間違いなく君だったよ

いいの すけこ

幸せな結婚

 幸せな結婚って、何だろう。


 二人の間に、確かに愛というものが芽生えることだろうか。

 従順な妻でいることだろうか。

 家にとって、利益があることだろうか。


 だとしたら、私の結婚は幸せなものではない。


 婚礼の日に初めて顔を合わす夫との間に、愛情なんてものが芽生えるとは到底思えなかった。

 夫の全てに従う生き方は、私の心を砕くだろうし。

 私の持参金という財は嫁ぎ先にもたらされるかもしれないが、それぐらいで。

 そして娘をよその家にやることになる我が生家は、得るものなどないのだ。


 夫とは、婚礼の式が始まって初めて顔を合わせた。

 神の御前で、病める時も健やかなる時も共に歩むと誓った直後、頭から被った長いベールを上げられた。今しがた永遠の愛を誓ったばかりの夫の顔がそこにあった。

 柔らかく、どことなく幼い顔立ちの夫。

 傲慢な私の父や、堅物な長兄、神経質な二番目の兄。私が知る殿方とは全然違う顔だ。

 童顔の夫――年は彼の方が二、三歳は上のはずだけど――が、緊張した面持ちで私の顔を見つめる。

こういうひともいるのだな、と、どこか他人事のように思う。

顔に触れられたことにも、唇が重なったことにも、何の感慨も湧かなかった。 


「疲れただろう。私もさすがに緊張したな。晩餐の時間まで、ゆっくり休んだらいい」

 お互いに婚礼の衣装を解いて、改めて顔を合わす。

 誓いの言葉で一言だけ聞いた声は顔と同じく柔和で、威圧感というものがない。これが素の彼なのか、それとも迎えたばかりの妻への気遣いなのかはわからなかった。

「お気遣い、ありがとうございます」

 粛々と頭を下げた。これは私の素や性格がどうであっても、通すべき礼儀と振舞いに過ぎない。私にだってこれくらいの所作は当たり前に身についている。

 いつも父の陰に隠れていた母や、父の連れてくる縁談相手を前に淑やかに振舞う姉には、その従順さが生き方にも染みついているようだけれど。

「君の部屋に案内するよ。気に入ってもらえるといいのだけど」

「ありがとうございます」

 気に入るも気に入らないもないのだろう。嫁いできた人間に、用意された部屋にケチをつける権利など。

 

 ――口答えするな。

 

 父の苛立った声が耳に蘇る。

 受け入れて、諦めて、大人しく従って。

 そうすればこの先の生活は、きっとうまくやっていける。

「疲れてしまったかな」

「え?」

「あまり話さないから。私たち、顔を合わせたばかりだからね。緊張するよね」

 君とはうまくやっていきたいなあと、ずいぶんとのんびりした声で彼は言った。

 いい人なのだろう、と思う。

 だからと言って、夫婦としてうまくやって行けるかはわからないし。

 私も良い妻になれるかは、まったくもってわからなかった。


「さあどうぞ」

 大きな扉が、彼の手で開かれる。身を引いた彼に促されて部屋に入った。

 窓から陽の光が、燦燦と差し込む部屋。

 目がちかちかした。

 けれどそれは太陽のせいじゃなくて。

 部屋が過剰なほどに装飾されていたからだ。

 天井から吊るされたシャンデリア。部屋のあちこちに置かれた調度品。こまごまと部屋に散在する壺やら金時計やら動物の置物やらは、手入れだけでも一苦労だろう。壁には絵画が何枚も飾られていて、それを収める額縁も、掛ける壁の壁紙も、凝った模様で彩られている。

 椅子も机もベッドも、支える足が、枠が、張られた布が、これでもかと装飾を施されていた。

「気に入ったかな?」

 私は呆然と部屋を見渡す。

「なんなの、この部屋」

「気に入らないかな」

 背後からののんきな声に、私の中で何かが弾けた。 

「気に入る気に入らないじゃない!なんなの、この贅沢な部屋は!」

 礼儀も作法もかなぐり捨てて、私は彼に詰め寄った。

「知ってるわよ。この家、羽振りがいいように振舞ってるけれど、内情は財政が悪化しているって」

「ああ……。ごめんね、君を不安にさせたかな。確かに以前より羽振りはよくないけれど、君に不自由な思いをさせる気は」

 申し訳なさそうに説明する彼に、私は人差し指の先を突きつける。

「そうやって取り繕おうとして何になるの?もっと現実を見つめて、財政を見直すことね。この部屋の贅沢な調度品だって、不要なら売却でもすればいいんだわ」

 言うだけ言って黙ると、彼は瞬きを繰り返した。

「……君って、そういう性格なの?」

 その言葉に、私は我に返る。

 ――やってしまった。

「ねえ」

 顔を覗き込んでくる彼に、私は半ば自棄になって叫んだ。

「ええそうよ!私は相手が夫だろうが父親だろうが、遠慮なく言いたいこと言い散らかす、慎みのない出しゃばりな女よ!」

 一度堰を切った言葉は止まらなかった。

「父や兄がなにかと独断的に物事を決めるたびに、私はたてついたわ。自分が正しいと思えば主張したし、父たちが間違ってると思えば諫めた!そのたびに疎まれて、弾かれて、とうとう切り捨てられるように嫁に出されたわ!」


 女に生まれたからには、嫁に行くのは決まっていただろう。

 けれど生家にとって有益な縁談相手をじっくりと選ばれている姉と違って、私は早々に適当な家に嫁がされた。姉より妹が先に結婚するのは外聞が悪いと渋る意見すら押さえ込んで、実家には特に益のないこの家に嫁に出された。

「こんな妻を娶ったあなたも、ずいぶんとお気の毒ね!」

 最後の言葉は完全に八つ当たりだった。

 けれど本心だった。結婚相手は親が見つけるのが常の世の中でも、それでももっと別の、相応しい誰かがきっとこの人にもいたことだろうに。

「そうか」

 彼はそういうと、そっと私の手を取った。

「この家に来てくれてありがとう」


「え?」

「うちがあんまりお金がないの知ってても、私のところに来てくれたんだね」

「だって、それは」

「私としては、まだ十分立て直せると思うんだけど……。だけど、うちも父親があまり人の意見に耳を貸さない人でね、苦労するんだ」

 困ったように笑う彼の顔に釘付けになりながら、私は彼の言葉を聞く。

「でも、じゃあ私の考えが絶対に正しいかって言われれば、そんなの自信はない。私だってずっと、父のやり方ばっかりを見てきているからね」

 君なら、と彼は言った。

「私が間違った時にも教えてくれそうだ。一人でも多く意見を言ってくれる人が欲しいんだよ、私は」

「そん、なの」

 そんなこと、言われたことなかった。

 何を言ったって、黙れと言われ。

 お前みたいな生意気な娘は嫁の貰い手なんてないって言って、そのくせ、強引に縁談をまとめて、家族から排除したくせに。

 この人は、こんな私を、こんな何でも言いたい放題言う私を。

 だからこそ排除しないと。

「家同士が決めた縁談だけど」

 彼の手が暖かかった。

 私はゆっくり、その手を握り返す。


「私が妻に選んだのは、間違いなく君だったよ」

 こんな私に、妻になってくれてありがとうと、彼は言うのだ。

「私だって」

 顔すら見たこともない、あなただったけど。

 知ってることなんて何もない、あなただったけど。

 こんな私を受け入れてくれる、誰かのもとに行きたかった。

 

 繋いだ手に指輪が光る。

 こんなものが何の誓いになるのだろうと思って交わした銀の輪が、今はこんなにも心強かった。


 深く息を吸って、私は顔を上げた。

「ねえあなた、帳簿のつけ方は知っていて?」

「少しは」

「私も少ししか知らないの。女には不要だって取り上げられたからね。でも、こっそり、少しづつ学んでいる最中よ。生意気な女でしょう?」

 夫の前で胸を張って、仁王立ちで妻は言う。

「そんな君を選んだのは、私だよ」

 決めたのは親でしょう――と、私は笑いながら答えた。

 

 私たちは自身の意思で相手を選んだわけではないけれど、だとしたら運命とか、もっと大きなものがお互いを選んだってことだから。


 私も間違いなく、あなたを選んだんだわ。

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