「いいですよ。でも、秘密ですよ」

「守ります。絶対」

 真っ直ぐな目をしている。私は頷く。彼女も頷く。

「私は、この街が火事がなく、水害もない街だと聞いて、その理由を知りたくて来たんです」

 彼女の顔が一瞬だけ強張ったような気がした。でも、瞬きをしたらいつもの彼女だった。

「どうしてそれを知りたいのです?」

「私が若いとき、妻を火事で失いました。そして、実家が洪水で流されてしまいました。両親は生きていますけど、被害は甚大でした。それで」

 私は言葉を切る。彼女が応じる。

「それで」

「半分は自分にも同じ災害が来るんじゃないかと言う不安があります。これを避けたいから方法が知りたい。もう半分は、そもそもそう言う災害がなければいいのにと思っています。だからここに来ました。それを知る方法も思い付かないままでしたけど、お嬢さんになら訊いてもいいのかなと、思って」

「そうですか」

 言った後のお嬢さんは、思案顔で、何かを知っていそう。

「教えて貰えませんか?」

「ごめんなさい。データとしてこの街が火災も水害もないのは知っているけど、それがどうしてなのかは知らないわ」

「知らないのは仕方ありませんね」

「力になれなくてごめんなさい」

「いいですよ。気長にやります」

「じゃあ、行きますね、おやすみなさい」

 お嬢さんは喋り方が急に砕けて、そして戻ったことに自分では気付いていないだろう。彼女は何かを知っている。嘘をくときはそれぞれの人の癖が出る。彼女の場合は喋り方だ。でもだからと言って、彼女を責めるつもりはない。きっと秘密なのだ。秘密を守ることを約束したのだから、それは受け入れなくちゃならない。

 もう一週間経った午前中、相変わらず新しい情報はないし、あれ以降お嬢さんとその話はしていない。部屋でキーボードを叩く。クーラーはあるのだが、気分的に窓を開けて、扇風機を回して汗をかきながら打っていた。

「山火事だ!」

 男の太い声が窓の外から飛び込んで来た。しかし山は湖のずっと向こう。確かに黒煙が立ち上っている。

逆女さかさめ、頼む」

 男の声に、お嬢さんが入り口から急ぎ足で出て来る。

凝雲こりくも曳灰ひきばいは?」

「凝雲は今呼びに行っている。曳灰はもうすぐスタンバイするところだ。両方とも着いたら携帯が鳴る」

「分かったわ。私はここでやるから、準備が出来たら教えて」

 三階から見ている場合じゃない。急げ、階段、急げ、廊下。

 玄関から外に飛び出ると、お嬢さんが湖の近くに立って、両手を掲げている。

 声をかけてはいけないと言うのは分かった。だから、十歩以上後ろで、立ち尽くした。

 湖。

 その平らな表面が少しずつ波紋を生んで、それが全体にあって、それぞれの波紋の中心から水滴が、空に昇る。

 一滴、二滴、と思ったら、もっと全部が、雨の滴になって、湖から空に降り始めた。

 いずれ大雨が空に降り注いで行く。

 雨音から、地面にぶつかる音を引いた音は、初めて聞く柔らかい音。

 お嬢さんがこれをしているのだ。人の作る逆さの雨。虹が掛かる。こんな美しいものがあるのか。

「凝雲! そろそろよ!」

「応!」

 逆さの雨が止み始める。降った先には黒々とした雲が生まれている。全ての雨を吸い取って、雲はそこに在る。

「曳灰に伝えて、準備が出来たって!」

「了解」

 最初に呼び出しに来た男が電話を掛けたら、黒雲がスーッと動いて、山火事のところに行った。

「曳灰から、予定の位置まで行ったと。凝雲、開放よろしく」

「応!」

 道中一滴の水も落とさなかった雲から、土砂降りが山火事に注がれる。誰が見てもあの火事はここで終わると思える程の、大量の水だ。

「お疲れ様。もし火が残っていたら第二陣を頼むけど、一旦解散としよう」

「了解。若女将に戻るわ」

 やり取りをして振り向いたお嬢さんと目が合う。私の鼓動が高鳴るのは最初の日とは意味が違う。すれ違う。すれ違い様にお嬢さんが呟く。

「夜、あの時と同じ場所で待っていて下さい」

 私は感動を伝えたかったが、彼女になのか誰かでいいのかが分からないままに、夜を迎えた。


 夜半は涼しい。火事は無事に鎮火したようだ。

「お待たせしました」

 お嬢さんは横に座る。同じ距離。

「どう言うことだと、思っていますよね?」

「あれが火事と水害のない理由だと、もう理解しました。恐らく門外不出の何かをしている。そして、お嬢さんがそれを知っていて、いや、出来て、私に言わなかったことについては、仕方のないことだと思っています」

「嘘をくつもりはなかったんです。でも、秘密だったんです。ごめんなさい」

「怒ってないですよ。でももし、謝る気持ちがあるのなら、もう少し教えて欲しい。もちろん秘密は守ります」

 彼女はじっと動かなくなった。そして小さく頷く。

「分かりました。秘密ですよ」

「もちろんです」

「私達の街には、三人の技術者がいます。私もその一人です。逆雨さかさめ凝雲こりくも曳灰ひきばいと言います。逆雨は女の場合は逆女とも書きますが、雨を逆に降らせます」

「見ました。美しかった」

「凝雲は、空中に舞い上がった水を雲に固定します」

「それも見ました。黒雲になりました」

「曳灰は雲を移動させます」

「不思議だったけど、目的地に移動した」

 お嬢さんはじっと私の目を見る。

「この街には三種類の技術が、それぞれの家族に伝えられています。三つ揃って初めて一つの芸になります。そしてこれは秘密なのです」

「それって、血がそれを出来るようにさせるのですか?」

「違います。血じゃないです。技術。技術こそが人が伝える最も強いものです。一族はこの技術を守っているんです」

「技術であんなことが出来るんですか?」

「そうですよ」

「どう言う技術なんですか?」

 彼女は、ふふ、と笑う。

「それは教えられないです。約束したでしょう? 秘密は守るって」

「そうでした。でも、どうして火と水の害が少ないかは分かりました。そしてそれは秘密である以上は決して真似することが出来ない物であることも、理解しました」

「目的が達成されてしまいましたね」

 私がもう宿には居なくなるのだろうと、お嬢さんは少しだけ寂しそうな目をした。その考え通りに私は次の日に宿を引き払った。


 自宅に帰って、旅の整理をしていたら、あの逆さまの雨が頭にこびりついて離れない。

 仕事と仕事の合間にも、欲している。

 それが毎日続いた。

 だから、またあの美しさを見たくて、湖畔のお嬢さんの宿に、何度も何度も泊まりに行く。お嬢さんは秘密を決して漏らさないし、私も踏み込まない。私達の距離は変わらないまま、逆雨を待つ。


(了)




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