彼女と一緒にいる時に、カマキリの交尾に遭遇した件
ゴンkuwa
彼女と一緒にいる時に、カマキリの交尾に遭遇した件
それは、ある種の異様な光景だった。
俺はとある植え込みに目を釘付けにされて、身動きが取れなくなった。
「どうしたの?」
彼女が問う。足を止めて、俺が見つめていた箇所を見ようと首を伸ばしている。
「いや、なんでもない」
彼女がそれを見てしまう前に、慌ててそこから目を逸らした。そして、彼女が前に進むようにさりげなくエスコートする。
「えー?なんだったの?教えてよー」
さくらんぼのような唇を尖らせながら、抗議をする彼女。見間違いだったんだ、などと適当に誤魔化し、足早にその場を後にした。
俺が目撃したのは、カマキリの交尾だった。
そしてその二匹のうちのオスカマキリの方には、頭部がなかった。メスがムシャムシャと彼を頭から齧っていたのだ。それでもオスは、健気にメスと交尾を続けようとしていた。
彼のその行動は子孫繁栄のためなのか、交尾をしたいという本能によるものなのか、はたまた彼女への愛のためなのか、昆虫に詳しくない自分には分からなかった。
「生まれ変わってもカマキリのオスにだけはなりたくない」と言っていた友人を思い出す。そんな怖いメスとつがいになるなんて考えたくもない、とビールジョッキを片手にぼやいていた。
もっとも、実際彼が当時付き合った相手は、カマキリまではいかなくても相当癖の強そうな女性だったが。
「ガン!」という音とともに、ジョッキの口から黄金色の液体がこぼれたのを鮮明に覚えている。友人は友人なりに、色々と苦労していたのかもしれない。
一方自分はというと、その頃、長い長い片想いをしていた。その彼女には想い人がいたし、俺にはなんとしてでも彼女を奪おうというような押しの強さと度胸が欠けていた。
ただ、じっと待っていた。彼女が俺に気が付いてくれる日を。彼女が、俺に振り向いてくれる日を。来る日も、来る日も。
そして、やっとその日が訪れた。
俺と彼女は今、二人でとある場所へと向かう途中だった。デートという訳ではないが、一応仲良く歩いていたつもりだ。そんな矢先に、出逢ってしまった。よりにもよって、カマキリの交尾シーンに。
タイミングの悪さに目眩がする。なぜ、今日見てしまったのだろう。
通り過ぎて離れた今も、カマキリの捕食と交尾は続いているだろう。それぞれどんな思いで、彼らはその時間を過ごしているのだろうか。
メスはとにかく腹が減っているのかもしれない。もしくは、オスに対して怒りを覚えているのかもしれなかった。
それに対して、オスは?オスはどんな気持ちで交尾を続けているのだろう?頭部がない時点で思考など存在しないのかもしれないが、否が応でも疑問が浮かんでしまう。
果たして彼は幸せと言えるのだろうか?
カマキリのメスがオスを食べるのは、妊娠に備えて栄養を得るためだと聞いたことがある。彼の体は彼女の血となり肉となり、そして彼女の腹の中にいる彼の子どものための大切な糧となるのだ。
そう考えると、ひょっとしたらそれは、彼にとっては本望なのかもしれないとも考えられた。彼女に自分の体を差し出すことは、彼の最上の愛情表現なのかも分からない、と俺は思った。
人間でも「可愛すぎて食べてしまいたい」という表現がある。ということは、
愛する相手を食べたいと思うように、生物の本能にはインプットされているのだろうか?
だとしたら彼女は?彼女は、俺を本当に愛してくれているのだろうか?一方的に俺から想いを伝えられて、なんとなく付き合って、今日この日まで来てしまったのではないか?
もし本当に俺を愛してくれているのなら、俺を食べたいとも思ってくれるのだろうか?
しばらく考えた末に、俺はついに口を開いた。
「ねえ、俺のこと喰いたいって思ったことある?」
「えっ?」
彼女は驚いた声を上げた。そりゃそうだ。余りにも唐突な質問だ。大きな瞳がさらに大きく見開かれる。
「喰いたいって…えっ?なんで?」
「いや、なんとなく…聞いてみたくて」
理由になっているか分からないが、とりあえずそう返事をした。彼女はますます首を傾げるばかりだ。
変なやつだ、と思ったかもしれない。俺が彼女だったらそう思うだろう。やらかした、という予感が頭をよぎる。
だが、彼女は頬を少し赤らめたかと思うと、俺の目を見つめてこう言った。
「うん、あるよ。食べたいって思ったこと。」
にこりと微笑んでこちらを見上げる。
意外な反応だった。だが、悪い気はしなかった。胸の中の黒い不安は、薄らいだ気がした。
そうか、と俺は思った。少しの恐れと共に、不思議と嬉しい気持ちがした。
ひょっとしたらこれが、カマキリのオスの気持ちなのかもしれない。
「食べたい」という欲望が彼女の愛ゆえにであるならば、それはやはり悦びに繋がるのだ。それほど求めてくれるのならば、自分の身を差し出すのも悪くはないと思われた。
彼女が愛してくれるのならば、彼女がそう望むのであれば。
俺は一人納得して、「ありがとう」と彼女の頭を撫でようと手を伸ばした。可愛らしい瞳が、少し潤んだ様子でこちらを見つめる。
だが、彼女はこう言葉を付け足した。
「いつも抱いてもらってるから、たまには私から夜、積極的に動くのもいいかなって」
「えっ」
今度は俺が頓狂な声を出す番だった。
正直、ずっこけた。まじか。意味が違った。そういうことじゃない。いや、そういうことでも嬉しいけれど。
しかし、その後強烈な笑いが込み上げてきた。含み笑いのようなところから始まって、堪えきれなくて腹を抱えて笑い転げた。
「何?何?え?なんで?」と慌てる彼女を見て、ますますおかしくなる。悲観的な気分が和らいで、ぐだぐだと思い悩んでいたことが嘘のようだった。
一通り笑い切ったところで、俺は先程の質問に脚注を足した。
「そうじゃなくて、物理的に。本当に食事として食べたいかって意味で」
そう言うと彼女は、
「えっ!?なんで?嫌だよそんなの!」
即答だった。なぜ食べたいと思うことがあるのか、という表情だった。「あれ?」と思った。俺は安心したような、少しがっかりした様な気分だった。
そしてそのまま「どうして?」と聞き返してみる。
「だって…」
彼女はバツが悪そうに下を向いた。そして
「だって、食べちゃったらもうあなたに会えなくなっちゃうもん。会えなくなっちゃうのは淋しいから嫌…」
と答えた。控えめな声だったが、はっきりとそう言った。俺は驚いて声を無くした。
会えなくなったら、淋しい…?彼女が…?
言葉が頭の中をぐるりと巡った。その意味が一瞬ゲシュタルト崩壊して、そしてまた戻ってきた。
彼女は、淋しいと言った。食べてしまうことで、もう会えなくなってしまうのは嫌だと。それはつまり、「食べたい」よりももっと素直な愛情の表現なのであって。
そして俺は、自分が悲愴的に考えすぎていたことを悟った。命を投げ出して差し出すのではない、二人で生きていくことが大切なのだ。
そのために今日は、こうして歩いているのではないか。一番大事なことを、危うく見失ってしまうところだった。
「そうだよな、うん、そうだ」
真実とは、時に驚くほど単純なものなのだ。こんな簡単なことにどうして気が付かなかったのか。一人で何度もうなづく俺を見て、彼女は少し心配そうに口を開いた。
「あなたは…私のこと食べたいって思ったりする…?」
おずおずと、上目遣いでこちらを見上げる。その瞳には不安の色が見て取れた。そんな彼女が愛しくて、「大丈夫だ」と伝えてやりたくて、彼女の柔らかな髪を撫でながら答える。
「そうだなぁ…じゃあせっかくだから、いつか君の胎盤を食べさせてもらおうかな」
「た、たいばん…?」
ってなんだっけ?と呟きながら彼女は、スマートフォンを手にして検索をかける。そしてその検索結果が出ると、頬を真っ赤に染め始めた。
「どう?食べさせてくれる?俺に、胎盤。もちろん、役目を終えてからので構わないから」
彼女の頬がさらに赤くなる。少し卑猥な意地悪をしているみたいな気持ちになって、口角が自然とにやりと上がった。
彼女は目を逸らしたままだ。さて、どう返事をしてくるだろうか。楽しみに思いながら反応を待っていると、
「…うん」
と小さく頷く声が聞こえた。
「…いつか、そういう時が来たら…」
蚊の鳴くような声で、そう言った。恥ずかしさからか口元を隠している。そんな様子が愛らしくて、今度こそ手を伸ばして頭を撫でてやった。
今、俺達の手には婚姻届が握られている。これから二人で市役所に行って、これを提出するところだ。役所まではあと数10メートル。この距離が、二人で歩く最初の道となるのだ。
「ねえ」
感慨に耽っていると、彼女が自分から口を開いた。目線に合うように、少し屈んで「なに?」と聞き返す。
「…手、つなご」
頬を染めながら、彼女はそう言った。見ると、その小さな手もこちら側に差し出されている。俺は
「ああ」
と言って素直にその手を握った。
この先の二人の人生がどうなっていくかなんてことは、ちっぽけな俺には保証なんて出来ないだろう。
けれど、どうか、幸多からんことを。彼女と生きていく未来が、二人にとって幸せなものになりますように。
どうか、どうか。
空を仰いで、俺は、いるかも知れない神様にそう祈った。
彼女と一緒にいる時に、カマキリの交尾に遭遇した件 ゴンkuwa @Gonzaleskuwawa
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