月待台からは二つの満月が見える
文子夕夏
柚原実子の一日
「うーん、ちょっと思い当たる場所がありませんねぇ」
「いえ、大丈夫です。少し気になっただけですから」
すんませんねぇ――運転手が恥ずかしそうに笑うのがルームミラーに映った。私も笑い返してみたが、赤信号よりも注意を引く事は出来なかった。ダッシュボードのプレートに笑顔の顔写真が貼られている。
「ここは長いんですよ、捉まりたくなかったなぁ。……それにしても、一人で東京に旅行だなんて偉いですねぇ。私の孫なんて絶対しませんよ」
一七歳で一人旅をするのが偉いのかどうか、私には分からなかった。東京に暮らす友達に会いに――とか、祖父母の家があるから――とか、そういった気の利いた理由で来た訳じゃない。
不安がる両親を安心させる為、「中学生の時に転校した友達を訪ねる」、だなんて嘘を吐く私は、多分、偉い子では無い気がする。
仕方無かった。本当の理由を話したところで、「何を言っているんだお前は」と言われるだけだから。
佐々木さんは私を楽しませようと――タクシー運転手には、乗客が会話が苦ではない人種かを見抜く力も必要なんだろう――信号を待つ間、深く考えなくてもいい話題を次々と振ってくれた。
「井の頭公園には行きましたか」
「はい、あの……なんて名前だったかな。橋を渡って――」
「七井橋ですね」
「そうです、七井橋。ボートが沢山出ていました」
自分の記憶と私の体験とが噛み合った事が嬉しいらしい。佐々木さんは「そうそうそう」と何度も頷いた。
「この時期は特にボートが多く出ています。この前なんか、ボート同士がぶつかって喧嘩になっていましたよ」
この野郎、危ないじゃないか――特に怒っていたという若い男の声真似をする佐々木さんは、すぐに照れたような笑みを浮かべた。同時に信号も青色に変わり、タクシーは軽快に走り出した。
「そしたら――どうしましょう。もうホテルに向かいますか? それとも、その場所、探してみますか? 満月が綺麗に見えるところ」
腕時計に目を落とす。一五時半丁度。チェックインにはまだ早い。
「何処か……開けた場所ってありますか」
佐々木さんは「うぅーん」と唸り声を上げた。
「開けたところ開けたところ……」
別の赤信号に捉まった時、佐々木さんはハンドルに置いた人差し指をパタパタ動かすのを止めて、「それなら」と右ウインカーを出した。
「中央公園が良いかなぁ」
右も左も分からない私に、まるで自分の孫のように優しくしてくれた佐々木さんは、私が降りる時も運転席から出て来て、「今日はこの辺りを流しているから」と名刺をくれた。
「しっかりしているのは分かっているんだけど、やっぱり心配ですから」
手書きの電話番号に掛ければ、いつでも佐々木さんが迎えに来てくれるという。この日、「東京は冷たい人間が多い」なんてのは迷信だとハッキリ分かった。
何度も振り返り、大きく手を振る。ちょっと恥ずかしいけれど、誰も私の事なんて知らないから良しとする。佐々木さんはすっかり私を孫のように思っているらしく、二、三回背伸びをして、離れて行く私を見守ってくれた。
ドンドンと公園の奥へ入って行く。すぐに大きな原っぱが見えた。ニョッキリと目立つ木が立っていたので、休憩も兼ねて木陰に向かう事にした。
しばらくして、鞄の中に手を突っ込んだ。何処にしまったかなと不安になった頃、目当てのものが指先に当たった。
新聞紙に包まれているカビ臭い木箱。その中に――私が東京、武蔵野にやって来た理由がある。
手の平に収まる小さな札一枚。箱の中身はこれだけだった。絵はところどころ掠れていたけれど、それでも「芒の原に浮かぶ満月」が描かれている事は分かった。
満月の札を手に取り、表へ裏へと動かし観察してみる。家で見る時と何も変わりは無かった。触っているだけで破れてしまいそうな札を丁寧にしまい、次に木箱を引っ繰り返してみた。薄らと黒い染みが着いていた。
半年前に亡くなった祖父によれば、祖父が子供の頃、黒い染みはまだ意味を持っていた。
武蔵野。木箱の裏にはそう書かれていたらしい。
私の先祖――
今日の私のように右も左も、全ての勝手が分からない京都で、長治郎はある花札職人に雇われ、花札作りのノウハウを少しずつ……時には教えて貰い、時には見て盗み、独り立ちの日まで働き通した。
長い年月が経ち、長治郎は小さな花札屋を開いた。「
祖父は長治郎の苦労話を、劣化の激しい彼の日記を読みながら教えてくれた。趣味で古文書を解読していた祖父が一番頼もしく見えた時だった。ある日、私は「どうして柚原大太郎堂という名前なのか」と質問した事がある。すぐに祖父は意味を教えてくれた。
「柚原はそのまま柚原家の名字。大太郎とはダイダラボッチの事だ」
ダイダラボッチ――伝説上の巨人の名前だと祖父は言った。昔々、うんと昔にダイダラボッチが東京の辺りを整地する際、何歩目かで「武蔵野」を歩いたのだという。更に祖父は続けた。
「長治郎はな、元々は東京の武蔵野辺りで生まれ育ったらしい」
理由があったとはいえ、長治郎は京都の地で遙か彼方――帰れぬ武蔵野を思った。屋号を考える時、せめて名前だけは「歩いて帰れる距離にあれ」と、伝説の巨人の名を借りたのだ……祖父は、まるで長治郎の代弁者のようだった。
もう一つ、長治郎が武蔵野を愛した証拠がある。
長治郎は使う人が「柚原大太郎堂」の名を思い出すように、花札にブランド名を与えた。そのブランド名こそが、思い続けた故郷――「武蔵野」であり、日記にも名付けの理由が書かれていた。「武蔵野」最大の特徴は鮮やかな満月の札であり、他の花札屋もブランド名を真似る程には人気があった、らしい。
しかし、柚原大太郎堂の栄光は短かった。賭博に使われる花札を取り締まりたい幕府により、長治郎は見せしめに逮捕されてしまう。高い罰金を徴収され、花札を全て没収された。これを機に……彼は花札屋を止め、荷運びの仕事に従事した。
長治郎はきっと、悔しかったのだろう。「子孫が柚原家の隆盛を知れるように」と――木箱に一枚だけ満月の札を忍ばせて、今の私達に残してくれた。
時代は流れた。長治郎が生きたあの頃から、何度元号が変わったかは分からない。今日、私は柚原長治郎に代わり、「武蔵野の満月」を目に焼き付けようと思う。私の身体に流れる柚原の血が、どうにかして長治郎にその風景を伝えてくれる事を願って……。
傍目から見ればお月見の為だけに――京都から遥々やって来た私を、あの世にいる長治郎はどう思うだろう?
少なくとも、怒りはしない気がする。
時々、奇跡のような巡り合わせが訪れる事がある。札の絵に似ているような空き地を求め、辿り着いた中央公園には――「月待台」という大きな円状のベンチがあった。案内図で見付けた時、思わず身体が震えてしまった。
だけど……ここ一番の時に、私は運が無いようだった。そろそろ満月が見えても良い頃なのに、憎たらしい程大きな雲が、これでもかと空一杯に広がっている。ギロリと空を睨みながら、私は乱暴に腰を下ろした。
月待台は最初、多くの人が座っていた。でも、皆が私のように空を見上げ、溜息を吐いて……一人、また一人と帰って行く。気付けば、月待台には私だけだった。
夜風が吹いた。木は波音のようにざわめき、少し伸びた草地は私の靴を手荒く撫でた。寂しげな月待台に腰掛け、私は、
何分経っただろうか。もう一時間は経ったかもしれない。心細さもあった。それでも、月待台を離れる事が出来なかった。
京都の何処かで……長治郎はきっと、以前に見た武蔵野の月を思い出したに違い無い。
帰りたいけど、帰れない。
せめて屋号に、花札の名前に、満月の札に――長治郎は思いを託したのだろう。
私は木箱から札を取り出し、暗がりでよく見えない満月の絵を見つめた。何世紀も前に……長治郎が触った札を通す事で、武蔵野に広がる芒の原が蘇る気がした。
一瞬、強い風が吹き付けた。草木は一斉にザアザアと騒ぎ出し、私も髪を抑えて目を閉じてしまうぐらいだった。やがて風も止み、再び目を開けた時――辺りがボンヤリと明るい事に気付いた。
あの風が、あの憎たらしい雲を吹き払い……あの頃と変わらない位置で輝く満月を私に見せてくれたのだ。
そう、何も変わらない満月だ。私がいつも見上げているものと何処も違いは無い。丸くて、黄色くて、見ているだけで気持ちが安らいで。
もしかすると、いや、有り得ないとは思う。けれど、万に一つ、億に一つの可能性を挙げるとしたら――長治郎も、私と同じこの位置で、満月を見上げたのかもしれない。
月の下には立木が並び、夜の暗さがそれらを黒く塗り潰す。私は札の絵のように、立木を芒の原に見立てた。
天上の月を見て、次に札を見る。また月を見てから札をと繰り返す内に、砂埃が目に沁みた訳でも無いのに……私の目から自然と涙が流れた。
その涙は不思議だった。泣けば泣く程に清々しく、心が温かくなる気がした。月光が古びた満月の絵を、私の手に落ちた涙を照らした。涙と幸福が隣り合って座る、そんな感じだった。
見えていますか、ご先祖様。
私は札を夜空に輝く満月の横に掲げ、そう呟いた。月が一層、綺麗に見えた。
「唯今、柚原家は帰って来ました」
空の上で、喜んでくれると良いけれど――。
月待台からは二つの満月が見える 文子夕夏 @yu_ka
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