想い出はまぼろし

前 陽子

想い出はまぼろし

 歩いていこうか……。

 けれど、目的地は無かった。

 府中駅に降り立った結衣は、いきなり込み上げて来る幻みたいな懐かしさからそう思った。目の前の全取っ替えしたような景観は、実在の幻だった。それでもビルの一角にある八百屋の看板を見つけると、懐かしさが込み上げる。屋号とロゴはテナント共通のデザインになり、そのお洒落感は不釣り合いに思えたがしばらく店の中を覗いていると、玉ねぎを袋に詰めているオジサン、……眼を擦る、……あの、あんちゃんが居た。駅舎といい、コンコースからタワーマンションに続くショッピングモール含め、屋内にいれば何処に居るのか分からない。知らない街に迷い込んだような、未来の時空に取り残されたこどもの自分が立ちすくんでいるようだった。そこには、……も一度眼を擦る、……あの、あんちゃんも取り残されていた。あんちゃんは、あのときのままの姿で結衣を見つけると、

 「ゆいちゃん、今日は店の手伝いしなくていいんだ。遊びに行こうよ。」あのときと同じように言った。

 あんちゃんとは小学5、6年が同じクラスだったが、目と鼻の先の結衣の家とあんちゃんちの路の境で学区が異なり、違う中学生になった。中学になっても、家同士の付き合いもあり、あんちゃんとはよく家の行き来をし、一緒に勉強したりゲームで遊んだりしたものだ。

 けやき並木通りを、ふたりは歩く。

 「もっと、うっそうとしてたよね、ここ。」結衣が言うと、

 「そうだねえ。ムササビがあっちから飛んできて、……ほらほら、あの穴だよ、あの穴に入ってさあ。もう何十年も前からいないよ。……もう、府中はとっくに都会さ。」あんちゃんは、淋しそうに空を見上げると、「……でも、便利だし何でもあっていいぞ!」と少し強がりを言ってみせた。

 「そうかあ。あんちゃんちのお店も流行ってるし、儲かっていいじゃない。売っちゃえば、そりゃあ高かったろうねえ。ラクできただろうにぃ。」ひょいと出てしまった会話が下世話なことに少し戸惑ったが、結衣は続けた。

 「お店、継いでたんだねえ。偉いねえ。」

 「うん。……、」眉間に皺を寄せる。あんちゃんは心配事があったり難しい話をする前、それと先生に指されるときは決まって、眉間に二本の縦皺を作った。ちっとも変わらない仕草に、結衣は可笑しくなったが、真剣な話になる前ぶりなので口を一文字に結んで我慢した。

 「……ゆいちゃんが言ったように売っちゃってやめようか、って家族会議開いたんだけどね。スーパーもたくさんあるしさあ。駅ビルにも駅前にも有名、高級スーパーだらけだよ。でも、父さんちは府中で農家を代々続けて、兼業で八百屋やって来て、……俺なんか八百屋で学校行かせて貰ったぐらいだからな。俺なんかより、兄ちゃんは医者になりたいって言うしさあ、姉ちゃんは獣医師だって

……だから学費も大変でね。笑っちゃうよなあ。農家のウチに二人揃って医者なんてなあ。そんで、売っちゃおうかってなったんだけどね。まだおばあちゃんが生きてた頃だから、『だめだあ、続けて欲しい。アタシが目の黒いウチは。』ってなってさあ。」

 あんちゃんは、開発当時の周囲の揉め事や市役所での説明会、不動産屋からツケトドケのような上等な贈り物などの話をした。あんちゃんの兄姉は双子で、お兄さんは歯科医、お姉さんは獣医師になっている。共に府中近辺で開業しているらしい。

 あんちゃんのあんちゃんだから結衣たちは、あんちゃんには内緒で『アンアン』と呼び、だからお姉さんは自然と『ノンノ』になった。それも思い出すと可笑しくなって、結衣は思わず吹き出してしまう。

 「ほんと、笑っちゃうよなあ。……だから、俺が継いだのよー。」

 あんちゃんは、結衣が笑った真意を知ってか知らないか、真剣に話を続ける。「でもよー、当初は大変だったんだよねえ。戦争だよ、戦争!スーパーとの戦い。いろんな知恵出してさあ、……地元の野菜、採れたて、農家の人呼んで顔出しして貰ったり、……今じゃあ、お得意さんやレストランだって遠い処から注文が来るんだ。」あんちゃんは右足を後ろに大きく蹴上げると、振り子のように思いっきり石っころを蹴飛ばした。ふたりは車が少ない裏通りを選び、石蹴りや「じゃんけんぽん、チヨコレート、じゃんけんぽん、……。」をしながら、公園に向かった。

 こどものくせに大人の会話をしていることに違和感はあったが、結衣は気にせずそのまま歩く。変貌した街並みに馴染めずにいたが、欅の盛り上がったコブや傷跡がそのままなのを見つけると、あんちゃんのひいおばあちゃんから聴いた話を思い出す。ひいおばあちゃんは、ヘタしたらおばあちゃんよりも若く見えて、随分長生きだった。

 「ひいちゃんがさあ、中央線は最初は府中を通る筈だったって言ってたよね。でも、鶏が卵を産まなくなる、牛の乳が出なくなる、黒い煙で洗濯物が汚れるとか言って反対したんだって……、中央線沿線の方がよっぽど早く栄えて行ったけど、……良かったじゃない、府中はすっかりいい街になったよね。」とは言ってみたものの、取り残されたのは自分だけだと、結衣は思う。

 仕事仕事!に追われ、忙しさが『出来るオンナ』の象徴だと決めつけて生きて来た。同窓会もあんちゃんたちの誘いも『くだらない時間』と馬鹿にした。懐かしさとか想い出なんて、単なる感傷で、そんなものに振り回されたく無かった。

 独りよがりになった結衣は故郷に振り向かず、友だちとは疎遠になってゆく。

 そういえば「桜を観に来いよ!みんな揃うんだ。落合先生も来るんだぞ。」

あんちゃんに誘われたことを思い出す。このあたりは桜の名所がいくつもあって、桜の季節には屋台が並び、祭りの賑わいになった。小金井公園の桜は白い壁になり、桜だらけの多磨霊園はお墓だったことを忘れる。

 何処もかしこも桜並木で、街中が“さくらさくら”になった。

 お祭りと言えば、大國魂神社のくらやみ祭りだ。


               ※

 その昔、オオクニタマノオオカミは府中に降臨し、武蔵の国を開く。

 出雲神話では、オオクニヌシノミコトと同神とされている。

 大化の改新ののち武蔵国の国府が置かれ、酒造を命じられた野口家は大神をもてなした家とされていたため現在でも大國魂神社の神人として仕える。

 例大祭では競馬式(こまくらべ)や流鏑馬が行われる。武蔵国府周辺は武士の勃興に伴い良馬が産出され、国司は駿馬を献上するため府中に駿馬を集め、馬場で検閲するようになる。東京府中競馬場があるのも頷ける。

 神職のお清めから始まり、神輿を清め、22基の山車は艶やかに登場し、6張の大太鼓は国内最大級らしくその唸るような響きは街中に轟く。クライマックスは8基の神輿、白丁姿の威勢のいい男達がこぞって担ぐ。御旅所で一泊し、翌朝本殿に戻り終了となる。

 府中っ子は盆暮れではなく、くらやみ祭りに帰省する家が多いと言う。

               ※


 昔は闇夜の中で神輿が担がれたそうだ。死人も出るほど危険な祭りだったためいつしかくらやみ祭りは暗闇ではなくなった。とひいちゃんから聴いていた。確かに怖かった。ぶつかり合う神輿からは気違い染みた怒号が飛び交い、太鼓の唸りは閻魔の叫びに聴こえた。

 公園のムクノキを仰ぎながら結衣は思い出す。

 「結衣、高校へいってみようか。」あんちゃんと結衣は、高校で再び同級生になった。「覚えてる? 三年の学園祭でさ、三十歳になったら校門に集まろう!絶対な!って、太田君が言ってさあ、……。」結衣は約束通り来たことを言うまいか悩んでいると、「知ってるぜ、……俺は約束の時間を忘れててさ、……行ったんだよ。結衣は帰り道、遠くにちっちゃく見えてさ。徹夜明けで追っかける体力なかったんだよなあ、声でも掛けてりゃよかったな。すっかりオヤジになってたかあ?」安藤は、そう言って笑った。

 ふたりは高校生になっていた。

 安藤とは小学校から中学、高校とずっと一緒だったウコシンという優等生で美人のマドンナがいた。安藤は高校生になると、いきなり「好きだ、内山、彼女になってくれ。」と言ってフラれる。男子からは小町と呼ばれた高嶺の花に、安藤じゃ足元にも及ばない。想像はついていたが、結衣は相当慰めたものだ。安藤はそれ以来、内山の話はしなくなった。結衣にも苦い思い出があった。思い出すたび、ウコシンに謝りたいと思っている。

 美術部で土鈴を作ったときだった。焼き上がりを配られると、半数以上は音が鳴らなければひび割れていた。結衣の作品はまあまあだったが、ウコシンの土鈴はしなやかで形も良く、それはそれは音色が美しかった。結衣は手に取りコロンコロンと耳に近づけていると、床に落としてしまう。展覧会に出展してみようと言った先生のお墨付きの作品は粉々になった。

 ウコシンは優等生らしく「気しないでいいよ。」とだけ言ったが、何十年経っても、睫毛が震える悲しそうな顔を忘れられないでいる。

 安藤と結衣は高校の中を突っ切り、お鷹の道へゆく。国分寺へ遊びに行くときに通る道だった。湧水地帯で夏でも冷んやりしていた。男の子たちにとってはタバコを吸う隠れ場所でもあった。

 お鷹の道・真姿湧水群はその昔、絶世の美女玉造小町が病気に苦しみ武蔵国分寺で願を掛けると、ここで軀を清めたという。

 発想の貧困な安藤は、小町を小町の池に誘った。眉間の皺はさぞかし深くなっていただろうと思う。とまた笑えた。


 小町の消息は分かっていない。

 お父さんが亡くなり転校し、府中から引っ越した。

 ……有名女子大に入ったそうだ、地方局のアナウンサーになってるらしいよ、離婚して海外にいるとか、……風の噂ばかりが舞った。

 「内山、乳癌で一昨年亡くなったそうだよ。」安藤がポツリと言った。

 結衣は弁財天に手を合わせる。

 睫毛が震える悲しそうな小町の顔が池に浮かぶ。

 コロンコロン……、微かに土鈴の音が聴こえる。


 国分寺まで歩く。

 その日、おばさんになった結衣はオヤジの安藤と朝まで呑んだくれた。

 








 

 

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