お渡り様

いちはじめ

お渡り様

「今週の金曜日、歓迎会出るよな」

「ああ? ああ」

 同僚の問い掛けに、彼はチェアーの背にもたれたまま、気のない返事をした。同僚たちは中途採用された若い女子社員の話で盛り上がっている。

「それにしても雲泥の差だよ。前任の女の子は、仕事はまあまあだったけど、見た目も性格も陰気で場の雰囲気を暗くさせてばかりだったからな」

「だけどお前には何かと親切だったよな。いいことあったんじゃないか」

 話を突然振られ、慌てて体勢をもどすと「馬鹿を言え、冗談じゃない」と言い返した。しかしおかしなことに、彼には彼女に関する記憶がなかった。採用された新人の席に誰かいたことだけはおぼろげながら覚えているが、名前どころか顔も全く覚えていなかった。いや思い出せもしないでいた。


 彼女は一年ほど前、突然出社しなくなり、連絡がつかぬまま退社扱いとなっていた。彼女に関心がなかったとは言え、一年足らずでこんなにも思い出せないということがあるのだろうか。

「彼女のこと記憶にないな、グループ旅行の写真とかあったら見せてくれないか。ほら俺のアパート、火事で焼けてしまっただろう、その類が何も残っていなんだよ」

 同僚はいいよと軽く返事をすると、デスクの引き出しの中を暫く漁っていたが、「おかしいな、全員で撮った写真があるはずなんだけど、彼女が映っている写真が一枚もない……」と見せてくれたのは、古びた吊り橋を背にした集合写真だった。その時のことは思い出せたが、その橋には覚えがなかった。


 歓迎会の翌朝、彼はリビングのソファーでぼんやりとしていたが、TVのバラエティー番組がパワースポットとして紹介していた吊り橋に息をのんだ。それはあの写真の吊り橋であった。番組によれば、なんでもその吊り橋はお渡り様と呼ばれ、その橋を渡り願い事を唱えればそれが叶うという。

 翌日彼は昨夜からの雨が降りしきる中、車を飛ばした。その吊り橋は、麓から頂上の展望台まで続く山道の丁度中ほどに位置し、山道から脇の登山道に降りて暫く下ったところに架かっている。

 彼は雨合羽を羽織り、記憶を辿りながら登山道を下って行った。そして吊り橋の袂にたどり着いたが、やはり橋でのことは思い出せない。あたりは降りしきる雨と谷からの靄に包まれ、吊り橋の向こう側は見通せなかった。

 これ以上進むと、とんでもないことになるぞという胸騒ぎがあったが、彼は何かに憑かれたように雨に濡れた吊り橋をゆっくり渡っていった。

 渡り切った所で振り返ったが、彼自身に何の変化も起こらなかった。ただ絶え間なく木々を打つ雨音と、流れの増した谷川のごーという響きが聞こえてくるだけだった。思い過ごしだったか。

 彼はふっとため息をついて吊り橋を戻り始めたその時、彼の心臓が突然大きく脈を打った。彼は胸を押さえてうずくまった。

 動悸を抑えようと大きく深呼吸を繰り返すうち、彼の頭の中に何かが浮かんできた。そうだあの時ここで白装束の翁に会ったのだ。翁と交わした言葉が甦ってきた。

「……願いを申すがよい……、二度とこの橋を渡ってはならぬ……、願いが裏返ってそなたに降りかかる。努々忘れるなかれ……」

 彼は全てのことをはっきりと思い出した。彼女と関わったことを全て消し去って欲しいと願ったことを、彼女の名前と顔、そして彼女との間に起こったことを。


 彼は彼女に一方的に好意を寄せられ、しつこく付きまとわれた挙句、ストーカーと化した彼女に生活の全てを脅かされていた。思い詰めた彼は、彼女と決別すべく車で連れ出したのだが、言争いの最中に激高し、彼女を絞め殺してしまった。遺体の処置に困った彼は、この吊り橋まで死体を運びそして遺棄した。事の重大さに憔悴する彼の前に現れたのがお渡り様だった。お渡り様は彼の懇願を聞き入れ、彼から彼女に関すること一切を消し去ったのだ。再びこの橋を渡らぬという戒めを言い渡して。

 願いは成就されたのに何故と、うなだれた彼の視界が何かをとらえた。それは吊り橋のワイヤーを伝い上がってくる陶器のような真っ白な二本の腕だった。

「ギャー」という恐怖に満ちた男の悲鳴が渓谷中に響き渡った。


 数日後、彼の遺体はそこからさほど遠くない下流で発見された。そしてそこでは、偶然半ば白骨化した女性の遺体も発見されたのだが、不思議な事にその遺体は、まるで彼の足にすがりついているかのようであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お渡り様 いちはじめ @sub707inblue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ