ヒューマンライフ・イン・ムサシノ

稀山 美波

始まるのはいつも、終わるのはいつも

 何かが始まる時、何かが終わる時、それはいつも武蔵野だった。


 僕の夢が始まったのも、武蔵野だった。

 十八歳となった僕は、絵描きを夢見て東京にある美術大学へと入学した。美術について学びたいのはもちろんだったが、それ以上に東京という土地への憧れがあったのだ。


 月の光を掻き消すほど街は光に満ちて、空を覆う程にビルは高く、街を歩けば芸能人と肩がぶつかる。東京とは、無条件でそういう街だと思い込んでいた。


 だがしかし、武蔵野はその考えを一変させた。


 夜はきちんと帳が降りるし、青空も星空も仰ぎ見ることができる。芸能人は相変わらずブラウン管の中だ。正直なところ、街並みと緑が小奇麗なこと以外、僕の実家のある三重県とあまり変わらないかもしれない。


「武蔵野、武蔵野、って言うけれど。武蔵野ってのはね、ここら一帯の総称なの。なんなら、埼玉の一部だって武蔵野よ」


 唯一想像以上だったのは、この大学のキャンパスだろうか。僕が思い描いていたそれと遜色なく、教育機関と街と緑とが見事な調和を果たしていた。


「ここは小平って言うの。武蔵野、なんて呼ぶ人いないわよ。あなた一体どこから来たの」


 その調和を打ち破るかのよう、彼女はキャンパスの隅で絵具にまみれていた。頬と服とを色取り取りに汚す彼女は、打ちっぱなしのコンクリートと溢れるの緑の中、ひどく浮いていたことと思う。


 色彩に染めた真っ白な雨合羽のような服を身に纏い、色彩に染まったカンバスを見つめる彼女の横顔に、僕はしばし魅入ってしまう。長い髪を後頭部で纏めた姿はかんざしを刺す大和撫子のようであって、刃の切先のように細い目は歴戦の武士のようでもあった。


 そして、彼女の描く作品には、彼女の強く美しい姿すらを忘却させるほどの、人を魅了する何かが確かにあった。


「なにそれ。もしかして私、口説かれてるのかな」


 僕の言葉尻は、春風に掻き消される。

 だが彼女にそれは届いたようで、その細い目を更に細めて、面白くて仕方がないといった様子で笑いだした。



「口説くのはいいけどさ。私、二年生。口説き文句は敬語で頼むよ、後輩くん」


 

 僕の恋が始まったのも、ここ武蔵野だった。



「後輩くん。差し入れご苦労」


 彼女は油絵を専攻としていて、平日も休日も関係なく、アトリエに引きこもってその身とカンバスを油で浸している。アトリエの扉を開けると、目に優しくない配色たちが虹彩を叩き、油絵具特有の匂いがたちまち僕の鼻腔をつく。


「君が来てくれなかったら餓死してたかも」


 僕にとっては、すっかりそれが彼女の匂いとなっていた。

 不快と思う人間も多いかもしれないが、油特有の匂いこそ、僕の恋の匂いなのだ。彼女と交際をはじめてから約二年、僕の生活はこの匂いとともにあった。


「個展が近いからね。追い込まないと」


 最終学年となった彼女は、一般企業に就職する気なぞさらさらないようだった。大学生活と情熱と青春、その全てを彼女は油絵に捧げてきた。費やした熱量に比例するように彼女の絵は深みを増し、個展を開催するまでに至ったのだ。


「一緒の時間が作れなくてごめんね、後輩くん」


 彼女は自嘲気味に笑いながら、目尻を下げる。細い目が垂れ、目元に付いた絵の具に長い睫毛が絡んでしまいそうだった。


 申し訳なさそうに謝罪の言葉を紡ぐ彼女の唇を、僕のそれで塞ぐ。アトリエには心地よい静寂が訪れ、彼女が息を呑む音すら聞こえてきそうだ。彼女との距離がゼロとなったことで、油の匂いがより一層強くなる。彼女の頬についた絵の具をそっと撫でながら、僕はゆっくりと唇を離した。


「後輩くんは、どうするの」


 唇を合わせる度、体を重ねる度、彼女は何でもない風を装って、何でもないような質問をする。今回もそうだった。


 どうするの、とはつまり、進路はどうするのかということだ。三年生となった僕も、将来のことを考えなくてはならない。


 絵描きを志してこの大学の門を叩いたが、その熱はいつの間にやらすっかりと冷めていた。周囲の熱量との差を、才の差を、意気込みの差を嫌というほど痛感してきたのだ。


 その中心には、いつも彼女がいた。

 僕は彼女ほど絵画に打ち込むことなどできないし、あらゆるものを捧げることもできない。彼女ほど才もなければ、努力することもできない。彼女の隣にいればいるほど、その思いはより一層強くなっていった。


「そっか」


 やつあたりにも似た僕の独白に、彼女はただそう言った。

 呆れるでもなく、怒るでもなく、謝るでもなく、ただただ僕の感情を受け止めたのだ。


 僕は、彼女のようには生きられない。

 絵を描くことは諦めて、この武蔵野で、彼女のいる武蔵野で、平々凡々に働こうと思う。


「諦めることができるのって、すごいことだと思うよ。私にはできない。身が滅ぶとわかってても、生きていけないとわかってても、私には。だから、私は後輩くんを応援するよ。頑張ってね」


 僕の夢の始まった場所、武蔵野。

 僕の夢が終わったのも、武蔵野だった。



 僕は大学を卒業後、地元へ帰らず立川の企業で働くこととした。それはただ、彼女の傍にいたかったからに他ならない。人見知りの僕は経理や事務を希望したのだが、何の因果か営業部への配属となり、慣れない仕事に日々疲弊していった。


「小平よりは住みやすいかもね、立川は。同じ武蔵野だけど、ここみたいな居酒屋も人も多いし」


 その疲弊を癒してくれるのは、金曜日にこうして彼女と立川で飲み交わすことだけだった。

 彼女は大学を卒業してもなお、ひたすらに油絵に向き合った。頬と服とカンバスを、日々色鮮やかに染めている。ビールのジョッキを持つその手からは、相変わらず油の匂いが漂っていた。


「生活は苦しいけどね」


 夢に生きる、というのは中々に大変なようだった。

 個展で絵がそこそこに売れるとは言え、その儲けはほとんど画材に消え、困窮した生活をしているとのことだ。


「だからこそ、こうして飲む酒が美味いのよ」


 けれどもそれは、僕にはとても眩しく見えた。

 自嘲気味に笑いながら頬杖をつく彼女の手元には、落としきれていない絵具の跡が目立つ。その手で安酒を掴み、その口で夢を語らい、その瞳に炎を灯している。その瞳の中には、油絵と未来しか映っていなかった。それらの片隅に、小さく僕がいる。


 僕の恋が始まった場所、武蔵野。

 そこにある大衆居酒屋で、僕はそれを終わらせようとしていた。


「どういうことよ」


 僕は、彼女が眩しくて仕方がない。

 彼女のように生きれたら、彼女のように夢を追えたら、彼女のように瞳に炎を灯せたら。幾度となく、そんなことを考えた。


 だが、今は少し違う。

 彼女を彼女のままに生かせてあげられたら、彼女が夢を追うのを後押しできたら、彼女の瞳の炎を絶やさずにいられたら。そんなことばかりを考えるようになった。


「これって」


 酒の力も少々借りて、僕は募る思いを矢継ぎ早に言い放っていく。息を吸うことを忘れ、ただひたすらに言葉を紡いだ。息も絶え絶えとなったその時に、ポケットへ忍ばせた小さな箱を、彼女の前へと突き出した。



「ちゃんと、給料三ヶ月分でしょうね」



 僕の恋が終わったのも、武蔵野だった。

 そしてまた、僕の愛が始まったのも、武蔵野だった。

 


 それから数ヶ月が経って、僕たちは共に生きる部屋を決めた。

 僕たちを繋いだ『武蔵野』を名に冠する公園があることが決め手となり、府中の外れにあるマンションに住むこととした。


「あなた、ほんと武蔵野が好きよね」


 呆れた感じで、それでいて嬉しそうにそう呟く彼女を連れて市役所を訪れ、転居届と共に婚姻届を提出した。


 二十余年連れ添った彼女の姓が、ここ武蔵野で終わった。

 そして、僕と同じ姓が、ここ武蔵野で始まったのだ。


 僕らはここ武蔵野で恋人の関係を終わらせて、ここ武蔵野で家族となった。



 法律の名のもと、名実ともに家族となったが、関係はこれまでとさほど変わらない。彼女は油にまみれ、僕は汗にまみれる。彼女は絵と僕を愛し、僕は彼女と彼女の描く絵を愛した。


 窓の外から見える武蔵野は、僕たちの関係のように何も変わらない。僕らが出会った小平、僕が愛を誓った立川、僕らが愛を育んだ府中。場所は変われど、武蔵野はただひたすらに僕らを受け入れ、僕らを包み込んでいた。


 武蔵野は、何も変わらない。

 武蔵野は、これからも続いていく。



「あなた。しっかりして」


 けれど人は、武蔵野のようにはいかない。

 始まりがあれば、必ず終わりがある。

 それが人、人の生、人生というものだ。


「あなた」


 数十年と連れ添った彼女の声が、すっかりと遠くなった耳の鼓膜を僅かに震わせる。艶やかな黒色をしていた彼女の長い髪も、今ではすっかりと白く染まっている。カンバスと向き合う際は必ず伸ばしていた背筋も、今はもう見る影もない。油まみれの頬も、とうの昔に見れなくなった。


「お願い、私を置いて逝かないで」


 僕の手をぎゅうと握るその手にも、かつての張りはない。

 もちろん、あの強烈な油の匂いも、既にない。


 僕ら家族がこの武蔵野で始まってから、もう何年経ったのか、思い出すことも叶わない。それほどの長い間を、僕らは武蔵野で生きた。


 何かが始まる時、何かが終わる時。

 それはいつも、武蔵野だった。


 最後は、僕の人生がこの武蔵野で終わろうとしている。


「もしもし、ええ、ええ」


 霞みゆく意識と景色の中、彼女が携帯電話で誰かと通話している姿が見えた。腰を曲げ、慣れない操作に手を焼きながらも、必死に電話口に耳を傾けている。


「あなた、聞いて」


 それが終わると彼女は跪き、再度私の手を握った。

 その手には、先ほどにはなかった熱が帯びている。その熱からは、どこか生命力を感じる。かつての彼女を想起させる、暖かい手だった。


 何かが始まる時、何かが終わる時、それはいつも武蔵野だった。

 僕の命も、ここ武蔵野で終わる。



「今あの子から電話があって、ちょうど今産まれたって。女の子よ、あなたの孫よ」



 そしてまた、新たな命も、ここ武蔵野で始まる。

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ヒューマンライフ・イン・ムサシノ 稀山 美波 @mareyama0730

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