【4月12日】教区

王生らてぃ

【4月12日】教区

「ほんとうにごめんなさい」



 クロエは笑っていた。

 わたしのすぐそばで笑っていた。



「こちらこそ。ごめんなさい」



 クロエが震える声でそう言った。

 わたしも笑った。



「ほんとうに好きよ。愛している」

「わたしも愛している。テレーゼ」






     ○






 生まれたときから女だった。

 生まれたときから、男を愛せなかった。



 厳格な戒めのもと、育てられた。

 読めもしない文字の、読み方を先に教えられた。このように神に祈れと。この言葉の通りに生きよと。そうすれば、死んだ後に楽園へ行けるのだと。



「では、いま、生きているここはどこなんですか?」



 八歳のころ。『教導』にそう尋ねた。

『教導』は若い男で、そびえ立つ塔のように背の高く、角ばった身体をしていた。ぬっと見下ろすときに影の差す顔が怖かった。



「いま、生きているここは、世界です。テレーゼ」

「世界は、楽しい所ではないのですか?」

「楽しいところではありません」



『教導』はそれを説明するたびに、なぜか恍惚とした笑顔になった。



「我々は、空腹をおぼえます。我々は、悪夢にさいなまれます。我々は、人を見ると、妬み、恨み、欲望に苦しみます。しかし、楽園に行けば、そんなことを感じる必要は無くなるのです。そのためには祈りましょう。生きている間、世界で善を行えば、死後に楽園へ行けるのです。永遠の無垢を得られるのですよ。テレーゼ、あなたは信心深い。祈り、慎み、善行を重ねましょう」



 にこにこする『教導』の顔がわたしは嫌いだった。

 嫌いだった。

 大嫌いだった。男に触れられたり、話しかけられたりするだけで吐き気がした。






 十三歳になったわたしはクロエと出会った。

 クロエは隣の教区に暮らす少女で、たまたま交流の祭りのときに一緒になった。長い金髪と、緑色の瞳がとても特徴的な少女だった。同い年だったけれど、わたしよりずっと大人びたふうな子だった。



「テレーゼ。これ、知っている?」



 だけど、クロエはとても悪人だった。

 教えに反することをいくつもして、教えで禁じられているものをいくつも見聞きしていた。ある日、彼女はわたしに得意げな顔をして、銀色の円盤を差し出した。



「これ、なあに?」

「CDよ。コンパクトディスク。この中に、音楽が入っているの」

「音楽って? 聖歌や、祈りの歌?」

「アハハ違うよ。もっと素敵なもの」



 その日、わたしは悪人になった。

 もう楽園へは行くことのできないからだの人間のことだ。



 クロエは、教区の外にある禁じられた音楽をいくつも耳にしていたし、聞いたりしゃべったりしてはいけないよその言葉をいくつも知っていた。そして、行商人に賄賂を渡して、別の国の言葉で書かれた本をいくつも取り寄せていたのだ。



「駄目よ。こんなこと」

「なんで?」

「楽園へ行けなくなるわ。クロエ、これはよくないことよ」

「そう? わたしは楽園には行けなくてもいい。死ぬのは怖いことだわ」



 クロエはひゅっと口笛を吹いた。これも禁じられている行為だ。口笛を吹くと、その音色に応じた悪魔がやってくると言われていた。



「ほら。悪魔なんてやってこない。『教導』のいっていることは、ぜんぶでたらめなの」

「そんなことないわ。わたしは『教導』さまの教えを守っているから、今日まで……」

「小さいころにね。わたしの姉が死んだの。教えをよく守っていて、信心深くて、楽園に行けるって家族はみんな喜んでいた。だけど、死の床で、わたしにだけは言ってくれたの。死にたくない。真っ暗で、身体が痛い、怖い、何も見えないし聴こえない、助けて、助けてクロエって、そう言いながらぜえぜえって血を吐いて死んでしまった。わたしは、姉が楽園に行けたなんてちっとも信じられなくなった」



 クロエはよく、教会の裏庭にわたしを連れ込んで、わたしにいろいろなことを話した。



「テレーゼ。ここから逃げよう」

「ここって?」

「海を越えるの。教区を出て、どこか遠くの国へ行こう。わたしはその場所の言葉だって話せる。あなたと一緒なら大丈夫」



 そんなことできなかった。

 だけどわたしは断れなかった。クロエのことが、好きだったから。



 クロエの手を握るとどきどきした。

 クロエの髪の毛からはとてもいい匂いがした、

 クロエの声を聴くたびにいつも安心した。



 知っていた。

 女として教区の中で生まれたからには、教区の中の男たちと交わって、新しい命を育まなければいけない。男は畑を耕し、女は服を編む。それが正しい行い、それが善行。わたしの父と母も、同じことをしていた。



『教導』はよく言っていた。

 男は男を愛してはならず、女は女を愛してはならない。

 男が女を無視してはならず、女は男を拒絶してはならない。

 それは禁じられた行為であり、楽園の扉を閉ざす行為なのだと。






「テレーゼ。あなたはクロエと随分、仲が良いのですね」



『教導』がわたしを粘っこい目つきで見つめた。



「はい。彼女はよき隣人であり、わたしにとっては無二の友人です」

「ならば、あなたもまた教区にはふさわしくない信徒です」

「なぜですか」

「クロエは、楽園にはふさわしくない人間だからです」



『教導』はわたしの髪の毛を指でつまんで、くるくる回した。

 気持ち悪い。だけど拒絶してはいけない。



「クロエは異教の音楽を歌い、異教の経典や書物を読み、そしてあろうことか――男を愛することなく、拒絶したのです。テレーゼ、あなたは知っていますね。女は女を愛してはいけない。クロエがあなたを愛していることは明確な罪ですが、それを受け入れているあなたもまた罪を背負っている悪人です」



 わたしは言い返せなかった。



「『教導』さま。わたしに何をせよというのですか」

「クロエをここに連れてきなさい」

「連れてきたら、そのあとはどうするつもりなのですか」

「善き信徒になるよう、しっかりと、正しい道徳を教育しなくてはいけません。それに手を貸すというのなら、テレーゼ、あなたもまた良い人間であることができるでしょう」



 十七歳の夏のことだった。

 クロエをつれて、わたしは村を出て、逃げ出した。

 夜闇に紛れ、薄暗い森の中を抜け、怯えながら眠り、小川の水を飲み、空腹にあえぎ、逃げ続けた。どこへ行くとも分からず、ただただ、遠くへ、遠くへ、遠くへ……



「テレーゼ。あなたのことが好き」



 そして数日たったことだった。

 もう夢か現実かもわからない。お腹が空いて、意識がもうろうとする。

 クロエがわたしの手を握ってささやいた。



「わたしも好きよ、クロエ」

「違うの。わたしはあなたのことを愛しているの」



 クロエはわたしに口づけをした。

 舌を絡ませて、喉が渇いたからわたしの唾液を飲むように、樹の蜜を吸う虫のように、激しい口づけだった。わたしは抵抗する力もないので、クロエにされるがままになっていた。

 クロエはわたしの服を脱がせると、背中に腕を回し、わたしの胸にかじりついた。首筋、お腹、そして乳房を、くまなく嘗め回した。それから、わたしの陰部に指を這わせて、またわたしに口づけをした。

 その間わたしはずっともうろうとしていて、ただ口から息が漏れるままにしていた。

 クロエも身体をくねらせて、服を脱いだ。形のいい整った双丘が顕になり、わたしのそれと重なりなった。

 それはしばらく続いた。

 早く終わって、とわたしは思っていた。お腹が減っていて、何か食べたくて仕方なかったのだ。



「ごめんなさい、ごめんなさい、テレーゼ」

「ううん」



 わたしは泣きじゃくるクロエに、口づけを返した。



「わたしもあなたが好き。愛している。いつまでもこうしていたい」






     ○






 だけど、すぐに限界はやってきた。

 わたしは熱病に冒された。ぜいぜいと息が荒く、血液のひとつひとつが熱くなっていくのが分かった。



「テレーゼ、もうすぐ。もうすぐ村に辿り着くから、そこでお医者に診てもらいましょう」

「クロエ、ごめんなさい、わたしきっと悪人だから罰が与えられたのね」

「まだ、そんなことを、言っているの?」



 ははっとクロエは気丈に笑った。



 半日ほど歩いて村に辿り着いた。

 病人であるわたしを見て、新しい村の人たちはたいそう慌てふためいた。わたしを医者のところへ連れていくと、適切な手当てを受けさせてくれた。クロエはずっと付きっ切りで看病してくれた。村の人たちは親切で、少ないながらも食べ物や水をめぐんでくれた。

 わたしたちは、久し振りに安息していた。



「よかったね、クロエ」

「まだだよ。もっと遠く、教区の外に行かなくちゃ」

「どこでもいい。あなたと一緒なら、どこでも……」

「ありがとう、テレーゼ」



 わたしたちは口づけを交わし、また、ふたりの身体を愛撫しあった。

 それがいけなかったのだ。

 気が抜けていたとはいえ、誰かの家でそんなことをするべきじゃなかったのだ。



 わたしたちは同性愛の悪人として村から排斥され、瞬く間に手ひどい仕打ちを受け、追い出されてしまった。また、逃げ回る旅が始まり、その内に熱病はすぐにぶり返した。

 そうして、ようやくたどり着いた次の村でも、わたしたちの噂は既に広まってしまっていた。どこにも入ることが出来ず、人の目を避けては夜闇に紛れて逃げ回る日々。わたしの熱病がやや快方したと思ったら、こんどはクロエが苦しみだした。激しい咳をし、大きな血の塊を吐いた。






 もう限界だった。



 わたしたちは充分に罰を受けただろう。



 これ以上苦しみたくない。

 楽園に行けなくても、この苦しみを続けたくない。






「クロエ」



 わたしは道すがら、誰か旅人が落としていったのであろう、小さな短刀を手に取った。

 クロエは疲れてぐったりしていた。

 わたしはクロエを抱きしめ、口づけをすると、



「ごめんなさい」



 短刀の切先をクロエの胸に沈みこませた。

 彼女は悲鳴も苦悶の声もあげなかった。ただ、静かに刃を受け入れた。

 それからわたしは、クロエの冷たくなっていく手に短刀を握らせて、おなじようにわたしの胸にそれを突き立てた。ぐっとわたしが、その手首をたぐりよせると、鈍い冷たさと、激しい痛み。そして、遠くなっていく意識。



「もう、これ以上、苦しみたくない。ふたりで一緒に、世界から逃げましょう」



 自死。自傷。

 それは楽園への道を閉ざす、最大の悪であるらしい。



「ふふ……」



 震える唇で、クロエは笑った。



「うれしい……さいごまで、あなたと……」



 わたしは笑えなかった。

 ぼろぼろ涙がこぼれてきた。



「ほんとうにごめんなさい」



 クロエは笑っていた。

 わたしのすぐそばで笑っていた。



「こちらこそ。ごめんなさい」



 クロエが震える声でそう言った。

 わたしも笑った。



「ほんとうに好きよ。愛している」

「わたしも愛している。テレーゼ」



 そうして、わたしたちは死ぬ。

 死を以て、罪を償う。

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【4月12日】教区 王生らてぃ @lathi_ikurumi

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