第二幕
「男子禁制だからここで待ってろ」
男子禁制の空間というのは実にロマンがある。男が入ることの許されない絶対領域。
この門の前からでも良い匂いを感じるのは私の思い込みではないだろう。きっとそうだ。がしかし。もし彼女のように風呂に入らず洗濯もしていないのがサンクチュアリの常だとしたら。この甘い香りはなんであろうか。そう思いあてもなく視線を動かしてみると、視線の先にコワモテの男がいた。ヤクザか。一歩また一歩とこちらに近づいてくる。どうする。私は日々摂取しているアルコールで半分溶けた頭を活性化させ、この場を切り抜ける方法を考えてみた。彼女に知らせに行くべきだろうか。でもどうやって。それらの思慮は解決をもたらさず、その男は私の横を通り過ぎ、女子寮の門など目もくれず通りを過ぎていった。その通りだ。ヤクザなんていてたまるものか。彼女だって自宅なら大丈夫だと話していたのだから。
「宗司。走れ。あとこれ持て。逃げろ。ヤクザだ」
今度はプロのヤクザが鬼の形相で彼女の後ろからかけてきていた。
人生で初めて「これを持って逃げろ」などと言われたので、私は返答に困ってしまった。「おっけー」では情けないし「わかった」では何もわかっていないのに軽々しすぎる。
「任せろ」
これが最適解だと私は思った。
走っている間、私は耐えきれず笑ってしまった。捕まったらどうなってしまうのかわからないという状況でも人は笑えるのだ。彼女も同じだった。ボニーとクライドだ。そう思った。この瞬間の我々は無敵で、たとえ弾を打たれても当たらないと思っていた。慣れ親しんだ街を二人で走り回った。肉屋と婦人服屋の間の路地、中華料理屋の看板の裏、ホテル入り口のロビーなど。足の速いヤクザを振り切るのには時間がかかった。彼女曰く、ヤクザは地元の人間ではないので振り切ってしまえばなにも問題はないとのことだった。仮にそれが間違えであったにせよ、私にできることはなにもない。しかしここで再び疑問が浮かぶ。何故彼女はヤクザが土地勘がないと知っているのだろうか。
「悪いな。共犯にしてしまった」
「逃げただけで犯罪者なの」
「運んだものがモノだからな」
ここで私はギョッとした。たしかに私はなにを持って走っていたのだろうか。恐る恐るカバンを開けようとすると彼女に止められた。視線を彼女に合わせると口をパクパクと動かしていた。「大麻だ」と言っているように見えた。大麻がどれほどの重さかは知らないが、干した草だと仮定すると、この重さなら相当な量が入っているに違いない。
「君はヤクザと関係ないんじゃなかったのか」
「私だって関わりたくなんかなかったね。あいつが勝手に置いていったみたい。今みたいに恐る恐る開けてみたらいっぱい葉っぱが入ってた」
彼女がタバコを取り出したので私は反射的に火をつけた。これは以前バイトしていた雀荘で染み付いたクセだった。ありがとうと一言述べてから彼女は続けた。
「奴らが来るって思った。そしたら示し合わしたようにベルがなってね。窓から走って逃げたんだ」
「置いてくれば良かったのに」
「あいつが置いていったものを持っていかれたら困る」
私は自分のタバコにも火をつけて深く吸い込んでから話した。
「君になんのメリットがあるの。もう会わないと言っていた元カレが置いていったものなのに」
「会えないっていったんだ。会わないとはいってない」
トンチみたいだ。
「捨てるわけにはいかないもんな」
「捨てたらあいつがどうなるかわからない」
「でもこうやって逃げたのも正解だったわけ」
「わからない」
しばらくの間、沈黙が流れた。小学生の頃、駅前を帰宅していると何をしているのか、わからない大人がいたのをよく覚えている。今まさにそれだ。どうすることもできず、ただ駅の前にある商店街の路肩に立っている。
「そういえばなんで君は、さっきの男に土地勘がないってわかったの」
「あいつがつるんでるヤクザはこの辺の奴らじゃないんだ」
となると、それはそれでわざわざ急いだ取りに来るほどには大事な物だということになる。
「宗司は帰って」
「見兼はどうすんの。一人になったら危なくないの」
「あんたは私のこと守れるわけ」
彼女は笑っていた。その手のプロからアマチュアの私が守れる自信はなかった。しかし一人にしていいものなのだろうか。
「私はあてがあるから大丈夫。宗司はそんなに顔見られてないだろうから普通に家に帰んなよ」
あれ以来、彼女とは音信不通になった。三ヶ月が経った頃、私の中の不安はだいぶ小さくなり、日常に戻っていた。しばらくの間は同年代の女性が殺された事件がないか全国の殺人事件をチェックしていたが、該当する事件はなかった。
春になった。太陽は高く登るようになり朝日が眩しい。鉄筋コンクリートの無骨な塾の前には春季講習を受けにきた生徒の自転車が所狭しと置かれていた。
「それで大学には行くの」
「ウチの親が金出すと思う」
少女はなんだかんだ必ず出席して教科書を眺めるくらいはしているため、なんとか受験を戦い抜くだけの学力はあるのだが、両親の協力というか、愛情というか、本来向けられるはずの物が依然として無い。
「でも奨学金とかもらって行こうかな」
「いいんじゃないかな。行きたいなら行くべきだよ」
「どうせ止められやしないんだけど、一人暮らしする口実になるしね」
少女は不意に教科書を閉じると鞄の中からファイルを取り出した。
「一応志望校を探してはいるんだ」
ファイルの中には各校のパンフレットとメモが入っていて、そのメモには少女の感想が書かれている。
『家賃が安いエリアが近い』
『食堂が高い割に美味しくない』
『駅 遠すぎ 坂あり』
「俺がいる大学はどう」
『センセーがいる』
少女は私にそのメモを見せてきた。
「なんで知ってるの」
「ここが地元じゃないって言ってたし、一人暮らしだし、大学生。そしたらここにいってるんだろうなって思ったの。そしたら食堂にいたから」
ポケットからスマホを取り出すと私がかけそばを食べていることのスクープ写真を見せてきた。記憶に残ってはいないが、私の大学の食堂は値段が高い割に美味しくないので、どうせならと一番安いかけそばをよく食べている。もしかするとさっきのメモも私の大学についてだったのかもしれない。
「まあ。ありかなと思ってるよ」
その時に少女の手首がちらりと見えた。切り刻まれた跡があるのは以前から知っていたが、また新しく増えている。しかも長めに見積もっても昨日の夕方ごろにつけた傷のようだった。
ちょうど昨年の今頃のことである。私は自傷というのがどれだけ大変なことなのか試してみたことがあった。歯の鋭いカッターは怖かったのでハサミの片刃を太腿に擦り付けてみた。しかしいつまで経っても出血するほどの傷にはならず、ただただ痛みだけが残った。少女にその話をしたときには
「歯が鋭くないとむしろ痛いよ」
と教えてもらったが、また試そうとも思わないし、きっと刃の鋭さなど関係なく痛いのだろう。
少女は私の一瞬の視線に気がつくと腕を引っ込めた。
「父親がさ。昨日突然部屋に入ってきて私の上に覆いかぶさってきたんだよね」
私は扉がきちんとしまっているか確認してから少女の対面の席についた。
「犬みたいに腰振ってさ。あ。父親って言っても血のつながりはなくてさ。母親と喧嘩すると欲求不満になって私のところに来るんだよね」
最悪だ。家庭とはなんだろう。絶対的な安全地帯であるべき場所が安全ではないという生活とはどんな物なのだろう。誰にも侵されることのない平静と平和があるべきなのに少女にはそれが存在しない。少女にとって家庭とは中ではなく、外なのである。
そして私は、彼女が必ず授業には遅れず出席する理由が少しわかった気がした。誰だって夕飯には遅れないように帰るように、少女は安寧を求めてここにきているのだ。
「眠かったら寝てもいいんだぞ」
塾講師としては最悪の言葉であるが、思わず口をついて出た。
「でた。職務怠慢じゃん」
彼女は私を馬鹿にして笑っていたが、その顔にはどこか安堵が浮かんでいるように見えた。私は教材をまとめると黒板に「自習」の二文字を書き部屋を出た。
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