第三幕

私は四年生になった。相変わらず彼女とは音信不通だ。彼女の所属する風俗店のホームページには定期的に出勤の文字が並ぶ。生きてはいるのだろう。もはや心配のしの字もしなくなってはいたのだが、だからといって忘れてしまったわけではない。佳奈も相変わらず塾に来て教科書を読んだり、自習をしたり、時には私と暇を過ごしたりしている。自習を始めた時から、佳奈は私にもっといろいろなことを話してくれるようになった。家族構成の話や、幼い頃の話も聞かせてくれた。

佳奈の話を聞いていると「私は世界でも類い稀な幸福者なのかもしれない」と感じることがある。私の記憶にある限り、冷蔵庫に食べるものがなかったことはない。父に理由なく叩かれたこともない。服も買い与えてくれたし、愛をくれた。両親だけではない。親戚で集まれば皆が私を愛してくれていた。だから私も家族とみんなを愛しているし、それは今後も変わらない。

しかし佳奈は、冷蔵庫には酒と少しの調味料。服は大きなサイズの服を買い与えられ、その服が小さくなるまで着せられた。親戚は名前すら聞いたこともない。血の繋がった父のことで唯一覚えていることは母を怒鳴りつけているところ。愛を知らない少女。愛することもわからない。

愛されなければ愛を知ることはできないから。

「センセーの家の話を聞いてると泣けてくるんだ」

佳奈は言った。

「私の知らないことばかりでさ」

私が普通だと思っていたことが佳奈には普通じゃない。

思えば彼女もそうだった。高校に来なかった翌日は決まって傷が増えていたし、産婦人科に通うところを目撃したという話を聞いたこともある。彼女は当時から友達だったし、ただの噂だと思っていた。しかし体には傷があったし私の中では誤魔化し切れていない部分もあったと思う。

「やっぱり家はバレてなかったんだな」

突然後ろから声をかけられた。

「見兼。連絡がないから」

振り返って見た彼女は随分と変わっていた。髪は短くなっていたし-しかも明らかに美容室で切ったものではない-首の傷はまだそこにあった。よく見れば首だけではなく、手首や指先にも細やかで繊細な傷が広がっていた。目には治りかけのアザがあるし、口の端は切れている。

「まあなんだ。戦ってたから。心配してたの」

彼女は少し笑っているが、ぎこちない笑顔だった。

「しないと思うか」

「ちょうど手を切ってきたんだ。愛しの彼氏は蒸発しちゃったし。結局私は逃げられなかったんだよね」

ぎこちない顔でまた笑った。またしても何が起きているのか私にはわからなかった。彼女は私の世界を軽く乗り越えていく。そして何食わぬ顔をして私の前に立っている。ヤクザと関係を持っていたが蒸発してしまった男。そして目の前にいるのがその女。

「今回わかったことがあってさ。彼氏も家族もみんな信用できないんだなって。クソみたいな家から逃げ出してもがいて。死にそうな時に出会った男にも見捨てられた」

大学生になってから知ったことがある。彼女の生い立ちについてだ。あるとき、飲みの席で話してくれた。

彼女が生まれたのは私の地元から遠く離れた西日本のどこか。物心つく頃には虐待が日常茶飯事で生死を彷徨ったこともあるらしい。本人も生きていることが奇跡と冗談を言っていた。酒タバコは中学生の時に始めた。軽い急性アルコール中毒で運ばれたこともある。その頃に両親が離婚し、関東に越してきた。新しい家には複数人の男達が入れ替わり立ち替わりで入り浸り、年頃の彼女は家にいると危険だと思い、ほとんど帰らなかった。私が彼女と高校で出会ったのはその頃だ。それ以上は話してくれなかったが、知らない方がいいかもしれない。


私には彼女の肩に手をのせ慰めることしかできなかった。私はプロじゃなかった。彼女を守ることができなかった。守る義理もなかったかもしれないが、

「また会えて嬉しいよ」

守る義理はなかったかもしれないが、守ることはできたかもしれない。痛み分けができたかもしれない。

「次の時も言って」

私には何ができたのだろうか。どうやったら彼女をこんな世界から救い出すことができるのだろうか。

「もう音信不通にならないでくれ」

もう彼女を見失いたくない。友を失いたくない。

「難しいな。お前の女じゃないし」

「俺にそんな器はないな」

「なんだよ期待してたのに」

私は彼女の肩を軽く突いた。彼女の体は軽かった。悲しくなるほどに軽かった。それは痩せているからなのか、空虚だからなのか。その虚しさは私の中にも入り込んでくるような気がした。昔いとこがうつになった時、私はまだ幼くて理解ができなかった。いとこは私の父を便り二ヶ月ほど我が家に居候していた。私は大好きな親戚のお姉さんが同じ屋根の下に暮らしていることが嬉しくて毎日遊んでもらった。しかしある日、彼女が道端でつまずいてしまった。私はとっさに手を出し彼女を支えたのだが、とても軽かった。私はその時初めて「うつ」を理解した。

「腹減ってるの」

「まあまあかな。二日間くらいなんも食べてない」

「なんか奢るから、お腹に優しいもの食べに行こう」

彼女の軽さはそのいとこによく似ていた。古代の医学では人の死後、魂が抜けて体が軽くなるという考え方があった。彼女たちも生きながらえながら何かが抜け落ちてしまった。あるいは抜き出されてしまったのだろうか。

「じゃあ。肉が食べたい」

そんなに重たいもの食べたらお腹壊すだろうと忠告したが彼女は笑顔でそれを無視した。無視したかと思うと彼女の顔から笑顔が急に消え、白目を剥き私の前で痙攣を起こし倒れてしまった。そこからはよく覚えていない。私が救急車を呼んだのは間違いない。偶然にも交番の前だったために警官方が野次馬を片付けてくれていた。地面で震えるている彼女と呆然と立ち尽くす私。

救急車がつくと速やかに車の中に運ばれていった。彼氏さんもついてきてと言われるがままに救急車に乗り込んだ。ここで彼女との間柄を否定したら、また二度と会えなくなる気がしたからだ。


待合室の時計をじっと眺めていた。短い針が二周したころ、私の母と同じくらいの年齢の医師と医者ではなさそうな男が私に笑顔で近づいてきた。

「付き添いの方ですね」

はいと答えると2人は隣に座った。

「軽い貧血と栄養失調です」

「二日間くらいなにも食べてないと言ってました」

医師のネームプレートを見ると名前の下に産婦人科と書かれている。

「点滴を打って容体は安定していますので」

容体、安定、安心する言葉だ。つまり特に問題はなし。医者に見てもらうのが今の彼女には必要だったのだ。

「同棲されてからどれくらいですか」

男が急に口を開いたので私はうろたえた。

「今なんて」

「見兼麻耶さんと同棲を始めてからどれくらい経っていますかと」

「いえ。同棲はしていません」

男は何かをメモしていた。

「そうしたら。麻耶さんが全身に複数の怪我をしていることはご存知ですか」

この男はやはり医者ではないかもしれない。もしかしたら警察かもしれない。もしかしたら私が加害者だと疑われているのかもしれない。かもしれないが私の中を走り回った。

「見える限りの傷には気がついていましたが」

「そうですか。また来ます」

すると男はあっけなく質問を終え、そして立ち上がり廊下の奥に消えてしまった。

「大丈夫。念のためDVかどうか確認をしてるだけよ。恋人が妊娠をすると不安になって、その不安が暴力として出てきてしまうことがあるから」

「ちょっと待ってください。彼女、妊娠してるんですか」

「あら。まだ知らなかったのね。おめでとうございます」

医師は笑顔を作っていたが、少しずつ事のおかしな点に気がつき始めていた。私の身は潔白であることは間違い無いのだが、同時に渦中にいることも間違いなかった。

私自身の健康状態を少し確認されたあと私も病室に入ることが許された。

「お前が父親じゃ無いから安心しろよな」

彼女の第一声だった。私が父親だとは思っていなかったが、いざ言われると何故か胸が痛んだ。

「父親はわかるの」

恐る恐る声に出した。まさかこんな質問をする日が来るなんて。母が聞いたら卒倒するだろう。

「酷いこと聞くのな。あいつだよ。あいつ。無責任に消えやがって」

彼女は泣き出した。泣き出した後もまた泣いた。彼女が倒れて病院に運ばれた時、一緒に緊張も解けたのだろう。さっきの男といい医者以外の人間が彼女の傷やら色々を解明しようと動き出しているようだし、きっとこれでよかったのだ。ベッドの隣に座り彼女の手を握った。

「あいつ。宗司に擦りつけろって言ったんだ」

その言い方は子供のわがままのようだった。なにを私になすりつけようとしたのか。現段階では身に覚えがありすぎる。子供か。カバンか。その全てか。もしかしたら他にもあるかもしれない。DVとか。

「今本当に必要なこと以外は元気になったらドーナツ屋で話してくれよ。時間はあるぜ」

「自分のじゃない子供の父親になりかけてたんだぞ」

何故彼女があの夜、私を誘ったのか。一番あり得なさそうで一番納得がいく理由だったわけだ。たしかにあの夜以前も彼女とは何度も飲んでいたし、いわゆる友人だったから。特になにも考えてなさそうで都合の良い男として彼女はあいつに話をしていたのかもしれない。多少の屈辱と怒りを感じていたが、実行しなかった上に、自白してくれた友人-しかも同じ男の被害者-を責める気にはならなかった。

「今のところ医者には父親だと思われてるな。俺ら生でやったらしい」

彼女は少し笑ってくれた。

「馬鹿だな。意味もなく優しいから素人童貞なんかにされるんだよ」

彼女の肩を軽く突いたが、今度は少し重みがあるように感じた。このまま治療を受けていけば彼女は元気になれる。子供の問題があるが今回彼女のそばにいるのは医者と私だ。もしかしたら警察も。

私は面会時間ギリギリまで彼女の隣にいた。疲れていたのだろう。彼女はずっと寝ていた。私が部屋を出る時に少しだけ目を開いて私の目を見ていたが、すぐに寝てしまった。

道すがら私は自分に言い聞かせた。「全てうまくいくさ」と。

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メサイアコンプレックス けん @kengoliath

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