メサイアコンプレックス
けん
第一幕
彼女はあの店を辞めていた。
ついぞ行くことはなかったがリストから名前が消えている。そもそも行く気もなかったが生存確認のような感じで定期的に見ていた時期があった。
彼女はよく言っていた。
「こんな世界、その気になれば25分で終わらせられる」
「それは流石に無理じゃないの」
「できるよ」
ベッドタウンの中心地的な駅前のドーナツ屋に呼び出された私は、このドーナツにどれだけの脂質と糖分が含まれているのか少し気にしながら味を楽しんでいた。
「にしても。パーカー貸してくれてありがとう」
「流石にこの寒さで一枚しか着てないのはやばいだろうよ」
彼女は脂質と糖分より、ポロポロと私のパーカーに崩れる生地が気になるようで、こぼれ落ちるカケラと奮闘していた。
「びっくりしたぜ。下着とジャケットしか着てないって言うから」
「洗濯してないからな」
「風呂は」
「一昨日入った」
絶賛一人暮らし中で家事に苦しんでいる身としては、家事というのは本当に労力がいる仕事で、身の手入れが我々男より多い女性はより家事の苦労が多く大変なのだろう。と納得している部分もあったが風呂に入るかどうかは自由意志に委ねられているような気もした。忙しさゆえに入ることができない場合もあるが、どちらなのか気になった。
「そんなにバイト忙しいんだ」
「まあね。昼間のバイトはそこまでなんだけどな」
私が抱えていた脂肪と糖の問題は胃袋の中に収まり、彼女はほとんどが私のパーカーに食べられたのではないかという程ドーナツをこぼしていた。そういえば高校生の頃から飯を食うのがヘタクソだったような気がする。
「昼間」
「歌舞伎町の女」
「はえー」
思わず不思議な返答をしてしまった。驚いたからではない。そんな気がしていたからだ。なんの根拠もないが、自然な流れで感じていた。
「ところでさ。お前このあと時間ある?」
私はもちろんと答えると、グラスの結露で手を拭いた。
都会に出る電車の終電は時間が早い。ドーナツ屋に召喚されたのが22時。そこで時間を潰したのが1時間半。終電は24時だ。
やや疲労感の混じる、通過電車にお気をつけください。のアナウンスを聞きながら二人でコステロを口ずさんだ。私が鼻歌を歌ったら、彼女もよく知った歌だったらしい。
ネイティブアメリカンの言葉に「太鼓がなったら祭りが始まる」と言う言葉がある。私たちも鼻歌が始まったらショーが始まった。誰もいない駅のホームで最後の電車を待つ間、盆踊りのような「ダンス」を踊った。
「素人童貞になったな」
「なに。営業だったの」
「後で金払え。プロには金を払うもんだ」
翌朝の目覚めは特別良いものではなかった。ホテルのテーブルの上に置かれた日本酒のカップには、水を求めたクモが浮いていた。
「美人局(つつもたせ)か」
「そうだな」
「そういえばプロに聞きたいんだけど、無料案内所って結局なんなの」
「だからな。プロには金を払うもんだ」
意外とこの情報に関しては対価を払う価値があるように思えた。こういう類の店を使ったことはないし、今後も使うことはないが歌舞伎町を歩くと否応なしに目につく。
「この後俺はバイトまで時間あるけど朝飯でも食い行くかい」
「いや。池袋で用事あるから解散だわ」
浮かれそうな自分を抑えつつ、覚めない酔いと戦っていた。塾長にバレるほど酔いが残っていたわけではないが子供は敏感だ。
「センセーさ。酒飲んだの」
バレた。
「いや。飲んだ」
「職務怠慢じゃん。塾長に言っちゃお」
「明け方まで飲んだのが抜けてないだけだ」
「だとしたら弱くないか」
「弱さと酒の抜けやすさは違うからな」
同じだろとつぶいやいてから少女-と言っても高校生だから4歳程度しか歳は離れていない-は世界史の問題集に戻った。
塾というのは極めて勉強ができる子か、極めて勉強ができない子が来ることが多い。この子はどっちだろうかと少し考えてみた。九九を時々間違えるが、わりと英語はできる。漢字はひどいものだが一般社会における知識のようなものは豊富だ。だがそれは勉強ができるということなのだろうか。
この少女が言うには家にいると邪魔だから塾に入れられたらしい。となると、この子は勉強をしに来ているわけではないのかもしれない。親から疎まれ、家に居られず、時間を潰すためにここにいるのかもしれない。そうなると不憫に思えてきた。
「なにみてんの」
「頭のつむじ」
「女子高生眺めるとか変態じゃん」
「そりゃ講師なんだから生徒を見るだろうよ」
「ふーん。変態ではないってことね」
「変態かどうかはまた別の問題だ」
「発情すんなよ」
こういう言い回しの仕方は彼女に似てるなと思った。というかどことなく彼女に似ている気がする。
「センセーって私のことなんて呼ぶの」
「少女」
「は。マジで言ってんならクソだよ」
「今更なんだよ」
「そういえば教室だと二人だから名前を呼ばれたことないと思って」
そういえばそうだなと思い少し考えてみた。私は人の名前を覚えるのが苦手で他の生徒の名前もほとんどほとんど呼ぶことはない。浮気をしている男が相手の女性のことを全員同じ名前で呼ぶのと同じで、ボロが出ないように「君」とか「そっち」とか適当な名前で読んでいた。
「そっちはなんて呼んでたっけ」
「センセー」
「そうだ。俺は先生だった」
「先生だと思ったことはないけどね」
「なんて呼んだらいい?」
「好きに読んだら。白田は嫌だ」
「じゃあ。なんだ。佳奈ってよべばいいのか」
「そうだね。それが多いかな」
急に名前で呼ぶのは違和感が多い。今更佳奈さんと呼ぶような関係では無いし、佳奈ちゃんも虫酸が走る。試しに佳奈と読んでみると少女は満足げであった。
「それに、私は少女じゃ無いよ。今18歳だし」
「高校二年だろ。17じゃ無いの」
「実は訳あって18歳です」
察するに家の事情なのだろう。少女から聞くところによると本当に少女だった頃は育児放棄スレスレで保健所のお世話になっていたらしい。白田と呼ぶなというのも何か理由がありそうだ。
「4歳差だと思ってたのに。3歳差か」
「まだ21なの」
私は老け顔で4〜5歳上に見られる。別のバイトをしていた頃も学生と思われていなかった。
「そうは見えないね。ヒゲのせいかな」
「ヒゲのせいじゃ無い。無くたって上に見られる」
「本当は何歳なの」
「81歳」
少女は再びクソだと言って世界史の教科書を閉じた。私は手についたチョークを払おうと思ったが、今日は黒板になにも書いていないことに気がついた。
自宅の扉の前に立つのは実に1日ぶりだった。ホテルで体はきれいになっていたし、服も汚れていなかった。なんとなく家に帰る気にもならなかったので、外で時間を潰して塾へ向かった。
「この前は何か期待させるようなことをしてすまん」
彼女からのメールだ。事後のテンションからして、向こうはなんともないものだと思っていた。むしろ私は「この人はなんとも思わないもんなんだな」と思っていたほどだった。しかし今思えば何故私を急に外に誘ったのだろうか。私を受け入れたのも何かの気の迷いだったのか。しかしその気の迷いは何故起きたのか。そんなことが私の頭の中をめぐっていた。
週末には駅前をふらつく。大学の課題は終わっていたし、時間はあったから。
駅の北口にある焼き鳥屋でタレの皮を買うのが好きだ。昔は隣に八百屋があって、もう少し賑わっていたが後継人がいないとかなんとかで店をたたんでしまった。その向かいには小さなビルがあり小洒落た飲み屋が入っている。その通りを駅に向かうと「大規模小売店」という一見矛盾して見える看板を携えた大型商業施設がある。駅前の通りには携帯ショップやファストフード店、チェーンの居酒屋など暮らしには困らない環境が整備されていて、都会ではないが不便に思ったこともない。
基本的にこの街で暮らしている。買い物もここ。バイト先もここ。大学も遠くはない。塾の生徒とは時折すれ違うし、大学で見たことのある顔も多い。名も素性もしらないが知っているという顔も少なくはない。
「見兼」
彼女がいた。目はうつろで空を見ている。何かあったに違いないが、少なくとも私が経験したことのあることではなさそうだ。私の声も届いていない。
「麻耶さん」
「うわ。宗司か。誰かと思った」
へへと笑うと表情が固まったままこちらを見据えていた。
「何かあったのか」
見れば見るほど何かあったとわかる。この時間にしては服が乱れているし、髪もベタついている。よく見るとうっすらと引っ掻いたような傷が首や頬にある。
「ちょっと茶でもしない」
また彼女に誘われるがままについて行ってしまった。話によると彼女の元彼が暴力団と関係を持っており良くないことがあったという。首の傷は痒くてかきむしったもので、これとは関係ないと説明をされた。
なにがどこまで本当の話なのかはわからないが、目の前で話される物語があまりにも自分とはかけ離れていて、笑ってしまいそうになった。堪えるのに必死で頼んだ紅茶にはほとんど手がついていない。
「それで。どうなるの」
「わからない。もうあいつとは会えない」
「警察とかに相談するってのは」
「相談したらどうなるの」
そうだ。警察はなんでも解決屋ではない。つい何かあると警察に連絡すればいいと思いがちだが、彼らだって「よくわからないけどヤクザが怖いから助けてくれ」と言われても困るだろう。しかもそれが「恋人の知り合いにヤクザがいる」程度では警察だって「さいですか。何かあったら連絡ください」としか言えない。
「何か見兼に身の危険があるわけ」
「今のところは特に」
「ヤクザなんて今でもいるんだな」
「拳銃なんて金積めば買えるらしいぞ」
私はわざわざ拳銃の話を持ち出してきたことが気になったが、考えすぎかもしれない。
「それで。今日はどうすんの。家には帰れるの」
「私の部屋は多分大丈夫。ただちょっと付き合え」
「俺は人の用事に付き合うプロだから金は払ってもらおうか」
ふざけんなと一蹴され彼女と私は席を立った。
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