ミクロ

上田かの

ミクロ

あんまり考えなくたって日々はそれなりに過ぎていく、今はただあの頃の続きが続いているだけで。考えれば考えるほど小さくなっていくのは多分私の心で、あの頃よりずっと、そう、ミクロになっている。

目蓋を閉じれば何度でも思い出せるのに。どうしてあの頃のことばかり思い出してしまうのだろう。

フレームレスの眼鏡の向こうに何があるんだろうって、あの頃は何も考えてなかったのに。既に散り始めていた桜の陰に、あの人は何を見ているんだろうって、そんな事考えていたなんてあの時の私は全然気づきもしなくて。ただ風があの人の柔らかな髪を翻していくのを黙って見つめていた。

ただ、なんとなく、忘れていなかった。覚えていただけなのに。


「――天野くん、君はこれから新しい職場に行くことになる」

いけない思考だと脳裏で振り切ると、私は上司の顔を見上げた。今さらの異動を君の為なんだとかほざいている狸親父の顔を。多分、睨みつけるようになってしまっている。だって、そう、体のいい左遷だから。もう34になった。今年は遂に5になるわけで。色んな意味での崖っぷちってやつだ。

「承知致しております。また、ずいぶんと思い切った異動で」

社交辞令の笑顔が崩れそうになる。本社の花形の秘書課勤務も、さすがにお局はいらないようだ。あくまでも女性は若く美しく、が求められるらしい。時代錯誤もはなはだしいとは思うけど。

実際問題こういう古い会社ってまだ多いんだろうなきっと。

「まあ君のような優秀な人材なら向こうに行ってもやれるだろう」

「お褒めにあずかり光栄です」

欠片ほども思っていないセリフはやはり浮くものだな、と私は思いながら口にした。

優秀な人材だったら普通は手放さないでそのまま本社に据え置かれるはずだろうに。結局私はただのお局様で、使えない女だったってことだよな、と。なまじ役員の色んなことを知っているから煙たがられて地方に追いやられるわけだろう。本当に、この年になってから放り出されるのはちょっとって思うけど。

……ともかく狸親父の食えない餞別の言葉に営業スマイルを浮べながら、私の後釜に座った入社2年目の後輩女子から花束を貰って、私は10年以上勤めた秘書課を後にした。

すれ違った1つ年上の秘書課の先輩が「向こうでも頑張って」と笑顔で言ってくれても、もう笑顔はひきつることしかできない。先輩の指に夏からはまったシルバーリング。唯一の救いは相手が私よりもたくましい働く姐御だったことぐらいだろう。

フレームレスの眼鏡に、見上げるほどの長身、ふわりと風になびく癖っ毛は少し茶色くて。運転があんまりうまくなくていつも課長に注意されてたっけ。笑顔がなんだかほわんとして、話すたびにこっそりどきどきしてた。1つしか違わないしちょうどいいなあなんて勝手に思ったりして。

就職してからそんな想いにすらなったことなかったからどうしていいかわからなくて迷っている間に、あっさり指輪がはまってしまった。苦いどころか始めることすらできなかった失恋なんてこんなものなのかもしれない。

――さよなら、先輩。苦い胸の痛みも、全部、忘れてしまおう。


そう思っていたのに。


本社から地方に異動になって何が大変かって、今までみたいにやってればいいってもんじゃなくて、雑用が半端じゃない量になったことだ。仕事があるのはいいんだけど、忙しすぎて、しんどい。

支店だからこそ細かな仕事が増えるわけでなんでもこなせないといけなくなるわけだ。なにしろ社員の絶対数が少ないわけで、それこそ電話番から事務まで。

でも、なんとなく、楽しい。少なくとも狸親父はいない。それに今までと違い大幅に年齢層があがって、私はお局どころかお嬢さん扱いなわけだし。

お嬢さん、とか。

狸親父が聞いたら笑い転げるんじゃないかと思うけどね。

ここでなんとかやっていく、ううん、やってみせる。それが私の意地なんだと。そう思い続けなければ到底やっていけない。もうこんな年になっちゃった悲しみはどうしてもある。

1人の部屋に帰る切なさも、寝込んでも誰もいない切なさも、諸々含めてそうやりきれない思いになるのは仕方がないことだから。


そう思っていたのに。


唯ちゃん、どうしたの?何見てるの?と同期に言われて慌てて目をそらした。ふいの突風が過ぎていくのをただ見ていただけなんだと誤魔化した。

会社の前にあった桜の木はもうすぐ散りかけで、だから、それに目を奪われただけんんだと言い聞かせた、そう自分自身に。あれは気のせい、そう、気の迷い。

大きな桜だねと呟く同期の声も耳に入らない。フレームレスの眼鏡の先にある景色は何なのだろうってそればかり考えていた。私はあの時それしか考えていなかった。

上着は肩にかけられていた。鞄は持ってない。社員証で同じ会社だってわかって、じゃあどこの部署だろうって気になって。遠くを見つめる瞳が気になった。

――あの人は何を見ていたんだろう。


そんなことすら忘れてたはずだったのに。


「はい、これ皆様にお土産です。北海道土産夕張メロンチョコです」


フレームレスの眼鏡、癖がかった髪、少しゆるめられたネクタイ。

「おお!お帰り崎島!」

「どうだったクレーム対応は!?」

「つーかおまえ土産買ってくるならもう少し高いの買ってこいよなー。知ってんだぞ公費出張で温泉宿泊まってたってネタはあがってんだからな」

「いやいや、そんなですね、たいした宿ではなくてですね……」

一斉にもみくちゃにされていくあの人を私は知っていた。というか、思い出した。

「お許しもらえないんですーとか言ってちょっと多めに向こうに滞在したって知ってんだぞ!」

「そうだそうだ!この忙しい中おまえ1人優雅にくつろぎやがって」

「……そんなわけないですって」

「独身だからってあっちで遊びまくってたんじゃないだろーな」

「彼女がいたらそもそもそんなに滞在してないですって」

フレームレスの眼鏡を押えながら困ったように笑った彼は、ようやく私の存在に気づく。

「……新しい方ですか?」


言うに事欠いて新しい方ですかはないわ、と盛大に周囲につっこまれている彼に、私は動揺を感じさせないよう細心の注意でもって頷いてみせる。

急に小娘になったみたいに怯えている、だって、彼は、あの時の。

「初めまして。天野と申します、先週本社から異動してきたばかりで」

動揺しているのが気づかれなきゃいいのにと私は笑顔を貼り付けながら言った。本当は初めてじゃないけど、とあの時の記憶を思い返しながら。

もう10年以上も前のことなのに、どうしてだろう。昨日のように思い出せるのが不思議でたまらない。

聞けなかった、通り過ぎて蓋をしていたこの思いが溢れだしそうになっている。


「よろしくお願いしますね」


さりげなく手を差し出しながら、34歳お一人様の精一杯のなけなしの笑顔を浮べた。

今度こそ聞いてみたい。


フレームレスのその向こうに何を見ていたの、と。

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ミクロ 上田かの @maanyan

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