第三章 スケッチブックの運用法 3
このははリビングに取り残される形となった。
「あの、なんでしょう」
恐る恐る訊く。琴絵はキュッキュッと音を立ててサインペンを動かした。
『お二人はお付き合いされているのですか?』
「えっ……」
このはは絶句する。琴絵はスケッチブックをアップにした。
『夜に男性の家に女子がやって来るのですから、親密のはずです』
このはは慌て、なにかで顔を隠そうとしたが新聞紙しかないことに気づき、仕方なく普通に答えた。
「え、えと……付き合ってない……って、雪人君は思っているはずです」
『訊いたのですか?』
「そういうわけじゃないですけど」
『では、茜さんは?』
「ひぃゃっ I」
このははしゃっくりのような声を上げると、慌ててチラシを探し、サインペンで乱暴に書いた。
『答えないとだめですか I』
『なにもわたくしの真似をされなくても……』
『どうでもいいじゃないですか』
『よくはありません』
『だから、つ……付き合ってない……です』
琴絵はにこりとすると、今度は落ち着き払ってサインペンを動かす。
『でしたら、わたくしが桐村さんとお付き合いしてもよろしいですか?』
「え……」
このはは目を丸くした。
返事がなくなったので琴絵はスケッチブックをぱたぱたさせる。
『もしもし?』
『どっ、どうしてそんなことを!』
このはの激昂に、琴絵はスケッチブックをめくった。
『言ってみただけです』
『雪人君が困ってます!』
『そこにいませんが』
『そ、そうでした……困るに決まってます』
『困ってるのは茜さんですよね』
このはは口をぱくぱくさせると、チラシを放り出した。
「止めてください!」
『つまり、わたくしと桐村さんとお付き合いしてはいけないと』
「そうじゃなくて、そうじゃなくて……えーっと、ゆ……雪人君は、シスコンなんです! メグちゃんのことしか頭にないんです。年上は守備範囲外です!」
『しかし人間、趣味が変わることは大いにあるので』
「雪人君は頑固です! きっと!」
叫んでから、リビングを見回して聞かれなかったかどうか確認する。
やや声を潜めた。
「琴絵さん、雪人君のことが、す……好きなんですか?」
画面の向こうでスケッチブックが広げられる。
『可能性の話です』
「それくらいで訊かないでください」
『華凰学園の生徒で、わたくしのスケッチブックを真剣に解決しようとした方は他にいませんでした。興味を持つのも当然でしょう』
彼女はそう書いてから、
『もちろんわたくしは桐村さんのことをよく知りません。ですから、お付き合いを通して知ることは可能かどうか、知りたかったのです』
「本気なんですか?」
『可能性、それも将来の話です』
「じゃあ、琴絵さんは、自分が雪人君のことを好きになりそうって、思ってるんですか?」
琴絵は一瞬動きを止めると、再びサインペンで書いた。
『はい』
このははその文字を凝視していた。
やがて琴絵は『ではまた来週』と書かれたスケッチブックを示し、通信を終わらせた。
このははしばらくそのままの姿勢でいて、やがて息を吐くとアプリケーションを終了させる。
ほぼ同時に部屋から雪人が出てきた。
「なんかあったのか?」
「別に……ないよ」
「叫んでなかった?」
「ゴキブリが出たの」
「えっ、マジ I」
「嘘」
このははそう言うと、「生ゴミ片づけないと」と慌てる雪人を横目に、自分でお茶を入れた。
○
琴絵は息を吐いた。パソコンの通信ソフトの画面には「切断」の文字が映し出されていた。
それを確認してからスケッチブックを畳み、サインペンに蓋をしようとする。
と、通信ソフトに「着信」のマークがポップアップする。彼女は慌ててスケッチブックを開き、マウスをクリックした。
再びビデオ通話がスタートする。
「家庭教師は終わったかな」
やや低く、皮肉の入り混じった声音。相手は直前まで会話をしていた雪人ではなく、紀良であった。
琴絵は『無事終わりました』のページを見せる。
「ほう。そのわりには心拍数が高そうだ」
『なぜそのようなことを』
「なんとなく分かる。恋バナをした直後のようだ」
『佐々波さんは勘が鋭いから困ります』
「そっちも訊きたいとこだが置いておこう。あの二人は六麗のことを質問してこなかったか?」
琴絵は感心した。
『よく分かりますね』
「それくらい想像つく。琴絵はなんて返事をした?」
『トラブルがあったと』
「それで?」
『それだけです』
「結構。なにも全部教える必要はないし、琴絵が出かけているうちに終わったのも本当だ」
琴絵はサインペンを動かした。
『あの』
「ん?」
『今さらですが、茜さんには教えておいてもよかったのでは』
「彼女まで共犯にすることはないだろう」
『そうですね……。心苦しいですが』
画面の向こうの紀良は、ほんの少しだけだが、心配するなと言いたげな、優しさの入り混じった笑みを浮かべた。
「いざとなったら全部私のせいにすればいい」
『それは、そもそも佐々波さんに責任はありません。嫌われてしまいます』
「遠慮するな」
今度はいつもの、皮肉っぽい笑い方になる。
「嫌われ方が足りないと思っているんだ」
紀良からの通信が切れた。琴絵は心の中で紀良らしいと思いつつ、パソコンの電源を落とした。
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試し読みは以上です。
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※本ページ内の文章は制作中のものです。実際の商品と一部異なる場合があります。
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